久美子を乗せた達朗のハーレーは、テイラー邸の敷地内を走っていた。深い森を抜けると、一番目の門が見えてきた。門の前で一時停止し、門に設置されているインターホンを押す。次にインターホンの横にある小さなスピーカーに向かって名前を言う。門の上には監視カメラが設置されていて、テイラー邸の監視ルームのモニターにその姿が写し出されるようになっている。問題なければ門は一分後に自動で開かれる。それからまたしばらく走り、第二の門の前でまた同じことをする。第二の門を抜けると、薔薇の庭園が広がり、その先に邸宅である巨大ログハウスが姿を現す。
邸宅の前では執事が二人を出迎えていた。
「タツロー様、おかえりなさいませ。クミコ様、お久しぶりでございます」
執事の笑顔に久美子の緊張が緩んだ。
「こちらこそお久しぶりです。その節はお世話になりました。お元気そうね」
「クミコ様こそ。ラウンジで旦那様と奥様がおまちです。タツロー様、ご迷惑でなければハーレーはわたくしがガレージまでお運びいたしますが、いかがいたしましょうか」
「じゃあお願いします」
「かしこまりました」
達朗はハーレーから降りると執事にキーを渡した。
「あの、ラウンジでということは、ジョンさんは起きておられるのですか?」
久美子が執事に尋ねた。
「はい。今日はことのほかお加減がよいらしく、朝も邸内を散歩されました」
達朗と久美子は目を見合わせた。
「今回もやられたかな。仮病の達人だから、親方は」
「元々どこも悪くないってこと?」
「いや、病気なのは確かだけど、寝込むほどじゃないってことだよ。時々あるんだ、こういうことが。そうやって俺を一人で現地に行かせて、仕事ぶりを試すんだよ。工期が終わる頃、ふいに現れて驚かされる。親方はビックサプライズが大好きなんだよね?」
達郎の問いかけに執事は苦笑いした。
「めっそうもないことでございます。旦那様は今日たまたまお元気になられたのです。タツロー様とクミコ様がきてくださったおかげでございます」
「やれやれ、親方にそう言うように言われているんだね。わかったよ。そういうことにするよ。じゃあハーレーを頼みます」
二人は邸内にあるラウンジに向かった。歩きながら達郎は久美子の手を握ってきた。二人は手をつないで長い廊下を歩いた。ラウンジでは、ジョンと美由紀が紅茶を飲みながら談笑していた。まずジョンが二人に気づいた。
「おお、来たか。おかえり。クミコもよくきてくれたね。勇気がいっただろう?」
ジョンはそう言って二人に歩み寄り、久美子を抱きしめた。
「久しぶりだね、クミコ。よく顔を見せておくれ」
ジョンはそう言って、両手で久美子の頬を包んだ。ジョンの深緑の瞳がやさしく微笑んでいる。懐かしさに久美子の瞳から涙がこぼれた。
一昨年バンクーバーの空港に見送りにきてくれた時に比べると、ジョンはかなり痩せていた。持病が進行しているのは事実だろう。寝込むほどでないにしろ、灼熱のバングラデシュにはやはり行ってほしくないと思った。
「ごめんなさい…」
久美子はそう言って、ジョンに詫びた。
「いいんだよ。日本に帰る時、きついことを言ってしまったね。ミユキに反省するよう言われたよ。男と女は違うってね」
ジョンはそう言って腕の力を緩めた。久美子は傍らにいる美由紀を振り返った。
「よくきてくれたわ。日本に帰ったきり、何の連絡もないから心配していたのよ。女同士、気持ちはわからないでもないけれど…。とにかく、立ったままじゃおちつかないわ。二人ともお座りなさいな」
二人が席におちつくと、久美子の好きなカモミールティーと達郎の好きな炭焼きコーヒーが運ばれてきた。二人は早速喉を潤した。
「バンフではいろいろとありがとうございました。帰りの飛行機までチャーターしてもらって、本当にすみません」
達郎はそう言って美由紀に頭を下げた。
「ジョンのせいで休暇を切り上げたのだもの。当然よ」
「ですが、達郎さんだけならまだしも私まで…。本当にすみません」
久美子も頭を下げた。
「水臭いことは言いっこなしだ。社に行くのは明日の午前中でいいから、今日はここで夕食を食べてゆっくりしていきなさい。いいね?」
達朗と久美子は目を見合わせた。
「二人とも狐につままれたような顔をして、どうしたの?」
美由紀が笑いながら言った。
「俺たち、怒られるのを覚悟できましたから、拍子ぬけして…」
「ははは。怒ったところですでに二人でいるものを、どうしようもないだろう?子供ならまだしも、立派な大人なのだからな」
「暴走する気持ちはわからないでもないわ。私たちにも似たような経験があるから。若さゆえよね。この年になれば、それも懐かしい思い出に変わるけれど…」
「そうだな。今でこそ笑い話だが、当時はとてもつらかったよ」
ジョンと美由紀は静かに見つめ合った。久美子は二人が不倫から始まったことを思い出した。
「私は結婚自体、あまり意味がないことだと思っている。地球上で婚姻届を出すのは人間だけだ。動物はそんなことはしない。ただ求愛行動をし、交尾する。それが結婚なのだ。結婚とは所詮、人間がつくった形式にすぎない。“結婚”という儀式を行い、役所に届け出をし、法的に結婚しているという立場に置かれるだけだ。だが、多くの人間がそれを神がつくった掟のごとく錯覚し、その縛りに振り回されている。未婚者は結婚を得られないと苦しみ、既婚者は結婚を義務化し、逃れたいと苦しむ。人生で出会いが増すほど、価値観も変化する。価値観が変われば、選択基準も変わってくる。それが自然であって変わらないことが変なのだ。20年前に最高だと思って選んだ伴侶が、20年後も最高であるとは限らない。もしそうなら、それは互いにそうあってほしいと願い、そうあろうと努力した結果なのだ。素晴らしいから一緒にいるのではなく、一緒にいるために素晴らしくあろうとするのだ。その愛ゆえに」
「夫婦とは所詮は他人。思いやりと尊敬がなければ一緒にはいられない。互いへの信頼と日常の会話があってこそ、成り立つものだわ。結婚生活に、独身のとき以上の自由を感じている夫婦は、どんなに忙しくてもコミュニケーションとスキンシップを怠らない。どんな些細なことでも話し合い、どんなに遠くても連絡を取り合い、二人で決めているわね」
美由紀が補足した。
「独身時代以上に自由を感じられる結婚なんてあるんでしょうか?」
久美子が尋ねた。
「もちろんよ。私とジョンはまさにそういう生活を送っているわ。結婚したことで喜びも二人分になったし、自由も倍になったわ」
「でもそれは、経済力あってこその話ですよね?生活レベルが不労所得クラスまでいかなければ無理なんじゃないですか?」
達郎が尋ねた。
「不労所得って?」
「働かなくても食べていける収入のことだよ。労働量が完全にゼロというわけじゃないけどね。ビジネスオーナーがいい例さ。会社を経営しているが、自分が社長なわけじゃない。社長を雇って複数の会社を経営し、そこから定期的に収入が入ってくる。他には株や投資信託を売却する投資家や、不動産収入で稼ぐ資産家、複利で資産を増やす金貸業、本やCDの著作権とか…。親方はこの全部をもっている」
達朗の言葉に久美子は目を丸くした。
「幸せでいることと金があることは、必ずしもイコールではない。金があっても孤独な人間はいるし、貧乏でも家族寄りそって幸せに暮らしている場合もある。確かに金で買えないものはない。あれば便利だし、それで多くの命を救うこともできる。ある意味、人の心も金で買える。だが、金はあくまで目的を達成するための手段であって、金自体を目的にしてはならない。そこをしっかりと理解しないと、金を追うだけの人生になってしまう。金を追うのではなく、金に追われるようでなければいかんのだ。金に心を支配される人間が、自分の器以上の金を持つと破滅してしまうのは、金を持つ本当の意味を履き違えているからだ」
「宝クジが当たって人生が狂っちゃう人のことですね」
久美子の言葉にジョンと美由紀はふきだした。
「ははは。クミコはおもしろいことを言うね。まあそれも一例ではあるがね。これは汚い金でこれはきれいな金だとか、働いて稼いだ金とギャンブルで当たった金は違うとか、そういう観念も間違っている。金自体にきれいも汚いもない。ただそれを使う者の心が汚いかきれいかで、その金が姿を変えるのだ。金はきれいに流さねばならん」
「流す?親方は金を“使う”とは言わないんですね」
達郎の問いにジョンは笑顔で続けた。
「金には名前を書かないだろう?金は万人のものであって、個人のものではない。金は持つものではなく、一時的に自分のところにとどまるだけのものなのだ。金を“天下の回りもの”と言うのは、そういう意味なのだよ。そして金は、水と同じでとどまり過ぎると腐ってしまう。だから、貯め込んで所有するのではなく、一定の金額を常に流しながら所有するのだ。人間の身体の中で細胞や血液が常に新しくつくり変わるのと同じだ。さっきも言ったように、金が入ってくるときも、その金にきれいとか汚いとか意味づけをしてはいけない。だが、出すときは生き金という意味づけをして使う。死に金にはけっしてしないことだ。生き金とは、その金がさらに次の金を呼ぶような使い方をいう。別に呼ぶのは金でなくてもかまわん。愛とか喜びとかでもいい。それを使うときに、自分のハートが温かくなるようでなければだめだ」
「衝動買いはどうなんですか?」
久美子の質問にジョンは笑い転げた。
「なかなかいい質問だ、クミコ。確かに一時的に喜びは得られるね。でも、その場だけで終わってしまうものや、最終的にストレスになり得るものに使うのは避けた方がいいだろう。要は負債を抱え込まないことだよ。衝動買いは精神的負債、例えば持ち家は物質的負債だ」
「精神的なことにも資産と負債があるんですか?それに持ち家が負債だなんて…」
久美子はそう言って黙り込んでしまった。美由紀がパンパンと両手を叩いた。
「これくらいにしましょう。なぜいつもこういう話になっちゃうのかしらね。今はビジネスを論じている場合じゃないでしょ。もう、ジョンったら」
美由紀はそう言ってジョンを睨みつけ、その場を切り上げた。
その日のディナーは、テイラー邸シェフご自慢のフランス料理のフルコースだった。
「達郎さんは仕事でバングラデシュに行ってしまうし、久美子さんはこれからどうするの?」
美由紀が心配そうに尋ねた。
「日本に帰ります。帰って夫とちゃんと話し合います。娘にも話します。理解してもらうのは難しいと思いますが…。就職活動もすぐに始めます」
「そう。で、二人はこれからどうするつもり?」
「久美子さんには中学生の娘さんがいます。俺は成人するまでまつつもりです。それに、今の俺は夫として、男としてあまりにも頼りないですし、これまで以上に精進して、結果を出せる仕事をしたいと思います」
達朗は美由紀を真っ直ぐに見て言った。
「なかなかよくわかっているじゃないか」
ジョンがニヤニヤしながら言った。
「ところでクミコ、一つきいていいかな?」
「はい?」
「タツローと出会わなければ、ご主人をずっと愛していたと思うかい?」
久美子はしばらく考えて、答を返した。
「いいえ。達郎さんと出会わなくても、心は離れていたと思います」
久美子の冷めた表情と意外な答えに達郎は驚いた。
「ふむ。修復の余地はない…か」
「女は男以上に非情なものよ。情で愛することはあっても、溺れることはない。男性が情を引きずっている間に、女性はその情を断ち切ってゆく。男性ほど情には流されないってことね。男と女は精神の仕組みが違うのよ」
美由紀が助け船を出した。その言葉にジョンと達郎は目を見合わせたが、久美子は静かにきいていた。
「タツローも愛弟子ながら、クミコのご主人もなかなかの男だと思うがねえ」
「夫と達郎さんを比べたことはありませんわ。私は今のままの達郎さんでも充分だと思っています」
久美子の言葉に達郎とジョンは黙り込んでしまった。
結局、その晩はテイラー邸に泊まり、達郎は翌朝早くハーレーで出勤していった。久美子はテイラー邸のベンツで達郎のログハウスまで送ってもらい、洗濯と掃除に精を出した。
今夜はバンクーバーでの最後の夜となる。達郎の食事の仕度をするのも、二人で寄り添って眠るのも、今度はいつになるのか見当もつかない。久美子の胸に家族の住む世田谷の風景が蘇った。
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