第1章 はじまり

 沢木達郎はログビルダー見習い。高校卒業後、地元の板金工場で働いていたが、子供の頃からの“ログビルダーになりたい”という夢を捨てきれず、脱サラを決意。世界一のログビルダーと異名をとるジョン・テイラーに弟子入りするため、カナダにやってきていた。一年かけてようやくそれが叶い、ジョンの下で働くようになって二年になる。

 一方、専業主婦の久美子は東京に本社をもつ大手ゼネコン商社マンの妻。一流大学を卒業後、同社に就職。二年の社内恋愛を経て結婚。今回、夫の転勤で10歳になる一人娘と共に一家でカナダにやってきた。すでに半年がたち、娘は流暢に英語を話すが、久美子はまだ思うようにしゃべれない。そのため、周囲のコミュニティーにも馴染めず、孤独な日々を送っていた。

 久美子は近所に住む駐在員の妻、加奈子に誘われ、自然保護団体のイベントに参加することになった。“カナダの自然を守る会”というその団体では、野鳥観察や森の散策といった自然と触れ合うイベントを催行していた。久美子はそのハイキングの最中、仲間から遅れをとり、はぐれてしまう。そこで偶然見つけたのが一軒のログハウスであった。

 久美子は子供の頃からログハウスが好きだった。マンションを売り、家を構えるときも、ログハウスにしたいと夫にねだったが、叶わなかった。夫がログハウスに全く興味を示さなかったことと、購入した土地が「防火地域」であったことがその理由であった。(ログハウスは都市計画法の制限を受けるため、どこにでも建てられるというものではない)。

 久美子は吸い寄せられるようにそのログハウスに近づいていった。広々としたオープン感覚のデッキには、どっしりとしたログテーブルとベンチが設けられている。久美子はデッキの前で立ち止まり、ハウスを見上げた。ログハウスには様々な型があるが、これは丸太を積み上げてつくるハンドヒューンログハウスである。

 玄関のドアをノックしたが応答は無く、ドアにも鍵はかかっていなかった。久美子はそのドアを開いた。中は大きな吹き抜けになっており、部屋を区切らない空間設計になっている。ログ壁のアーチカットはハンドヒューンの特徴だ。キッチンカウンターや、玄関横の腰壁にも丸太が使われ、二階へ続く階段は半割丸太の大胆なデザインになっている。窓際にあるレンガスペースにはラジエータータイプの薪ストーブが置かれ、その煙突が天井まで伸びていた。

 キッチンテーブルや椅子、食器棚に到るまで、すべてがお手製のようだった。久美子は部屋の中央に置かれているレザーのソファーに腰掛けた。“これだけはどこかで買ってきたのね”そう思いながら。

 しばらくすると、バイクのエンジン音がきこえてきた。久美子は窓から外を伺った。バイクは庭先で止まった。黒のハーレーだった。男は黒いサングラスに、黒のヘルメットを被っていた。黒い革ジャンからベージュのシャツが覗いている。淡いグレーのジーンズに茶色の革靴。久美子はとっさにこの家の持ち主が帰ってきたと思った。

 バイクのエンジン音が消えた。だが、男はすぐに入ってこようとはしなかった。外でガチャガチャと音が聞こえる。どうもハウスの裏側にある物置らしきところで何かを物色しているようだ。久美子はあわてて戸口に向かった。出ていって謝らなければと思った。だが、ドアを開けた久美子をまっていたのは、ライフルの銃口だった。

 Who are you! (誰だ!?) 」

 それが達郎と久美子との出会いだった。

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第2章 美しき侵入者

達郎は驚いた。まさか女だとは思わなかったのだ。それも日本人だとは。女は銃を突きつけられて怯えている。達郎は玄関のドアを開けたままに固定し、ライフルを戸口に立てかけると、サングラスをはずして久美子に話しかけた。

「そんなところに座ってないで入ったら?」

達郎は笑顔だった。床に座り込んだまま、茫然としている久美子がおかしかったのだ。その笑顔に久美子は胸をなでおろした。

「勝手に入ってごめんなさい。山歩きの最中に仲間とはぐれてしまったんです。で、お宅の前を偶然通りかかって。昔からログハウスが好きだったものですからつい…」

「俺は鍵を掛け忘れたのに気づいて戻ってきたんだ。とにかく、コーヒーでもいれるよ」

「とんでもない。これでおいとまします」

久美子はそう言って立ち上がろうとしたができなかった。銃口に驚いて腰が抜けてしまったのだ。何度も試みたがだめだった。今にも泣き出しそうな久美子を見て、達郎はますますおかしくなった。

「失礼」

達郎はそう言って久美子を抱き上げた。久美子は目を丸くして達郎を見た。二人の目が合った。

「いつまでも玄関口に座られていても困るし。ここはこうするしかないだろ?」

達郎はそれだけ言って、久美子を抱いたまま中に入った。そして、部屋の中央に置いてあるソファーにゆっくりと久美子を降ろした。

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第3章 日本の恋人

 室内には甘いコーヒーの香りが漂っていた。久美子はキッチンに立つ達郎の後姿をぼんやりと見つめていた。達郎はコーヒーカップを両手に持ち、久美子のもとにやってきた。

 「ごめん。ミルク切らしちゃってるんだ。砂糖だけならあるけど、入れる?」

 「あ、はい。お願いします」

 「もってくるよ」

 「すみません」

 「いいって」

 室内を見回すと、窓際のサイドボードの上に写真たてが置かれているのに気がついた。

 「ああ、それ?」

 達郎が戻ってきて、言った。

 「あ、ごめんなさい。勝手に見て」

 「いいんだよ。京都に行ったときに彼女と撮ったんだ。ずい分前に。若いだろ?」

 達郎はそう言って、久美子にVサインをして見せた。久美子が黙って頷くと、お手製らしき木目の器から、砂糖を二杯すくって久美子のカップに入れ、かき混ぜて差し出した。久美子がカップを受け取ると、達郎は再びキッチンに行ってしまい、その奥から折りたたみ式の木椅子を持ってきた。そして、久美子の斜め向かいに腰をおろし、ブラックのままコーヒーを飲み干した。

 「あの、今日はお出かけされているんですか?」

 「えっ?彼女?」

 「ええ」

 「彼女は日本にいるんだよ。俺、一人でこっちにきたから」

 「一人で?」

 達郎は座ったままボードにある写真たてに手を伸ばした。

 「彼女は同級生で、小学校と中学校が一緒でね。俺は成績が悪かったから高校を出てすぐに就職したけど、彼女は大学に進んで、付き合い始めたのはその頃からだから、もう何年になるかなあ。本当なら結婚しなくちゃいけないところを、脱サラしてこっち来ちゃったから」

 「あなたは…ずっとここに住んでいる方ではなかったんですね」

 「さっき君は、ログハウスが好きだからここにきちゃったって言ったろ?実は俺も子供の頃からログハウスが大好きで、大人になったら自分のログハウスを建てるのが夢だったんだ。社会に出てからは職を転々として、ようやく長続きしたのが車とバイクの修理屋だったんだけど、俺にとってバイクいじりはやっぱり趣味の領域でしかなくて。結局、夢をあきらめきれなくて、貯めた結婚資金を全部注ぎこんで、ここに来たんだ」

 「相手の方は?」

 「愛想つかされると思ったんだけど、ありがたいことに今も続いてるよ。日本には年に二回帰る。一週間くらい彼女のマンションで過ごして、またここに戻ってくる」

 「結婚しないんですか?」

 「今の俺はログビルダーといってもまだ見習いで、それだけじゃ食ってけないからね。夜は水商売してるんだ」

「水商売?」

「うん。街のショットバーでバイトして、生活をつないでる。彼女は俺と違って頭がよくて、今じゃ新しい事務所をかまえて、司法書士の先生さ。彼女だって今の生活は捨てられないだろうし、他に好きな相手にも巡り合っていないから、もう何年もこんな感じで。まあ腐れ縁ってとこかな」

達郎はそう言いながら、持っていた写真たてをボードの上に戻した。

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第4章 ハーレーと人妻

 達郎が屋内の全ての窓を開けてまわる間、久美子は窓辺にやってきた鳥のさえずりに耳を傾けていた。風が、森のざわめきと共に木の芳しい香りを運んでくる。久美子は両手でコーヒーカップを持ったまま、静かに目を閉じていた。

 ほどなくして、達郎が二階から戻ってきた。その足音に久美子は顔を上げた。

 「それはそうと君はどうして山歩きなんてしてたの?」

 達郎は再び椅子に腰をおろすと、笑顔で久美子に話しかけた。

 「“カナダの自然を守る会”という団体があるんですけど、そこのメンバーなんです。といっても入ったばかりですけど。まだ英語が思ったように話せなくて、家にこもりきりなのを知人が心配して、今回のイベントに誘ってくれたんです」

 「奇遇だな。その会はうちの親方が会長をやっているんだよ。俺は親方の会社に勤めているから、強制的に会員さ。といってもほとんど幽霊会員だけど。今頃、みんな心配してるんじゃないの?」

 「ああ、すっかり忘れていました。携帯も忘れてきてしまって」

 「うちの電話を使えばいいよ。といってもその状態じゃ、無理だな。俺がこれから協会へ電話するから。えっと、名前は何ていうの?」

 「あ、久美子です。鈴木久美子といいます」

 「OK、久美子さんね。俺は沢木達郎。よろしく」

 「達郎さん…」

 達郎は即座に立ち上がり、受話器を取りダイヤルすると、流暢な英語で話し始めた。達郎は電話を終えると、再び椅子に腰をおちつけた。

 「君、加奈子さんと友だちなんだって?」

 「えっ、ええ。友だちというか、ご近所で良くしていただいています」

 「加奈子さんとは去年一緒に会の役員をしたことがあってね。加奈子さんは一児のママだけど、友だちの君もひょっとして」

 久美子は口をつぐんでしまった。なぜかはわからないが、結婚していることを達郎に知られたくないと思ったのだ。一瞬の沈黙が訪れた。

 「まずいこと聞いちゃった?」

 「あ、いえ。小学生の娘がいます。半年前、夫の転勤でカナダにきました。夫は各務商事のバンクーバー支社で支店長をしています」

 「各務商事だって?うちの会社は日本の数社と事業提携してるんだけど、その中でも各務商事は大きな取引先だよ。俺は現場のペーペーだから、支店長のご主人と会うことはないけど、親方は接待でゴルフしてるんじゃないかなあ」

 「親方って、ひょっとしてジョン・テイラーさんのことですか?

 「察しがいいね。ご主人から?」

 「いいえ。主人は仕事のことはいっさい家には持ち込みませんし、話しません。ジョン・テイラーさんは世界一のログビルダーです。ログファンの間でカナダに住む彼を知らない人はいないわ。私は彼のデザインするログハウスが大好きなんです。彼はログハウスだけじゃなく、家具のデザインも手がけているでしょう?私は彼の大ファンなんです」

 「話が合うね。実は俺もなんだ。生まれて初めて見たログハウスが彼の作品だった。本でだけど。そのとき子供心にも、ログビルダーになるならジョン・テイラーに弟子入りするって決めたんだ。だから、こうしてカナダにやってきた。弟子にしてもらうまではかなり苦労したけどね。今は月に数回だけど、親方から直に指導を受けているんだよ」

 「ジョン・テイラーさんから直接?すごいわ!」

 「来週の水曜日に親方の家に行くことになってるんだよ。良かったら君もくるかい?と誘いたいとこだけど、人妻じゃなあ。家のこともあるだろうし、そういうわけにはいかないね」

 「そんなこと関係ないわ!」

 「へっ?」

 「だって、本物に会えるなんて、そんなチャンスめったにないことでしょう?」  

 久美子は目を輝かせて達郎を見た。

 「うーん…。話は尽きないけど、そろそろ送っていくよ。といっても会の事務所までね。4時には加奈子さんたちも戻ってくるそうだから。家までは加奈子さんの車で送ってもらえばいいよ。軽いぎっくり腰とはいえ、大事はとらなくちゃね」

 うまくかわされてしまった。久美子はがっくりと肩をおとした。

「ごめん。糠喜びさせて…」

達郎の言葉に、久美子は気を取り直して言った。

 「いいえ。おっしゃる通りですから…。でも、不法侵入したあげく送ってもらうなんて、そういうわけにはいきません。一人で帰ります」

 「一人で帰るってどうやって?」

「どうやってって…」

再び立ち上がろうと試みたがやはり無理だった。久美子は困ってしまった。

「こんな山奥までタクシー呼ぶの?それとも、ご主人に電話して会社を抜けてきてもらうかい?何もなくても、独身男とニ人きりで過ごしていたなんて知ったら、ご主人はいい気持ちがしないと思うけどなあ」

達郎はわざといじわるそうな顔をして言った。久美子は黙り込んでしまった。

「それに、協会には俺が送ってくって言っちゃったし」

 「素直にご好意に甘えるべきでした。…すみません」

 「これも何かの縁だからね」

 達郎はさっと立ち上がると、久美子を抱き上げて外に出た。そして、オープンデッキのログテーブルに久美子を座らせ、戸締りを済ませに中に入った。ほどなくして戻ってきた達郎は、久美子のリュックとライフルを担いでいた。

 「これを置いてこないとね。ちょっとまってて」

 達郎はライフルを指差してそう言うと、今度は物置に行ってしまった。

戻ってきた達郎は、脇に小ぶりの赤いヘルメットを抱えていた。

 「それは?」

 「彼女がカナダに来たときにと思って買っておいたんだ。ちょっと埃っぽいけど、ガマンしてよ」

 「えっ?あの、送ってくださるのは車じゃないんですか?」

 「車?この貧乏生活でどうして車なんて買えるの?そのハーレーだって、現地の友人からポンコツをタダ同然で譲ってもらって、なおしたんだよ。ぎっくり腰にバイクの振動はキツイと思うけど、俺のアシはこれしかないからね」

 「は、はあ…」

 そう言って達郎はハーレーにキーを差し込み、エンジンをかけた。ボンボンッというハーレー特有の地響きのような音が静かな森にこだました。達郎はヘルメットを被り、久美子にもヘルメットを被せた。そして、再び久美子を抱き上げ、ハーレーに乗せた。

エンジンの振動が身体に伝わってくる。久美子はその振動からくる腰の苦痛よりも、ハーレーに乗ることの方が苦痛だった。怖い…。生まれてこのかたバイクの荷台にまたがったことなどないからだ。

 「しっかりとつかまっててよ」

 「は、はい!」

 久美子は背後から達郎の腰に手を回し、強くしがみついた。あまりに強く抱きつかれたので、達郎は驚いた。久美子の脈打つ心臓の音が伝わってくる。久美子は震えていた。達郎はそんな久美子がおかしく、吹きだしてしまった。

「出発するけど、用意はいいかい?」

「は、はいっ!!」

ハーレーの爆音と同時に、久美子の悲鳴が森にこだました。

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第5章 結婚記念日

 「ママ、ほんとに一人で大丈夫?」

 「大丈夫よ。余計なことは心配しないで、楽しんでいってらっしゃい」

 鈴木家に一台のキャンピングカーがやってきていた。今日は娘の美樹がクラスメイトのキャシー一家と共に、二泊三日のキャンプに出かける日だ。

 「娘をよろしくお願いします」

 「責任をもってお嬢さんをお預かりしますわ。でも残念ね。ご家族でお誘いしたかったのに。ご主人は出張ですって?」

 「ええ、明日帰ってきます」

 「ご主人は釣りをやるそうですね。僕も釣りは大好きだから、きっと気が合うんじゃないかな。今度ぜひ一緒に行きましょう」

 「ありがとうございます。次回を主人共々楽しみにしております。キャシーちゃん、美樹をお願いね」

 「大丈夫よ、おばさま」

 「それじゃママ、行ってきまーす!」

 「いってらっしゃい」

 子供たちは身を乗り出すようにして久美子に手を振った。久美子も車が見えなくなるまで手を振り続けた。

 庭に干してある洗濯物を籠に押し込んで、久美子はリビングにやってきた。ボードの上には結婚式の写真、美樹のお宮参りの写真が飾ってある。久美子は夫の傍らで幸せそうに微笑むウエディングドレス姿の自分をしげしげと眺めた。今日は二人の結婚記念日だった。

夫は朝も早く、夜も遅く、夫婦間で満足な会話ひとつない。食事も朝食以外はすべて外食だ。朝食といっても、久美子が作る味噌汁を一杯飲むだけである。

日本にいたときの夫は、どんなに遅くなっても夕食は家でとってくれた。久美子の手料理を毎日楽しみに帰ってきた。作る久美子も張り合いがあった。夫の帰りを、久美子はどんなに遅くても寝ないでまった。夫に温かいご飯をよそって差し出すのが幸せだった。夫も、どんなに疲れていても、久美子のささいな日常話を笑顔できいてくれた。

カナダにきてからというもの、朝もぎりぎりまで寝ている夫は、出かけるまでせわしない。お互いの顔をゆっくり見ることもないように思う。久美子は深くため息をついた。

そのとき、玄関のインターホンが鳴った。宅配便であった。

「鈴木久美子さんにお届けものです」

大きな包みをほどくと、淡いピンクのリボンが掛けられた箱が現れた。中には、白いワンピースドレスとカードが入っていた。

久美子へ

今夜6時にフェアモントホテルのラウンジでまっている。ディナーのあとはスイートルームで、二人だけの記念日を祝おう。        裕之

久美子は胸が熱くなり、すかさず夫の携帯に電話を入れた。

 「もしもし。あなた?ごめんなさい。お仕事中に」

 「ああ久美子。どうした?」

 「今プレゼントが届いたわ。ありがとう」

 「いつもほったらかしにしていたからな。きてくれるかい?」

 「もちろんよ。代えの着替えと下着をもっていくわね」

 「頼むよ。それはそうと美樹はもう出かけたのかい?」

 「ええ。おおはしゃぎでね。私、今夜は一人ぼっちだと思ってた」

 「ばかだな。今日は結婚記念日じゃないか。忘れるわけがないだろ」

 「そうね。そうよね」

 久美子は涙声になっていた。

 「今夜は寝かさないから、そのつもりでいてくれよ」

 「あなたったら」

 その晩、夫は時間きっかりにホテルのロビーにやってきた。レストランでは、夜景が見える窓際の席に案内された。これも夫の演出だった。赤ワインで乾杯し、フランス料理のフルコースを味わった。久しぶりに話に花が咲いた。

 「最上階に洒落たバーがあってね。そこから見える夜景がまた格別なんだ。部屋に戻る前にもう一杯飲んでいかないか?」

 「いいわ」

 上がってきたエレベーターの中には誰もおらず、二人きりだった。夫は久美子の腰にさりげなく手をまわし、引き寄せた。久美子はそんな夫の胸に顔をうずめ、夢心地だった。

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第6章 ホワイト・レディ

 「お客様、申し訳ございません。ただ今、ほかのお席は全て満席となっておりまして、お通しするのはカウンター席のみとなってしまいますが、いかがいたしましょうか?」

 確かに最上階だけあり、店内から見る夜景は素晴らしかった。窓際に立つと、夜の街に浮いているような錯覚に陥る。それに比べ、カウンター席は夜景を背にして並んでいる。だが今はその席も、数席しか空いていなかった。

 「今夜は週末だから仕方ないか。どうする?部屋に戻るか?」

 「あなたはまだ飲み足りないんでしょう?」

 二人はカウンター席に腰をおろした。

 「僕はブランデーにするけど、どうする?」

 「私も一緒でいいわ」

 ブランデーグラスで再び乾杯した。夫の瞳がいつもと違う。夫の言うように、今夜は朝まで抱かれていたい。久美子は熱い胸の高まりを覚えていた。

 「ミスター・スズキ?」

 初老の紳士がやってきて、夫に話しかけた。夫は驚いて立ち上がり、笑顔で固い握手を交わすと、いきなり話し出した。あまりに早い英語なので、久美子は二人の会話がききとれなかった。

 「ブラウンさん、妻の久美子です。久美子、こちらは取引先の社長さんだ」

 「あっ、はじめまして。夫がいつもお世話になっております」

 思わず日本語で言ってしまった。あわてて立ち上がろうとする久美子をブラウン氏がとどめた。そして早口の英語で何やら言うと久美子の右手をとり、軽く挨拶のキスをした。

 「悪い、久美子。ちょっとだけ社長のテーブルに行ってくるよ。すぐ戻るから」

 夫はそう言って、ブランデーを片手にブラウン氏と共に行ってしまった。

 久美子は振り返ったまま、夫の姿を見つめていた。ブラウン氏に促され、夫が窓際のテーブルに腰をおろす。そこには数人のビジネスマンらしき男たちが待っており、再び立ち上がった夫は、氏の紹介で彼らに名刺を配り始めた。

 さっきまで天国にいるような気分だったのに、せっかくの結婚記念日が台無しになってしまった。

 久美子は振り返るのをやめ、残っていたブランデーを飲み干した。空になったグラスを小さく振ると、氷がカラカラと音を立てた。

 「おかわりをおつくりしましょうか?お勧めのカクテルがありますよ」

 流暢な日本語に驚いて顔を上げると、カウンター越しに達郎が立っていた。

 「達郎さん?」

 「ここでバーテンダーしてるんだ」

 「だって、街のショットバーって言っていたでしょう?ここは高級ホテルよ」

 「このホテルだって、バンクーバーの街に建ってるじゃないか」

 「そりゃ、そうだけど…」

 達郎は棚に並べられた酒の中からドライ・ジンとクアントローを抜き取って、適量をシェーカーに注いだ。次に絞ったレモンとクラックド・アイスをボディに入れ、15回ほどシェイクすると、用意していたグラスに出来上がったカクテルを注いだ。

 「どうぞ」

 「このカクテルは?」

 「これはホワイト・レディといって、日本語で言えば『清楚な貴婦人』ってとこかな」

 「貴婦人?」

 「白いワンピースがよく似合っているからさ」

 久美子は差し出されたカクテルを口に含んだ。レモンの香りが口の中いっぱいに広がり、心がすっと軽くなった気がした。

 「これは夫が今日のために買ってくれたものなの。今日は結婚記念日だから。それなのに…。日本の男性って、どうしてこうなのかしら。女はいつも後回し。欧米の男性はいつだって妻を優先するのに」

 「だったら、『今日はアタシを優先して』って言えばよかったじゃない」

 「そんな歯の浮いたような台詞、言えないわ」

 「君も典型的な日本の女性だね。ご主人のことは言えないな」

 一瞬、達郎の視線が久美子から離れた。達郎は久美子に目配せをした。振り返ると、こちらに向かって歩いてくる夫の姿があった。

 「悪かったね。久美子」

 「早かったのね。もういいの?」

 「長居は無用だって、社長に怒られちゃったよ。カナダでは家族が優先だってね。ごめんな」

 「あなた…」

 達郎が久美子に差し出したカクテルをさりげなく下げた。

 「あなた、紹介するわ。こちら…」

 ちょうどそのとき、夫の横に二人連れの客がやってきて、腰をおろした。

 「いらっしゃいませ」

 達郎はすかさずその客に声をかけ、会話を始めてしまった。あっけにとられている久美子に、達郎は一瞬だが、右手の親指を立てて見せた。

 「どうした?久美子」

 「いえ、いいの。久しぶりに酔ってしまったみたい」

 「そろそろ部屋に戻るかい?」

 「ええ」

 夫が手で合図をおくると、達郎がやってきた。達郎が差し出した伝票に、夫がサインをする。

 「君は、ひょっとして日本人かい?」

 サインをすませた夫が、日本語で達郎に話しかけた。

 「はい」

 達郎も日本語で返した。

 「今日のブランデーは格別だったよ。ありがとう」

 「こちらこそありがとうございます。またのお越しをおまちしております」

 「うん。じゃ、行こうか。久美子」

 「ええ」

 店を出るとき、久美子は夫の肩越しに達郎を振り返った。達郎はカウンターの中でシェーカーを降り続けていた。その音は店内に流れるジャズに乗せ、リズムを刻むように響いていた。

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第7章 長い夜

 熱いシャワーを浴びながら、あるいはバスタブの中で、そしてベッドの中で、これまでの空白を埋め尽くすかのように、夫は激しく久美子を求め続けた。久美子は長い髪を振り乱しながら、ときには夫のなすがままに、快楽の絶頂で溺れた。

やがて夫は久美子の中で果てたまま眠ってしまった。久美子は夫からゆっくりと身体を離し、その腕をほどくと、一糸まとわぬ姿で窓辺に立った。バンクーバーの夜景が久美子の肢体を妖しげに照らす。深夜だというのに、街は眠るどころか活気に満ち、久美子の中の火種も疼いたままだ。男と女の性は違う。男の性は果てればそれまでだが、女の性には底がない。夫のせいで凍りついていた女の性が呼び覚まされ、すぐに眠れそうもなかった。

夫はぐっすりと寝入っている。無理もない。連日の残業に加え、休日も新規開拓に飛び回っているのだ。新設の海外支店を任されたことは栄転であったが、夫にとっては喜び以上にプレッシャーの方が大きかった。

大学を一時休学して、アメリカに留学したことがある夫は英語こそ堪能だが、カナダで英語が通じるのは観光地と都市部だけだ。田舎ではフランス語オンリーの地域が多い。カナダではフランス語も公用語なのであり、公共の標識や公立の美術館の案内など、すべて英仏で書かれている。また、北の準州ではイヌイット語が使われ、渡航前の夫は、眠る間も惜しんで勉強していた。カナダにきてから、夫がこんなにぐっすりと眠るのは初めてかもしれない。

 久美子は再び白いワンピースに着替え、髪をアップにセットし、30分ほどかけてメイクをした。そして部屋のキーをもち、達郎のいるバーに向かった。

 店の入口で先ほどと同じく、カウンター席かチャージ席かを問われたが、久美子はカウンター席を指定した。店内に通されると、中は数時間前の賑わいとは対照的に、閑散としていた。沢山いたはずの従業員も数人しかおらず、カウンターの中も達郎だけになっていた。達郎はカクテルグラスを磨いていた。

 「こんばんは」

 久美子はそう言って、達郎の目の前に腰をおろした。達郎は驚いた。久美子が一人でやってきたからではない。まるで別人だったからだ。情事を終えたばかりの女の艶かしさが、久美子の全身から漂ってきていた。

 「どうしたの?」

 久美子の言葉に、達郎ははっと我に返った。

 「あ、いや。いらっしゃいませ。何をおつくりしましょうか?」

 「お任せするわ」

 「承知いたしました」

達郎がシェーカーを振っている間、久美子は振り返って、背後に広がる夜景を見つめていた。うなじに残る唇の跡が達郎の目に飛び込んできた。

「おまたせいたしました」

そう言って、達郎が差し出したのは真紅のカクテルだった。

「あら?同じ服を着てきたのに、ホワイト・レディじゃないの?」

「さっきの君と今の君は違う。今の君は真っ白じゃないだろ?そそられるよ

見透かしたような達郎の言葉に、久美子は赤面して下を向いてしまった。

「このカクテルはブラッド・アンド・サンドっていうんだ」

「ブラッド・アンド・サンド?」

「その名の通り、“血と砂”という意味だよ。激情とか、破滅とか、そういう意味合いをもつカクテルさ。危険を秘めた大人の味ってとこかな」

「前のカクテルと随分違うのね。さっきの私も今の私も同じ私よ。何も変わらないわ」

「男と女じゃ感じ方が違うのさ」

 ブラッド・アンド・サンドはやや甘口のカクテルで、ほんのりオレンジの味がした。

 「どうだい?」

 「名前のわりに、味はさっぱりしているのね。おいしい」

 「そりゃよかった」

 「それはそうと達郎さんはどこで英語を覚えたの?日本で勉強してきたの?」

 「まさか。言ったろ?成績が悪いから大学行かなかったって」

 「じゃ、こっちへきてから?」

 「そうだよ」

 「どうしたらそんなふうに話せるようになれるのかしら。私、全然だめなの。だから、こちらの人たちにも溶け込めなくて…」

 久美子はそれだけ言うと、下を向いて黙り込んでしまった。

 「親方の奥さんから教わったんだよ。奥さんが日本人なんだ」

 「えっ、そうなの?」

 「といっても二度目の奥さんだけどね。すごく教え方がうまいんだ。この俺が、一ヶ月もしないうちに話せるようになったんだから。その後も単語やら文法やらいろいろ教わって、今じゃ読み書きもできるようになったよ。おかげでこっちの運転免許もとれたしね」

 「こちらに住む日本人向けに会話教室をされてるのかしら」

 「いや、どうして?

 「もし、そうなら習いに行きたいと思ったの。でも、ダメね」

 久美子はまた黙り込んでしまった。

 「話してみようか?」

 「えっ?」

 「君さえよければ教えてもらえるよう頼んでみるよ。来月、協会のイベントで森のゴミ拾いがあるんだけど、それにこられるようなら、そのときまでにきいておくよ」

 「でも達郎さん、幽霊会員じゃなかったの?」

 「遊びのイベントには行かなくてもいいけど、そういうイベントには参加しないと怒られるんだ」

 「加奈子さんが行けなくても、あなたという通訳がいるなら安心して参加できるわ。絶対に行きます」

 「もっと話していたいけど…。ごめん。そろそろ閉店の時間なんだ。悪いけど」

 周りを見渡すと、客は久美子だけになっていた。

 「ここへ来れば、あなたに会えるのかしら」

 「いや。残念だけど、ここで働くのは今日が最後なんだ」

 「やめちゃうの?」

 「うん。実はこっちが本業で、ログビルダー見習いの方がバイトだったんだ。入って一年間は、忙しいときだけのヘルプという条件で入れてもらったのさ。英語もできない、建築の知識も経験もない日本人の俺が、簡単に入れる会社じゃないからね。この条件だって異例のことで、会社のインテリ連中からはかなりのブーイングだったんだよ。一級建築士の資格をもつ一流大学出のエリートがいるからね。で、今日でめでたくその一年が終わるんだ。明日からは正式に親方の会社の社員さ」

 「そう…」

 久美子は落胆の色を隠せなかった。

 「どうしたの?」

 「ううん。遅くまでごめんなさい。今日は楽しかったわ。ありがとう」

 「今度こそぐっすり眠れそうかい?」

 「ええ。いただいたカクテルが効いてきたから。おやすみなさい」

 「Have a nice dream

 「あなたも」

 夜明け前―。フェアモントホテルの駐車場ではハーレーのエンジン音が響いていた。初秋のバンクーバーの夜はかなり冷え込む。達郎は首にマフラーを巻き、総の部分を革ジャンの中に押し込んだ。

駐車場の外に出ると、眠らない街にもようやく静かな夜がやってきていた。昼間は大渋滞の道路にも、今は一台の車もなかった。交差点で信号待ちをしているのは達郎だけだ。達郎はホテルを見上げた。久美子が眠っている部屋はどの辺りだろうか。

(ばかな…。何を考えてるんだ、俺は…)。

信号が青に変わった。達郎はそんな思いを振り切るように、勢いよくハーレーを走らせた。

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第8章 テイラー夫妻との出会い

 「はじめまして。ミユキ・テイラーです」

 テイラー夫人はそう言って久美子に右手を差し出した。奉仕作業を終えた後、久美子は協会の事務所で、達郎から紹介を受けていた。

 「鈴木久美子です。お会いできて光栄です。沢木さんから、夫がご主人の会社にお世話になっていると伺いました。ありがとうございます」

 「お話をきいて、直接お会いしたくてきてしまったの。私でお役に立てることなら、喜んで協力させていただくわ。もし、お時間が許すようでしたら、ここではなくうちへいらっしゃらない?ゆっくりお話したいの」

 「お、お、お、お宅にですかっ?」

 久美子は目を丸くして、大声を張り上げた。その言い方に達郎は吹きだした。テイラー婦人も唖然としている。達郎が助け舟を出した。

 「美由紀さん、実は久美子さんも俺と同じで、親方のログファンなんですよ」

 「まあ、そうだったの。だったらちょうどいいわ。今日は主人がツーリングから帰ってくる日なの。4人でガーデンランチと洒落込みましょうよ」

 「ツーリング、ですか?

 「親方も大のハーレー好きでね。すごいのに乗ってるんだ」

 「まったく、出かけたら半月は帰ってこないんだから。ところで、お時間は大丈夫?」

 「4時頃まででしたら」

 「それじゃ、久美子さんは私と一緒にうちの運転手の車で行きましょう」

 久美子はジョン・テイラーにオートバイの趣味があることまでは知らなかった。久美子は達郎を振り返った。

 「俺はハーレーで後をついていくよ」

 「達郎さんのバイク好きってテイラーさんの影響だったの?ハーレーも?」

 「もちろんさ。俺はジャパニーズ・テイラーだからね」

 事務所を出ると、玄関に黒いベンツが待機していた。三人が車の前まできたとき、後部ドアが自動で開いた。再び目を丸くする久美子。その仕草のひとつひとつがおかしくて、達郎は見ていて飽きないと思った。

 「どうなさったの?遠慮しないでどうぞ」

 「あっ、はい。ベンツって見たことはあるんですけど、乗るのは初めてなので気後れしてしまって…」

 「親方はミリオネアだからね。親方の家に行ったらもっと驚くよ。というより、興奮して歓声をあげるかな」

 「ログハウスがお好きな方なら喜んでいただけると思うわ。まあそれは着いてのお楽しみということで。ここから30分くらいですから」

 車は森の中を延々と走り続けていた。テイラー夫人は家まで30分だと言ったが、もう一時間以上走っている。久美子は不安になって後ろを振り返った。達郎がハーレーで後を追いかけてくる。その姿に少しは安堵したものの、顔からは笑顔が消えていた。

 「どうなさったの?どこか具合でも?」

 テイラー夫人が話しかけてきた。

 「あの、お宅まではあとどのくらいかかるんでしょうか?」

 「ここはすでにうちの敷地内です。ちょっと前に白い門の前で止まったでしょう?それが正門で、パスワードでセキュリティチェックを解除しないと、そこから先は入れないようになっているんです。ああ、見えてきたわ」

 急に森が開けた。次は広大な芝生の庭園かと思いきや、ところどころに小さな池や森が点在している。敷地内にゴルフ場があるのだ。車はさらに奥にある門の前で止まった。運転手が車内のボタン操作で次のセキュリティチェックをはずす。

 それから数分後、目の前に現れたのは二階建ての巨大ログハウスであった。総面積2587メートルのこのハンドヒューンログハウスは、雑誌やテレビでも紹介され、“ログビルダー・ジョン”の名を世界に轟かせた代表作である。久美子は息を呑んだ。本で知ってはいたが、実物となるとさすがに迫力が違う。

 中は家というより、ホテルであった。受付カウンターの前に広いロビー、アーチカットの間仕切りの向こうにラウンジを兼ねたレストラン、その先に広いオープンデッキのテラスがあり、部屋数は十室。洋室が七室、和室が三室で、和室内には畳が敷き詰められ、うち一室は茶室であった。茶室を除く全ての部屋に、サウナとシャワールーム、檜風呂が備えられている。裏の別棟はカントリーカットログハウスで、会社の研修室、談話室用であり、その傍らにテニスコートとプールが併設されていた。

 「おかえりなさいませ。お食事の準備ができております」

 執事なのか秘書なのか、あるいはお屋敷の従業員なのかわからないが、オープンデッキに通された。森に囲まれたデッキのバルコニーは巨大な丸太を数本組み上げてつくられていた。そこに、一人の初老の男性が寄りかかるようにして立っていた。男性は三人に向かって笑顔で手を振った。ジョン・テイラーその人であった。

 「Welcome to our log house ! (ようこそ、私どものログハウスへ)」

 ジョンはそう言って大きく両手を広げて久美子に歩み寄り、やさしくハグした。続いて妻の美由紀、そして達郎を強く抱きしめ、三人にテーブルにつくよう促した。久美子は感激のあまり言葉が出なかった。潤んだ目で達郎を振り返ると、そこに達郎の温かい笑顔があった。

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第9章 ミリオネアの家

食事を終えた後、テイラー夫妻は達郎と久美子をゴルフカートに乗せ、敷地内をくまなく案内してくれた。このログハウスを作るのに3000本の丸太を使用したことや、そのほとんどがカナディアン・レッド・シダー(赤杉)であること、完成まで7年の歳月を要したことなど、テイラー氏は様々なエピソードを交えて、おもしろおかしく語ってくれた。

 風が冷たくなってきたため、ハウス内のラウンジでコーヒータイムとなった。

 「ミユキがホームレスのタツローを拾ってきてから、もうどれくらいたつのかな」

 「そうね。つい昨日のことのような気がするわ」

 二人はそう言って笑顔で目を見合わせた。達郎は照れくさそうに髪に手をやった。

 「ホームレス?達郎さんが?」

 「うん。カナダにきた初日に空港でカバンをすられちゃってね。現金は全部パアさ。キャッシュカードは胸元のポケットに入っていたから無事だったけど、ホテルを泊まり歩いているうちにその金も尽きちゃって。もちろん、その間就職活動もしたけど、言葉ができないから全然ダメで。一週間くらい街の公園で寝てたんだ」

 「その日、私はお友達と一緒にロード・スタンレー・スイーツに宿泊していたの。朝早く目が覚めたので、一人でスタンレー公園に散歩に出かけたのよ。そうしたら達郎さんが新聞紙をかぶってベンチに寝ていたのね。浮浪者かと思ったら、傍らに大きなスーツケースが置いてあるじゃない。でもそのときは気味が悪いから、最初は黙って通り過ぎたの。お友達とはホテルでランチをして別れたのだけど、何となく気になってまた行ってしまったのよ。そうしたら、まだそこに寝ているじゃない。でも、今度彼が頭にかぶっていたのは新聞紙ではなくて夫の本だったの」

 「ジョンさんの?」

 「話しただろ?俺が子供の頃に読んだ親方の本。『ドリーム・ログビルディング』の日本版さ」

 「日本で初めて紹介されたジョンさんの本ね。私も持っているわ」

 「達郎さんがもっていたのは初版で、その本は私が翻訳したものなの。夫とは、夫が日本に初来日したとき、通訳としてついたのがきっかけで、その後、彼の本の翻訳はすべて私が手がけるようになって今日に到るのだけど…。それを見たら、通り過ぎるわけにはいかないでしょう?それで、思い切って声をかけたのよ」

 「妻が携帯に電話してきてね。で、車を差し向けて、とにかく社に連れてくるように行ったんだよ。無精ひげの、薄汚くて腹をすかせた青年だったが、目が澄んでいた。きけば、私に会いにカナダにやってきたと言うじゃないか。私はその場で、妻に家に連れて帰るように言ったんだ」

 「まさか公園で声をかけてきた女性がジョン・テイラーの奥さんだったなんて、後でびっくりしたよ。あの本が俺を親方のところに導いてくれたのさ。それから三ヶ月間、俺はこの屋敷で世話になり、美由紀さんから英語を教わり、そして親方から別荘の管理を任された。管理とは名ばかりで、実はタダで住まわせてもらってるんだけどね」

「あなたの住むログハウスはジョンさんのログハウスだったのね」

「家具だけは俺のお手製だけどね。フェアモントホテルの職は、美由紀さんの友達の口利きなんだ。支配人を紹介してもらって…。日本のバーでバイトした経験があったから」

「友人はおひき合わせしただけ。支配人の心を掴んだのはあなたの誠実な人柄よ。あなたが辞めてしまって、ホテル側は悔やんでいたわ。でも、うちの会社の社員になるまでという約束だったから、あきらめてもらうしかないのだけど」

「本当に感謝してます」

達郎はそう言って、二人に深々と頭を下げた。

「達郎さんは本当に成績が悪かったらしくて、アルファベットも満足に書けなかったのよ。久美子さんはそんなことはないでしょう?」

「あ、はい。旅行会話程度でしたら話せます。日常会話も少しなら。大学では外国語を専攻しておりませんでしたので、高校卒業程度の英語力しかありません」

「まあ、それなら充分だわ。達郎さんは本当に手のかかる生徒でしたからね」

美由紀のその言葉に、どっと笑いがおこった。

「子供のいない私たちはタツローを実の息子のように思っているんだよ。だから、タツローの友人であるあなたは私たちにとって娘のようなものだ」

「このご縁を大切にしましょう。これからもよろしくお付き合いくださいね」

「おくさま…」

「おくさまだなんて。美由紀と呼んでください」

「美由紀さん…」

それから久美子は週に一度、ジョン・テイラーの邸宅で妻の美由紀から英会話を習うことになった。家まで定刻に車を差し向けるというので、最初は躊躇したが、タクシーでは、屋敷のセキュリティチェックを解除することはできない。ここは好意に甘えさせてもらうしかなかった。

料理が苦手だという美由紀に、ランチを兼ねて今度は久美子が料理を教えることになった。授業料をとらない美由紀への久美子からの気持ちだった。二人のランチにジョンと達郎が飛び入りでやってくることもあった。特にジョンはたびたび調理中に現れ、よくつまみ食いをして美由紀におこられた。

こうしてひと月も経たないうちに久美子の英語はみるみる上達し、車の免許をとりに現地の教習所に通うまでになった

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第10章 涙のドライブ

 「最近のママは生き生きしていると思わないか?美樹」

 「生き生きどころか、とってもヘンよ、パパ。加奈子おばさんのクラブにだって、前は嫌々ながら行っていたのに、今はおばさんなしでも出かけていくし、急に英語を話せるようになったと思ったら、今度は車の免許をとるって言い出すし」

 「クラブじゃないわ。カナダの自然を守るために作られた、れっきとした福祉団体よ」

 「名前なんてどうだっていいじゃないか。やっと日本にいた頃の元気なママに戻ってくれて、パパは喜しいよ」

 食卓には久美子の手料理が所狭ましと並べられ、冷蔵庫には夫が買ってきたデコレーションケーキが入っている。クリスマスでもないのに、家族揃っての週末のディナーは晩餐会と化していた。

 「そういうあなただって、週に一度はこうやって家で夕食をとってくれる。私も美樹も本当に喜んでいるのよ」

 「テイラー氏から紹介をもらってね。それがまた新しい顧客を紹介してくれる人たちで、売上が安定してきたんだ。こうして一緒に夕食をとれるようになったのも、君が夫人と親しくしてくれているおかげだよ」

 「仕事とプライベートは別だと思うわ。これまでのあなたの努力が実ったのよ。がんばっていたもの」

その言葉に夫は胸が熱くなり、娘に気づかれぬよう、テーブルの下でさりげなく久美子の手を握った。久美子が驚いて顔を上げると、夫はすっと手を離した。久美子は何事もなかったかのように話を続けた。

「おくさまにはとても感謝しているわ。おくさまから英語を習ったおかげで、私はここで、ようやく自分の居場所をもてたんだもの」

 「元はと言えば加奈子おばさんのおかげでしょ?おばさんがクラブに誘ってくれたから、ママはテイラー夫人に会えたんだもの」

 「そうだな。だが、同じ日本人で加奈子さんより君が夫人の目を引いたのは、やはりテイラー氏のファンだったことが大きいだろう。君のログハウス好きがこんなところで威力を発揮するとは思わなかったよ」

 「日本にいたときのあなたは“丸太小屋なんて”って、ばかにしてたものね」

 「前言は撤回するよ」

 「パパ、ママ。今度、おばさんたちを呼んで、うちでパーティーしましょうよ」

 「息子の祐樹くんは確か美樹のボーイフレンドだったな。本当はそれが目的なんだろう?」

 「違うわ。私が好きなのは祐樹くんのパパよ。ダンディーで素敵だもの」

 「おませさんね、美樹は。今週末にでも加奈子さんに電話を入れてみるわ」

 「やった!」

 「久しぶりに家族ぐるみで盛り上がろう。大いに飲むぞ!」

 「今だって充分飲んでいるじゃない」

 久美子はキッチンで洗い物をしながら、リビングでじゃれ合う夫と娘を見つめていた。確かに、加奈子にもテイラー夫妻にも感謝している。だが、久美子が一番感謝している人間は達郎だった。夫や娘は達郎の存在を知らない。なぜかはわからないが、テイラー氏も加奈子も、夫に達郎のことは話していないようだ。隠すつもりはないが、改めて話すことにも抵抗があった。今の久美子にとって達郎は知人でも友人でもなかった。学生時代に流行した“友達以上恋人未満”という言葉がピッタリだった。

 翌週、久美子はめでたくカナダの運転免許証を手にした。夫がこの日のために用意してくれた中古車で、久美子は達郎の住むログハウスに車を走らせていた。夫でもなく、娘でもなく、恩師のテイラー夫人でもなく、誰よりも先に達郎に伝えたかった。達郎に短期間で取ったことを褒めてほしかった。達郎はといえば、このところ仕事が忙しいのか、美由紀の英会話教室にも、久美子の料理教室にも姿を見せていない。久美子は達郎に会いたかった。

 達郎のログハウスにやってきた。ここで初めて達郎に会った。あれから半年。様々な出会いがあり、久美子自身も変わった。

庭先に一台の乗用車が止まっていた。久美子はその横に駐車することにした。車を降りてハウスの前までくると、大人の笑い声に混じって赤ん坊の泣き声がきこえてきた。達郎の友達が家族であそびにきているのだろうか。

ドアをノックすると、中年の白人男性が出てきた。中では金髪の白人女性が赤ん坊をあやしている。玄関口で部屋を見回したが、達郎の姿はなかった。久美子はとっさに達郎が引っ越してしまったのかと思ったが、ボードの上に置かれている写真たてを見つけて安堵した。達郎と恋人の写真が飾ってあるということは、達郎がまだここに住んでいるということだ。

 「あなたはいったい誰ですか?」

 白人男性が久美子に尋ねた。

 「あなたこそいったい誰ですか?」

 久美子も白人男性に尋ねた。目を見合わせたが、ほどなくして、男性の方が思い出したように右手の拳で左手の掌を叩いた。

 「クミコさんだね!そうでしょう?」

 「そうですけど?」

 「ああ、本当にタツローが言っていた通りの人だな。すぐにわかったよ!」

 「あ、あの、達郎さんは…」

 「タツローは今、ニッポンさ。恋人のところに帰ってるんだよ!」

 一瞬、心が凍りついた。初めて会ったとき、達郎は写真たてを手にとって、年に二回は日本に帰ると言った。そして彼女のマンションで一週間を過ごすと言った。

 「タツローはあさってには帰ってくるよ。僕はトム。奥にいるのは妻のアンと息子のサム。タツローとはバイク仲間さ。タツローが日本に行っている間だけ、ここでバカンスさせてもらってるんだ」

 「私…帰ります」

 「えっ?」

 「ごめんなさい。急用を思い出して。失礼します」

 「えっ、ちょっと…」

 達郎が日本で恋人を抱いているかと思うと、久美子はいたたまれなかった。大急ぎでその場を立ち去り、車に乗り込んだ。猛スピードで森を抜け、幹線道路に出た。あてもなく走り続けたがこらえきれず、久美子は路肩に車を止め、しゃくり上げて泣いた。

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第11章 告白

 テイラー邸の裏手にある広いガレージは、中で乗用車用とバイク用に区切られていた。久美子は執事の誘導で、乗用車用のスペースに車を乗り入れた。駐車してキーを預けた後、執事の案内で、テイラー氏のバイクコレクションを見せてもらうことにした。

バイク用のスペースには、テイラー氏ご自慢のハーレーがずらりと並べられ、どれもピカピカに磨き上げられていた。ソフティル・スプリンガー・クラシック、スポーツスター1200カスタム、ダイナ・ワイドグライド、ウルトラ・クラシックエレクトラグライド、ロードキングクラシック、ナイトロッド・スペシャルなど、展示場さながらであった。

最後の一台まできたとき、ガレージの片隅に古ぼけたハーレーが止まっているのに気がついた。傷ついた黒いタンクのファットボーイ。間違いなく達郎のハーレーだった。

ラウンジに通されると、テイラー夫妻と談笑している達郎の姿があった。久美子は達郎に会いたくなかった。だが夫妻の手前、帰るわけにいかない。

美由紀がいち早く久美子に気づいた。

「いらっしゃい久美子さん。久しぶりに達郎さんがきているのよ。今日のティータイムは、お茶室で達郎さんが日本で買ってきてくれた和菓子を食べましょう」

美由紀のその言葉に、やはりあの友人の言葉は本当だったのだと思った。

 「和菓子は最高だけど、あの苦いお茶は苦手だよ。茶室はやめて、ここでいいじゃないか。紅茶かコーヒーで食べてもおいしいし」

 テイラー氏が首を振ってそう言うと、達郎も頷いて話に加わった。

 「俺もあの堅苦しい作法は御免だな。お茶会は久美子さんと二人でやってください。親方と俺はここでコーヒーブレイクしますから」

 「久しぶりにみんな揃ったというのに、そんなわけにはいかないでしょ。わかりました。お茶室はまたにします。今日は教室をお休みして、四人で思う存分お話しましょう。久しぶりに日本の話もききたいし」

 「ミユキも久しく日本に帰っていないからな」

 久美子は達郎の日本での話などききたくなかった。いつもは楽しいはずの食事会も、今の久美子には苦痛だった。笑顔を取り繕ったが、やはりいつものようにはいかなかった。

「どうした?クミコ。具合でも悪いのかい?元気がないけど」

テイラー氏が聞いた。

「いえ、そんなことは。昨夜ちょっと眠れなかったものですから」

「だったらいいけど。寝不足は身体によくないわ。今日は早く休んでね」

「あ、はい。ご心配おかけしてすみません」

「ここのところ急に涼しくなったからね。風邪には気をつけなよ」

達郎のその言葉に久美子は静かに笑っただけで、返事を返さなかった。時間がきて、久美子と達郎は笑顔でテイラー夫妻に別れを告げると、二人でガレージまで歩いた。ガレージの前まできたとき、達郎が言った。

 「俺、何かした?」

 「えっ?」

 「君を怒らせるようなこと、した?」

 「何もしていないわ。どうして?」

 久美子は下を向いたまま答えた。

 「俺の目を見ないから」

 その言葉に久美子は顔を上げた。達郎と目が合った。久美子はとっさに下を向き、先にガレージに足を踏み入れた。達郎も後に続いた。黙って車に乗り込もうとする久美子に、達郎が背後から声をかけた。

 「うちに来てくれたんだって?トムからきいたよ。でも、君はすぐに帰ってしまったって…」

 「いきなり押しかけて悪かったわ。もうしないから」

 「そういうことを言っているんじゃないよ」

 「疲れてるの。またにして」

 久美子はそう言って車に乗り込んだ。閉めようとしたドアを達郎がとどめた。

 「俺が彼女と寝たことが、そんなに気に入らないのか?」

 達郎のその言葉に、久美子は驚いて顔を上げた。達郎は久美子を射るように見つめた。久美子はその視線に釘付けにされ、目をそらせることができなかった。図星をさされてしまったが、「はいそうです」と言うわけにはいかない。

 「ばかなこと言わないで。どうしてそんなことで嫉妬するのよ」

 久美子はそこまで言ってはっとした。“嫉妬”という言葉を口にした自分を悔いたが、すでに遅かった。

 「俺が彼女に会うのは半年に一度、枕を並べて寝るのは一週間だけだ。でも君は、毎日枕を並べて寝てるだろ」

「言ってる意味がわからないわ」

「俺がどうして日本に行ったと思う?」

 「毎年のことだからでしょ。ちょうど会いに行く時期だったのよ」

 「違うよ」

 「何が違うの?会って、愛し合って、今は幸せいっぱいでしょ」

 久美子の目は潤んでいた。達郎の表情が険しくなった。

 「君は俺をどう思ってるんだ?」

 「どうって…。私には家庭があるわ。結婚してるのよ。子供だっているし」

 「結婚してるとか、家庭があるとか、俺のききたいことはそんなことじゃない。君は俺を、男としてどう思ってるのかってきいてるんだ」

 別にどうこうしてくれと言うつもりはなかった。久美子の家庭を壊す気などない。ただ、愛していると言ってほしかった。

 「私は結婚してるのよ。そういうのってよくないでしょ?テイラーさんやおくさまの手前もあるし」

 煮え切らない久美子に、達郎は業を煮やした。

 「つまり君にとって俺は、単なる友人に過ぎなかったってことなんだな!」

 吐き棄てるようなその言い方に、今度は久美子が苛立った。

 「それ以外に何があるっていうのよ!」

 久美子はそう叫んで、達郎を見上げた。売り言葉に買い言葉とはこのことだ。だが、素直に自分の気持ちを認めてしまえば、どういうことになるかは目に見えている。その境界を越えるだけの勇気はまだない。

 「君はうそつきだな。素直じゃない」

 達郎はそれだけ言ってドアから手を離した。そして、久美子に背を向けて言った。

 「彼女を抱いても、俺の気持ちは戻らなかったよ…」

 ハーレーのエンジン音がガレージいっぱいに響いていた。久美子の車のドアは、まだ開いたままだ。ハーレーの爆音と共に、達郎はガレージを出て行った。遠ざかるその音を、久美子は目を閉じたままきいた。瞳からは涙があふれていた。

「だからって、私にはどうしてあげることもできない」

久美子はひとり言のようにつぶやいた。

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第12章 不倫の代償

 「加奈子さんたち、離婚(わか)れるらしいね」

 「ええっ?」

 帰宅早々、夫からとびだした言葉に久美子は驚いた。玄関先で夫が脱いだブレザーと鞄を受け取る。夫はネクタイをゆるめてワイシャツのボタンをはずすと、深くため息をついた。二人でリビングのソファーに腰をおろす。

 「美樹はもう寝たのか?」

 「ええ。あなた夕食は?」

 「済ませてきたよ。水を一杯くれないか」

久美子はキッチンへ行き、水の入ったグラスをもってきて、夫に差し出した。

「アポイント先のホテルで偶然ご主人と鉢合わせてね。誘われて少し飲んだんだが、だいぶまいっていたよ」

 「先日、うちでパーティーしたばかりじゃない。とてもそんなふうには見えなかったわ」

 「君は加奈子さんから何もきいていないのか」

 「ええ」

 「そうか…。原因は加奈子さんの浮気らしい」

 「浮気?あの生真面目な人が?信じられないわ」

 「どうやら相手にも家庭があるらしい。加奈子さんは来年早々家を出るそうだ」

 「祐樹君はどうなるの?」

 「親権はご主人がとったそうだよ。加奈子さんは専業主婦だから、いきなり二人で世間に放り出されてもやっていけないだろう。あるいは、その相手と再婚するかもしれないし」

 「そんなばかな…」

 翌日、久美子は加奈子のもとに電話を入れた。加奈子も夫から昨夜のことをきいたのだろう。電話の意図がわかっていて、久美子を自宅に誘った。

 昼下がり、久美子は加奈子の家のテラスでお茶を飲んだ。

 「ご主人からきいたのね。もう、あの人ときたら、口が軽いんだから」

 「驚いたわ。いつも仲がよくて、とてもそんなふうには見えなかったから」

 「ごめんなさい。隠してたわけじゃないの。でも、こういうことって別に話すことでもないでしょ?夫に対してもそう」

隠すことでも、話すことでもない…。久美子は加奈子のその言葉に達郎のことを思った。

「でも、ホテルで鉢合わせてしまったのよ」

 「ホテルで鉢合わせ?」

 「ええ。夫は他の外人女性と、私は他の外人男性とウィスラーのウェスティン・リゾートでばったり。真昼の情事に溺れた後、部屋を出たら、向こうも部屋を出てきて、偶然にもとなりの部屋だったのね。ああ、こういうのって偶然じゃなくて、必然っていうのかしら」

 淡々と語る加奈子に、久美子は開いた口がふさがらなかった。それに、加奈子だけではなく加奈子の夫まで?いったい何がどうなっているのか。久美子が知っている良妻賢母の加奈子からはとても想像できない。

 「相手の女性は夫の秘書よ。カナダに赴任してきてからだから、もう3年になるかしら。私は、相手の男性とは協会で知り合ったの。昨年退会してしまったから、あなたは知らないわね。達郎さんは彼を知ってると思うけど」

 加奈子はそう言って久美子をちらりとみた。久美子はとっさに下を向いてしまった。

 「夫の浮気癖は日本にいたときからなの。それまでは泣き暮らしてきたけれど、だんだんばからしくなってきて…。夫への当てつけに始めた浮気だったわ。そう、浮気のつもりだったのに…本気になってしまったのよ」

 「それで離婚を?」

 「まさか。相手にだって家庭があるのよ。そんなこと考えてもみなかったわ。離婚を切り出したのは夫の方よ」

 「でもご主人だって、その、浮気をしてるわけでしょう?その女性と結婚するために?」

 「彼の場合は完全な浮気よ。秘書と結婚する気などないわ」

 「だったらべつに別れなくても…。祐樹君だっているんだし」

 「男って勝手なものよね。自分はさんざん遊んでおいて、私の方は初めてだっていうのに、一回の浮気も許せないのよ。ううん、夫をかばうわけじゃないけど、浮気じゃなくて本気だから許せないのかもしれないわね」

 「本気だから?」

 「屈折してると思うかもしれないけど、あの人が愛しているのは私だけよ。その証拠に、これまでもどんなに遊んでも、必ず私のところに戻ってきたわ。あの人は頭と下半身が別な人なのよ。男の性(さが)が人一倍強いのね。それがわかっていたから、私も許してこられたのかもしれない。でも今度のことは、夫からの三下り半じゃ、出て行くしかないわ」

 「祐樹君のことは?子供を取り上げられて、あなたは生きていけるの?」

 「それが一番つらいところね。でも、今の私には祐樹を養ってはいけないわ。自分の生活の糧だって、どうやって得たらいいかもわからないのに」

 「相手の人とは結婚できないの?その人にだって今回のことは話したんでしょう?」

 「もちろんよ。でも、残念なことに、彼にはそこまでの気持ちはないって。彼は、私が彼を想うほど、私を好きじゃなかったのよ。それどころか、彼にも棄てられたわ」

 「そんな。だったら、ご主人のところに戻っても何の問題もないじゃない。たった一度のことでしょう?ご主人のこれまでのことに比べたら…。そんなの不公平だわ」

 「夫は一度こうと決めたら、けっして後には引かない人よ。祐樹には、本当に悪いと思ってるわ。夫はおまえから言えって…。でも、あの子の顔を見ると言い出せなくて…」

 加奈子はそこまで言って、泣き崩れた。加奈子が子煩悩であることを、久美子は知っていた。お腹を痛めて生んだわが子は、自分の分身のようなものだ。久美子が達郎への想いを必死に抑えようとするのも、夫のためというより、美樹への思いの方が強い。

 夫には他人の家のことに口をだすなと止められたが、久美子は放っておくことはできなかった。加奈子の夫に会って、加奈子を許してくれるよう頼んだが、加奈子の言う通り、その意思は固かった。

そして、加奈子は年明けを待たずに離婚した。独りで日本へ帰る加奈子に、夫は祐樹の空港での見送りも許さなかった。それからいくらもしないうちに、夫は一家で暮らした家を売り、祐樹と共にとなりの街へ引っ越していった。

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第13章 プリンス・ジョージの森

 今日は美由紀の英会話教室の日である。と同時に、久美子の料理教室でもあるのだが、美由紀が風邪をこじらせてしまったため、休講になってしまった。だが、その後の電話で、急きょテイラー氏と出かけることが決まった。テイラー氏がログハウスの建設現場に連れて行ってくれるというのだ。

 久美子はチェックのブラウスにジーンズ、厚手のジャンパーにスニーカーという登山スタイル。テイラー氏の服装も似たり寄ったりだが、テイラー氏は頭にカーボーイ帽(?)を被っているせいか、西部劇に出てくるガンマンのようであった。運転免許の取得以来、テイラー邸にはずっとマイカーで通っていたので、ベンツのお迎えは久しぶりだった。雰囲気といい、乗り心地といい、やはり高級車はいいものだと久美子は思った。

 車が向かったのは山林ではなく、バンクーバー国際空港であった。何とテイラー氏は自家用機を持っており、これからそれに乗ってプリンス・ジョージに行くという。自家用機に乗るのが初めての久美子は興奮を隠せない。本当にテイラー氏には驚かされるばかりだ。外国の金持ちはスケールが違う。

 ロッキー山脈の西の麓に位置するプリンス・ジョージは、ブリティッシュ・コロンビア州最大の林業都市だ。バンクーバーは街と森と海とが美しく調和した街であるが、ここプリンス・ジョージは山林しかない。

 空港に到着すると、ベンツではなかったが、一台の車が迎えにきていた。運転手は、運転手というより現場の作業員という感じであった。後でわかったことだが、彼はテイラー氏の会社を代表するプロのログビルダーで、テイラー氏が海外出張でいないときはテイラー氏の代行を務める、言わば片腕ともいうべき存在であった。

 ハイウェイに入ってすぐに街並みは消えた。見渡す限り森、森、森で、その中から現れた民家は数えるほどしかなく、たまに行き交うトラックには、切り出したばかりの丸太が山積みされていた。

一時間ほど走っただろうか。車はハイウェイを折れ、林道に入った。ほどなくして森が拓け、そこでは30人ほどのログビルダーがチェーンソーやアックス(斧)を片手に作業に従事していた。女性の姿はなく、久美子は急に場違いに思えてきて、下を向いてしまった。そんな久美子に、テイラー氏が笑顔で話しかけた。

 「どうしたんだい?来る前はあんなにはしゃいでいたのに」

 「いかにも男の世界って感じで圧倒されてしまって…。私、ここにきてよかったんでしょうか…」

 「ははは。ここにはたまたまいないだけで、当社には女性のビルダーも沢山いるんだよ。臆することはないさ」

 「えっ?ログビルダーって男性がなるもんじゃないんですか?」

 「男も女も関係ないさ。でも、クミコのその細い腕じゃ無理だなあ。彼らが使っているチェーンソーは6キロ以上あるからね。まあ、母親が片手で子供を抱くのも重いだろうが、それを持って作業するのとでは、全然感じが違うからね」

 ビルダーの一人がやってきた三人に気づき、仲間に合図を送った。そのうちの一人が久美子を見て、唇を鳴らした。全員がいっせいに道具を置き、テイラー氏のもとに集まってきた。

テイラー氏も身長190センチと大柄だが、中には2メートルを越す大男が何人もいて、久美子は怖くなり、慌ててテイラー氏の後ろに隠れた。テイラー氏はそんな久美子を見て吹きだした。

 「みんな、ご苦労さん。そしていつもありがとう。これからもよろしく頼むよ」

 テイラー氏はそう言って、差し入れの缶コーヒーを、一人ひとりに手渡しで配った。みんな感激している。聞けば海外を飛び回っているテイラー氏が、こうして現場に顔を出すことはめったにないという。

 皆が持ち場に戻り、作業が再開された。テイラー氏は久美子に、丸太が切り出されてからログ材になるまでの説明を始めた。ログハウスができるまでの工程は長く、ログ材にするまでの地味な下仕事が最も厳しく重要なのだと、テイラー氏は話してくれた。ドローナイフを使った丸太の皮剥ぎや、丸太の線引き、チェーンソーでの加工など、ただログ材を組み立ててハウスにするだけがログビルダーの仕事でないことを、久美子は初めて知った。

 「このハウスの工期は三ヶ月でね。その間、ここにいる連中はここから近いロッジで合宿生活をする。もちろん休みはなしだ。ログビルダーの仕事は雪が降る前までだから、今が最も忙しい。その代わり、春の雪解けまで仕事は休みだ。その間、みんな長い休暇をとって、家族で暖かい所に旅行に行ったりして、のんびり過ごす。それがビルダー風さ」

 「三ヶ月も家を留守にするなんて、まるでプロ野球選手か、船乗りみたいですね」

 「ははは。クミコのご亭主は一般的なサラリーマンだからな。クミコも結婚する前はそうだったんだろう。体力的にかなりきついし、定収入ではないが、これもやりがいのある仕事だよ。みんなで一つのものを作り上げる喜びも素晴らしいが、こうして森で働くことで、人間が動物と共存できることがわかる。この森には鹿やリスだけでなく、グリズリー(クマ)もいる。だが、私たちが彼らの領域を侵さなければ、彼らも私たちを襲ったりはしない。私たちがここで作業をしていることがわかっても、邪魔しにきたりしないんだ。ビルダーが丸太にチェーンソーで歯を入れるときは、敬虔な気持ちで向かう。なぜなら人間も自然の一部だからだ。自然をこよなく愛せなければ、この仕事はできない」

 久美子はテイラー氏の言葉に感動した。世界一のログビルダーと言われるジョン・テイラー。彼のもとには彼自身の人柄を慕い、多数のログビルダーが、世界中から集まってくる。一流になった後も彼らは、技術のみならず、人としての教えを乞いにカナダに足を運ぶのだと、久美子は達郎からきいた。テイラー氏はカナダでログビルダー養成スクールを立ち上げているので、そこで教鞭をとることはあるが、直に弟子をとることはあまりない。その第一の弟子が先ほどの運転手、スティーブであり、第二の弟子が達郎なのである。

 「この現場にはタツローもきているんだよ。ごらん」

 そう言ってテイラー氏は、現場の片隅で丸太の皮剥ぎをしている小柄の男性を指差した。身長170センチの達郎は日本では普通だが、この中では小人のようであった。みんながテイラー氏のもとに集まってきたとき、達郎は最後尾におり、2メートル以上ある男たちの後ろに立っていたので、久美子からは見えなかったのだ。

 「やあ、タツロー。相変わらず皮剥ぎ専門かい?」

 丸太にまたがり、わき目も振らずに汗だくで作業をしている達郎に、テイラー氏は笑顔で話しかけた。

 「ああ、親方。もう、明けても暮れてもこればっかりですよ。昼になれば少しはいいんですが、朝の丸太はバリバリに凍ってて、全然進まなくて。毎日へとへとです」

 「だからクミコを連れてきたんだ。これで元気が出ただろう?食料もたっぷり差し入れしといたからな。がんばれよ、炊事係」

 テイラー氏は達郎と久美子の気持ちを見透かしているようだった。だが、テイラー氏にそう言われても、久美子は不思議といやな感じがしなかった。テイラー氏が自分たちを信頼して、暖かく見守ってくれていることがわかったからだ。久美子はテイラー氏の後ろからひょっこり顔を出した。

 「こんにちは」

 「やあ。何かカッコ悪いな。どうせなら、チェーンソーで丸太をカットしている姿を見てほしかったのに。あいにくまだやらせてもらえないんだ」

 「皮を剥いでいるあなたも充分ステキよ。それはいつかの楽しみにとっておくわ」

 「あっはっはっ。皮を剥いでいる姿がカッコいいなんて、男冥利に尽きるな、タツロー」

 そう言って、テイラー氏は二人をからかった。

 「さて、久しぶりに現場にきたことだし、私も少し汗を流すとするか。タツロー、おまえのアックスをちょっと貸してくれ」

 テイラー氏は達郎のアックスを受け取ると、責任者を呼び、現場にいる見習いのビルダーたちを呼んでくるように言った。そして全員が集まると、テイラー氏はアックスを振り上げ、慎重に丸太を削り始めた。丸太を角ログに削り落とすこのログワークは、下手をすれば、跳ね返ったアックスですねをおとしてしまう。その高度なテクニックに、現場からため息がもれた。

 やがてテイラー氏と久美子は現場を後にした。テイラー氏の指示で、今度は達郎が空港まで送ることになった。テイラー氏は助手席、久美子は達郎の後部座席に乗った。

テイラー氏と達郎が仕事の話で盛り上がっている間、久美子は窓の景色に目をやりながら、先日達郎と言い争ったときのことを思い出していた。

あのとき、テイラー夫妻の手前がどうとか、結婚して子供がいるなどという、わかりきったゴタクを並べ、その場をごまかした。このような大自然にいだかれて仕事をしている達郎が、浮気などという生半可なものを求めるはずがない。あのときの達郎はただ純粋に、久美子の気持ちをききたかっただけなのだ。久美子は先回りをし、空回りをしていた自分を恥じた。

 達郎はプリンス・ジョージの空港の入口で二人を降ろし、そのまま引き返していった。久美子は達郎の車が見えなくなるまで手を振った。

達郎はバックミラーの中で小さくなってゆく久美子を見つめていた。やがて道がカーブにさしかかると、達郎はゆっくりとハンドルを切りながら、見えなくなる久美子に向けてクラクションをならした。

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第14章 許されぬ思い

 久美子は家族と共に日本に帰国し、夫の実家で新年を迎えていた。転勤族のため、別居こそしているが、夫は三人兄弟の長男である。嫁の久美子は入れ替わり立ち代わりやってくる舅の兄妹や、親戚一同のもてなしに追われて、暮れから正月三箇日は戦争だ。男女平等時代が到来したとはいえ、それは社会生活でだけで、家庭生活ではまだ男尊女卑の壁は厚い。特に夫の家のように先祖代々から続く旧家では、嫁姑の上下関係は絶対的で、普段は紳士的な夫も、実家では亭主関白を装う。娘の美樹だけがそんな久美子をいたわり、食器のあげさげを手伝ってくれる。

三箇日が過ぎると、今度は久美子の実家へ行くことになるが、こちらも昔からの旧家ときているので、母の手伝いに追われて休むことはできない。夫がそんな久美子の身体をいたわり、帰りのフライトはビジネスクラスをとってくれた。久美子は機内で死んだように眠り続け、美樹に揺り起こされて目を醒ましたときには、飛行機はバンクーバーの上空から下降を始めていた。

10日ぶりに戻ったバンクーバーはどんよりと曇っていた。バンクーバーの冬はかなり寒いが、温帯なので、山岳地帯を除いて雪は降らない。その代わり、冷たい雨が連日のごとく降り続く。

久美子は眠い目をこすりながら、夫や娘と共に入国審査に向かった。続いて手荷物受取所でスーツケースが出てくるのをまつ。久美子は完全に目が覚めておらず、コンベアーの前で通り過ぎてゆく荷物をぼんやりと眺めていた。

 夫や美樹の冬休みも明日で終わり、いつもの日常がやってくる。テイラー夫妻は世界一周旅行に出かけてしまい、春まで帰ってこない。達郎は航空券が高いこの時期には日本に帰らないが、春の仕事再開まで、バイトと建築士の受験勉強に精を出すと言っていた。

自分はこれまでこれといった夢もなく、それに不満や不安を感じたことはなかったが、最近はそういう生き方が、人生の無駄遣いをしているように思えてならない。何か打ち込めるものを捜すべきかもしれないと、久美子は思い始めていた。

 流れてきたスーツケースを、夫が次々とカートに積み込む。久美子は美樹と手をつなぎ、夫と並んで到着ロビーに出た。ロビーは人でごったがえしていたが、久美子はそこで一瞬にして目が覚めた。目の前に達郎が立っていたのだ。

 久美子は立ち止まってしまった。なぜ達郎がそこにいるのかわからなかった。確かに今日戻ることは知らせてあったが、家族で帰ってくる久美子を達郎が出迎えるはずはないし、二人はそういう間柄でもなかった。

 同様に、達郎の方も驚きを隠せなかった。久美子が今日戻ることはきいていたが、まさかこのフライトだとは思わなかった。それもこんなにも大勢の中で鉢合わせるとは、運命の皮肉としか言いようがなかった。

 「どうした?久美子」

 「ママ?」

 夫と娘の声が耳の遠くできこえたが、久美子は達郎から目が離せなかった。久美子は日本にいる間も、達郎のことばかり考えていた。忙しさに追われれば追われるほど、離れれば離れるほど、会いたさが募った。あんなにも会いたくて仕方のなかった人が、今、目の前にいる。だが人妻の立場では、駆け寄ることも、再会の喜びを笑顔で表すこともできない。

 一方、達郎の視線は、久美子を不思議そうに見上げる娘の美樹に注がれていた。夫の鈴木とはフェアモントホテルのバーで顔を合わせたが、娘を見るのは初めてだった。目元とつんとした唇が久美子に似ている。久美子が結婚していることははじめからわかっていたことだが、改めて一家団欒の図を見せつけられると、さすがに胸が痛んだ。

 達郎は正直のところ、これまでの人生で心底結婚したいと思ったことは一度もなかった。恋人の由起子に対しても、長年のつき合いということもあり、結婚するとしても、その延長という意識しかなかった。

 だが、久美子に対しては違った。達郎にとって久美子は、一緒にいて楽しい女性(ひと)、いつまででも話していたいと思う女性だった。“一緒に年をとっていけたら、人生楽しいだろうな”と思ったのは、久美子が初めてだった。

 「達郎!」

 そのとき、一人の女性が手を振りながら久美子を追い越し、笑顔で達郎に歩み寄った。

「ごめんなさい。荷物がなかなか出てこなくて。まった?」

久美子はその顔に見覚えがあった。髪型こそ違うが、それはまぎれもなく、達郎の家に飾られていた写真たての恋人その人であった。

久美子はまじまじとその横顔を見つめた。まじかで見るその女性はショートヘアで、小柄でロングヘアの久美子とは対照的だった。長身でスラッとしており、165センチはあるだろうか。久美子は黒髪のストレートだが、その女性の髪は薄いブラウンで、ゆるくカーブしている。顔立ちも、久美子は切れ長の奥二重で純日本風だが、その女性はくっきりとした二重瞼に大きな瞳、そして長い睫といった西洋風の、美しい女性だった。

一方、達郎は由起子の問いには答えず、呆然としたままだった。その視線は、はるばる日本からやってきた恋人を通り越して、今度は久美子に注がれていた。

「どうしたの?」

由起子は達郎に再び話しかけた。達郎の険しい表情に何気なく振り返ると、達郎と同じように、こちらをみている女性がいるのに気がついた。由起子は再び達郎に視線を戻し、その視線の先をたどった。すると、またその女性に辿り着いてしまった。

久美子と由起子の目が合った。久美子は目をそらしたが、由起子はそのままだった。

「きれいな女性(ひと)ね。日本人形みたい。知り合い?」

由起子の言葉に達郎ははっと我に返った。

「あ、いや。人違いだったみたいだ。行こうか」

「あら、そうなの?」

達郎は久美子から視線をはずし、由起子のスーツケースを手に取ると、背を向けて歩き出した。

(せっかく会えたというのに、行ってしまう…)。

久美子の目は潤んでいた。達郎と肩を並べて歩く女性が自分でないことが悲しかった。ただの一人の女として、達郎と向き合えない自分が恨めしい。なぜ自分は結婚しているのだろう。どうして子供がいるのだろう。もっと早く出逢いたかった。その女性より先に…。

「ママ、ママってば。どうしたの?」

「久美子、具合が悪いのか?」

「疲れが出たみたい。帰ったらすぐに休むわ。行きましょう」

そう言って久美子は達郎とは反対方向に歩き出した。少し進んで、さりげなく振り返ると、小さくなっていく達郎の後姿が目に入った。何かを感じたのか、達郎も歩きながら振り返った。そこには、子供と一緒に夫の後をついてゆく久美子の姿があった。

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第15章 つかの間の休息

 達郎はレンタカーに由起子の荷物を積み込んだ。由起子はすでに助手席に乗っていて、車の中から周囲を見回していた。

 車が走り出した。

 「昨日、突然電話をもらって驚いたよ。もう少し早く連絡できなかったのか」

 「迷惑だった?」

 「いや。でも、ホテルじゃなくていいの?」

  「どうして?

  「昔から“虫がいそうでイヤだ”とかなんとか言って、ログハウスを毛嫌いしていただろう?わかっていると思うけど、俺のうちはそのログハウスなんだぞ」 

 「私も少し勉強してきたの。ログハウスに虫がいないことは学んだわ」

 「言っておくけど、俺が住んでいるのは繁華街じゃなくて、山奥の山小屋なんだ。おもしろくも何ともないぞ。ウィンドウショッピングするならダウンタウンまで出なきゃだめだし、俺はおまえの洋服捜しにつき合うのは御免だし。休みだからって、勉強をサボるわけにはいかないんだ」

 由起子は吹きだした。

 「何がおかしいんだ?」

 「だって…。学生時代、あんなに勉強嫌いだった人がそんなことを言うなんて。年月は人を変えるのね」

 「学校の勉強とこっちの勉強は違うだろ」

 「そうかしら。でも、私のことなら心配無用よ。私は私で楽しくやるから。こっちにはいいスキー場がたくさんあるでしょ?スキー狂の私としては、連日通いつめるつもり」

 そう言って、由紀子はカバンの中からガイドブックをちらつかせた。

 「主だった観光スポットくらいは案内するよ。スキーだって毎日は無理だけど、ちゃんとつき合うし、飯だって作ってやるよ」

 「毎日カレーは御免よ。インスタントラーメンもね」

 「20代の頃とは違うさ。ずっと自炊してるから、レパートリーも増えたよ」

 「その料理って食べられるのかしら」

 「もちろんさ。年月は人を変えるって言ったろ?泊り込みで仕事をするときは毎回自炊係なんだ。俺のビーフシチューは最高にうまいぞ」

 「外食に行ったりはしないの?」

 「そんな贅沢してたら、生活していけないよ。先生のおまえと違って俺は貧乏だし」

 その言葉に由起子は黙り込んでしまった。

 「あっ、ごめん。別に嫌味で言ったわけじゃ…」

 「わかってるわ。あなたの性格くらい」

 由起子はそこまで言って再び黙り込んでしまった。

 車はバンクーバーを抜け、ノースバンクーバーに入った。達郎のログハウスは街中から6キロ離れた山の中にあるが、山頂ではないので、雪が積もることはない。降っても粉雪が舞う程度だ。だが今日の冷え込みは激しく、二人が到着した頃には、地面がうっすらと雪化粧をしていた。

 達郎は車からスーツケースをおろし、由起子を家の中に案内した。

 「寒いだろ?今ストーブをつけるから」

 由起子は家の中を見回した。高校時代、達郎の部屋で見た本の世界がそこにあった。ゆっくりとだが一歩ずつ、確実に達郎は夢に近づいている。由起子は達郎の恋人であることが誇らしく思えた。周囲はいろいろなことを言うが、由紀子はそんな達郎が好きだった。

 由起子はリビングのソファーに腰をおろした。部屋に置かれたボードの上には二人の思い出のスナップが飾られている。由起子はもっと早く来るべきだったと自分を悔いた。

 達郎がコーヒーカップを両手に持って、由起子のところにやってきた。カップを由起子に手渡す時、達郎はこれと同じ光景を思い出した。あのとき、ここに座っていたのは久美子だった。だが、達郎は即座にその姿を頭から追い出した。

 「ワークホリックのおまえが一週間も仕事に穴をあけるなんて、大丈夫なのか?」

 「うん…」

 由起子は両手でカップを持ちながら、静かに頷いた。

 「大丈夫じゃないみたいだな。それでいきなりこっちに来たのか。話せよ」

 「うん…」

 由起子は手に持っていたカップをテーブルの上に置き、となりにいる達郎の腕にゆっくりともたれた。達郎が由起子の肩を抱くと、由起子は職場での一部始終を話し始めた。雇っていた従業員が、他の事務所に取引先ごと引き抜かれ、経営が悪化してしまったのだ。由起子は自信を喪失していた。達郎は夜を徹して由起子の話に耳を傾けた。そして二人は生まれたままの姿で眠った。

 翌朝、由起子は鳥の声で目が覚めた。車の音も、人のざわめきもない。豊かな自然と静寂が、由起子をやさしく包んだ。ベッドに達郎の姿はなかった。

 着替えを済ませて階下に降りていくと、いい匂いが鼻をついた。キッチンでは達郎が朝食の支度をしていた。トースターがカシャンと音を立てた。

 「おはよう。ちょうど飯ができたところだ。今、味噌汁を盛るから」

 「味噌汁?」

 「日本人の朝飯にはやっぱり味噌汁だろ?ご飯と漬物はないけど」

 「この味噌はどうしたの?」

 「ダウンダウンには世界中の食品が揃っているんだ」

 「ふーん」

 目玉焼きにトースト、それにコーヒーというのは頷けるが、ワカメの味噌汁をつけるところが、和食党の達郎らしい。

 達郎は味噌汁をスープ皿に盛り、テーブルの上に置いた。

 「お椀はないの?」

 「箸もないよ。ここは外国だから、フォークとスプーンで食べてよ」

 「いただきます」

 「卵以外ならおかわり自由だから」

 「うん」

 滞在中、達郎はレンタカーでバンクーバーの観光スポットをくまなく案内してくれた。スキーは、ダウンタウンから車で30分の『サイプレス・マウンテン』に出かけた。ここからはハウサウンドの海や、バンクーバーのランドマークであるライオンズの山々が見渡せた。

 日本に帰る前日、二人はグラウス山のゴンドラに乗って『グラウス・マウンテン』の山頂レストランに出かけた。バンクーバーの夜景を見ながらのディナーは、地元でも評判だった。

 「ここ、高いんでしょ?来たいとは思っていたけど…」

 「大丈夫だよ。俺だって、半年に一度くらいは外食しないと」

 「半年に一度なんて…。お世話になったお礼に私が出すわよ。無理しないで」

 「無理なんかしてないよ。恥をかかせるようなこと言うなよな」

 翌朝、達郎は由起子をバンクーバー国際空港まで送っていった。出発ロビーで別れる時、由起子は達郎の胸に顔をうずめた。由起子の目は潤んでいた。

「がんばれ。おまえならきっと乗り越えられる」

「ありがとう。今度くる時はお椀と箸をもってくるわね」

「事務所が軌道にのったら、またいつ来られるかわからないだろ?」

「そうね。そうしたらまたあなたに通ってきてもらうしかないわね」

由起子は笑顔で手を振った。達郎も手を振り返した。

由起子のぬくもりは、久美子へのつらい恋をしばし忘れさせてくれたのだった。

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第16章 運命の宣告

 久美子がカナダにきて三年が過ぎていた。

毎週ではないが、久美子は相変わらずテイラー邸に足を運んでいた。久美子は美由紀を姉のように慕い、美由紀も久美子を妹のように思っていた。二人は時間が経つのも忘れて語り合い、一緒にウィンドウショッピングに出かけたりもした。月に二度は、達郎もジョンの講義を聴きにやってくる。そんなときは四人で昼食をとった。

 達郎とは友人でも恋人でもなく、はたまた単なる知人でもない状態が続いていた。携帯の電話番号はとうの昔に交換し合ったが、かけたことは一度もない。互いに魅かれ合っていることはわかっていたが、その先に進むことはなかった。

 だが、すでにぎりぎりのところまで来ていることに、久美子も達郎も気づいていた。それでも一線を越えずにきたのは、お互いにそれなりの理由があったからだ。

久美子にとって達郎と交わることは、家庭を捨てることを意味した。抱かれたら溺れてしまう。母親であることを放棄してしまうに違いない。家庭か達郎か、いずれは選ばなければならない時がやってくる。そして、気持ちに後戻りがきかない以上、達郎を選ぶことになるだろう。だが、それは今ではない。美樹がもう少し大きくなるまで、せめて思春期を終えるまでは、この家庭を壊すわけにはいかない。だが、久美子は今すぐにでもそうしてしまいそうな自分が怖かった。幼い美樹を悲しませることはできない。かといって、達郎を失うこともできない。達郎に対して身勝手なことは重々承知で、久美子は可能な限り時を引き延ばしていたかった。達郎ならわかってくれるという甘えが、久美子の中にはあった。

そんな久美子に比べ、達郎が一線を越えない理由はもっと単純だった。これまでテイラー邸で二人きりになる機会は幾度もあった。そのたびに、達郎は懸命に自分を抑えてきた。久美子が人妻だからではない。指一本でも触れてしまったら、無理やりにでも犯してしまうだろう。抱いてしまったら、帰したくなくなる。久美子が結婚しているのはわかっている。わかっているが、それでも自分以外の男と交わってなどほしくない。たとえ何もなくても(それはあり得ないが)、愛する女が自分以外の男と暮らしているのは、苦痛以外の何ものでもない。達郎にとって激情のままに久美子を抱くことは、久美子の家族を憎む自分をむき出しにすることに等しかった。女々しい自分をさらすのは、男として絶対に避けたかった。

久美子は家族と共にダウンタウンの高層マンションに住んでいた。そこからは達郎の住むノースバンクーバーの山々を見渡すことができる。だが、今日はあいにくの曇り空で何も見えなかった。連日の雨で乾かない洗濯物が、乾燥機の中でからからと音をたてて回っている。いつものように掃除機をかけていると、リビングの電話が鳴った。かけてきたのは夫だった。

 「鈴木でございます」

 「ああ久美子!ビッグニュースがあるんだ!」

 「あなた?どうしたの?」

 「本社に栄転になったんだ!日本に帰れるんだよ!」

 「えっ?」

 「こっちでの業績が認められてね。管理職の仲間入りさ!今、辞令が出たばかりだ。社長直々に電話をもらったよ。すぐに君に伝えたくて電話したんだ!」

 久美子の身体は凍りついた。本社に栄転?日本に帰る?

 「久美子、久美子?聞いてるかい?」

 「ああ、ごめんなさい。あまりにも突然で…。帰るっていつ?」

 「何寝ぼけた事を言っているんだ。転勤は今回が初めてじゃないだろう。国内だろうが海外だろうが同じさ。4月から東京だ。カナダにいるのはあとひと月足らずだ」

 「そんな…」

 「美樹も中学に上がることだし、タイミングとしてもちょうどいい。来週には後任がこっちにくる。引継ぎをしなきゃならないから、これから帰りは遅くなる。それも日本に帰るまでの辛抱だ。忙しくなるぞ。荷造りの方は任せたよ。じゃ」

 そう言って夫は電話を切ってしまった。久美子は受話器を握り締めたまま、その場に立ち尽くしていた。頭の中が真っ白だった。日本に帰るということは、達郎と会えなくなるということだ。

久美子は初めて達郎の携帯に電話を入れた。達郎はワンコールで出た。

 「もしもし?」

 「達郎さん?」

 「急にどうしたの?」

 「これから会えない?」

 「これからって、何かあったの?」

 「夫から今電話があって…。4月から東京に転勤だって…」

 達郎もその場で凍りついた。すぐには言葉が出てこなかった。

 「会いたいの」

 久美子は泣き声だった。

 「今、出先なんだ。グランビル・アイランドにあるどこかのカフェでいいかな」

 「あなたの家で…」

久美子は意を決して言った。

 「二人だけで会うのは、よくないだろ?」

 達郎は防御線を張った。

 「今は何も考えられないし、考えたくもないわ」

 「話だけじゃ済まなくなるって、わかってる?」

 「わかってるわ」

二人は達郎のログハウスで落ち合うことになった。久美子は車のキーを片手に、即座にマンションを出た。

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第17章 妻の秘密

ダウンタウンの交差点で信号待ちをしていると、一台の車が追い越し車線に入ってきた。その車はちょうど久美子のとなりに止まった。皮肉にも、入ってきた車は久美子の夫、鈴木であった。

二台並んで、信号が変わるのをまつ。この偶然に夫はすぐに気づいたが、久美子は気づかなかった。軽くクラクションを鳴らしても気づく気配は全くなく、久美子は思いつめた顔つきのまま、信号を凝視していた。

信号が青に変わり、久美子の方が先に走り出した。次の交差点を右に折れれば、一家で暮らすマンションだ。だが、久美子はまっすぐに走ってゆく。このまま行けば車は繁華街を抜け、ダウンタウンを出ることになる。

(いったいどこへ向かっているのか…)。

鈴木は怪訝に思った。やがて久美子の車はスタンレー公園を抜け、ライオンズゲートブリッジに入った。“ノースバンクーバー”の表示が目に飛び込んできた。

ノースバンクーバーにはテイラー夫妻が住んでいる。だが夫妻はこの時期、恒例のバカンスに出かけ、春までは帰らないときいていた。また、ダウンタウン以上のショッピングスポットがノースバンクーバーにあるとも思えなかった。

驚いたことに、久美子の車はノースバンクーバーの郊外に向かっていた。民家の数がぐんと減り、林や森だけの世界になっても、久美子は臆することなく、深い森にどんどん入ってゆく。林の隙間からところどころに小さな家が見えるが、住んでいる気配はない。恐らく別荘地なのだろう。

やがて久美子の車は、メイン道路から数百メートル置きに伸びる山道の一つに入った。鈴木はすぐには後を追わず、道路に停車したまま、久美子が出てくるのを待った。だが、久美子はいっこうに戻ってこない。鈴木は先ほど久美子が入っていった山道に車を走らせることにした。

5分ほどして森を抜けると、一軒のログハウスが姿を現した。久美子の車はその入口をさえぎるように駐車されていた。庭先には一台のオートバイが無造作に止めてあり、こちらも到着して間もないという感じだった。鈴木はハウスから少し離れた森の脇に車を止め、エンジンを切った。

鈴木は車を降りて、玄関口にやってきた。友人同士でパーティーでもしているのか。だが全ての窓は閉まっていて、カーテンが引かれている。音楽も人のざわめきも聞こえない。入口のドアに“ TATSURO SAWAKI ”と書かれた表札がかかっている。久美子はこの表札にある“タツロー・サワキ”という男と一緒にいるのだろうか。良妻賢母の久美子が日中、男とこんな山奥で逢引きしているとは到底思えない。だが傍らに駐車してある車は、確かに自分が久美子のために用意したものだ。ナンバーにも間違いはない。

鈴木はノックしようとした手をとどめた。なぜかはわからないが、ここから先の領域には、足を踏み入れてはならない気がした。何か大切なものを失ってしまうような気がしたのだ。

鈴木は車に戻りエンジンをかけると、来た道を引き返していった。

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第18章 禁断の果実

 脱ぎ捨てた洋服が、玄関口からリビングに続いていた。久美子は夫がきていることにも気づかず、達郎と唇を重ねていた。達郎がドアを開けるのと同時に、その腕に飛び込んだのだった。

 「ここじゃおちつかない。上(二階)に行こう」

 達郎はそう言って腕の力を緩めた。

 「ここでいいわ。何ならこのまま、こうして立ったままでもかまわない」

 達郎は驚いて、腕の中にいる久美子を見た。久美子の瞳は真剣だった。

 「君は大胆なんだな。でも俺は、そんなふうに乱暴に君を抱きたくない」

「彼女と同じベッドで抱かれるのはいやよ」

久美子は達郎の手を振りほどき、つけていた下着をとった。達郎は息を呑んだ。透き通るような白い肌、ふくよかな胸…。

気が遠くなるほど、自分を抑えてきた。突き上げてくる熱いものを押し殺してきた。目の前にいるのに抱けないやるせなさ、苦しさ。その日々が今、報われようとしている。ようやく、久美子のすべてを自分のものにできる。

「わかった…」

久美子の眩しい肢体の前に、達郎の理性は崩れ去った。達郎は久美子を抱き上げ、部屋に置かれているソファーに久美子を横たえた。

「初めて会った時、やっぱりこうしてここに連れてこられたわね」

「こんな日がくるとは想像もしていなかったよ」

達郎は指先で久美子の唇をなぞり、再び口づけた。久美子の指が達郎の髪にからみつくのと同時にそのキスは長い、味わうようなキスに変わった。何度も何度も唇を重ねながら、達郎も久美子と同じ姿になった。

達郎は久美子の身体に唇を滑らせながら両手を這わせ、そのすべてをくまなく確かめた。豊かな胸を交互に口に含み、その果実を存分に味わう。そして深い繁みに顔を埋め、舌を這わせた。久美子の歪んだ表情と悶えるさまが、達郎の男としての本能に拍車をかけた。

達郎の好きにさせていた久美子も、いつのまにか達郎の身体に指を這わせ、唇を滑らせていた。やがて互いの唇が互いの最も大切な部分に触れ、味わい終えると、久美子はゆっくりとその足を開いた。

虚ろな瞳が達郎を凝視している。あらわな姿を惜しげもなくさらす久美子に、達郎は再び息を呑んだ。達郎は一気に久美子の中に滑り込んだ。

達郎の息が荒くなるのと同時に、久美子の喘ぎ声も大きくなってゆく。久美子も達郎も、初めてのセックスで絶頂感を味わえるとは思ってもみなかった。だが、今まさにその絶頂にいる。久美子の熱い身体は、達郎を果てなく包み込み、どんな要求にも抗うことはない。

達郎は限りなくやさしく抱く時もあれば、激しく貪るように抱く時もあった。久美子は達郎の上で抱かれている時、ハーレーに乗っているような錯覚を覚えた。まるでそのエンジン音が身体の中でこだましているようだった。寄せては返す波のように、あるいは何かを登りつめるように、延々と繰り返される愛の営みに、久美子は何度も声を上げ、崩れ落ちた。

やがて小刻みに揺れる久美子の胸に、達郎の汗がポトポト落ちてきた。達郎は長い旅を終える直前に、自身を久美子の身体から離した。そして再び久美子の胸に顔を埋め、身体を重ねてきた。久美子の身体の上を熱いものが流れ落ちた。

室内に静寂が訪れた。床の上に久美子はうつ伏せ、達郎は仰向けのまま、しばらく横になっていた。乱れた呼吸が整うまでに、だいぶ時間がかかった。達郎は背後から久美子の腰に手を回し、包み込むように抱きしめた。

「ずっと…こうしたかった」

達郎はそう言って久美子の耳元に口づけた。久美子は振り返り、達郎の髪をやさしく撫でた。久美子は達郎の手を自分の胸にいざない、瞳で懇願した。

「きりがないよ。今度こそ離したくなくなる」

「もう限界ってこと?だったら…」

達郎は唇で久美子の言葉をさえぎると、胸に置かれた手をその繁みに移した。

「そんなわけないだろ。まだ充分いけるよ」

今度は達郎が指で久美子をいざなった。唇が、再び久美子の身体の上を滑ってゆく。達郎は指を舌に変え、さらに激しくいざなった。久美子の両足がガクガクと痙攣をはじめ、息遣いが喘ぎ声に変わった。

達郎はようやく顔を上げ、背後から久美子の胸に手を伸ばした。その指で固くなった果実を確かめる。うなじに唇を這わせながら見る久美子は、瞳を閉じたまま唇をわずかに開き、一足先に快楽の世界で溺れていた。

達郎は両手を久美子の両膝に移してその足を開き、久美子の奥深く自身を沈めた。やがて床のきしむ音が室内にこだまする頃、達郎も久美子のいる世界に引き込まれていった。

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第19章 愛の誓い

 時計の針が3時を打った。

 「行かなくちゃ」

 久美子はそう言って、脱ぎ捨ててある下着に手を伸ばした。

 「いやだ。帰さない」

 達郎はそう言って、久美子の手をとどめた。

 「4時には娘が帰ってくるわ。洗濯物もそのままだし、掃除機だって放り出したまま出てきたのよ。一番に帰らないと変に思われるわ。夕食の支度だってあるし」

 「夕食の支度ならここですればいい」

 達郎はそう言って久美子を抱きしめた。

 「そうできたら…」

 久美子はそこまで言って声を詰まらせた。しばらく沈黙が続いた。

 「そういうわけにはいかないか…」

 達郎はそう言って久美子から身体を離した。そして素早く服を着ると、久美子が下着をつけている間に、戸口に脱ぎ捨ててあるワンピースを拾いにいった。

 久美子が着替え終わると、達郎は玄関のドアを開いた。帰すのはつらいが、久美子の困っている顔を見るのはもっとつらい。達郎はドアを押さえるようにして戸口に立つと、久美子に出て行くように促した。

 「じゃ…」

 「結局、何も話せなかったね」

 「お互いに夢中だったから…」

 久美子はそう言って頬を赤らめた。

 「来月の今頃は…君は日本かな」

 「娘の学校のこともあるし…。先に帰国することになると思うわ」

 「ひと月足らずじゃ、何をどうこうもできないね」

 「せめてあと一年、カナダで過ごすことができたら、そうしたら私…」

 「今の俺には君と生きていけるだけの器量も経済力もない。気持ちだけでは君を引き止められない。そうだろ?」

 「そんなこと…」

 「君は俺にどうしてほしい?」

 「今の私は日本にいる自分さえも想像できないの。あなたを失うことも考えられない。現実に心が追いつかないのよ。急にこんなことになって、すぐに結論なんて出せないわ」

「結論なんて出ないさ」

達郎はぽつりと言った。

 「確かに夢だけじゃ食っていけない。君も失くせない。だからって、自分の夢を放り出して、君と生きるためだけに金になる仕事に就いても、俺は…」

 「あなたに会えなくなるのと同じくらい、ログビルダーでないあなたも想像できないわ。もっと早くに出会っていたら…。私が夫と出会う前に、あるいはあなたが彼女と出会う前に。そうしたら…」

 「いや、この年で出会ったことにミスはないんだ」

「結婚しているのに?」

「日本でサラリーマンをしていた俺を、君が愛してくれたとは思えない。君が夢を追う俺を愛してくれたように、俺も今の君だから、結婚した君だからこそ魅かれたんだ。母親としての包み込むようなやさしさに…。若い時に巡り合っても、きっと気づきもせずに通り過ぎてしまっただろう。だからこれでよかったんだよ」

「今は…離れるしかないのね」

「今だけだよ」

「あなたの夢が実現して、一緒に生きられる…。二つの夢が同時に叶う日がくるかしら」

「くるよ。今はまだその時期じゃないだけのことさ。その時がきたら、ずっと一緒にいよう」

 そう言って、達郎は久美子にそっと口づけた。久美子の頬を涙が伝った。

 「愛してるわ。あなたを、誰よりも愛してる」

 久美子は達郎の胸に顔を埋め、強くしがみついた。達郎は久美子のその言葉で、報われた気がした。

 「俺も…誰よりも愛しているよ」

 達郎も抱きしめるその腕に力を込めた。

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第20章 嫉妬

 その日、夫は深夜に帰ってきた。だが、仕事で遅くなったという感じではなかった。足元もおぼつかないほど、夫は酔っていた。出会ってから今日まで、夫の酔いつぶれた姿など、久美子はただの一度も見たことがない。「飲むなら呑まれるな。呑まれるなら飲むな」が、酒豪である夫の独身時代からの口癖であった。

 「なんだ。まだ起きていたのか」

 久美子は夫の目をまっすぐに見ることができなかった。

 「美樹はどうした?」

 「とっくに夜中よ。今お水をもってくるわね」

 鈴木がキッチンに行こうとした久美子の腕を掴んだ。

 「なに?」

 そう言って振り向いた久美子は、はっとするほど美しかった。これほどまでに美しい久美子を、鈴木は見たことがなかった。一気に酔いが醒めた。

 「来い!」

 鈴木はその腕を掴んだまま、強引に久美子を寝室に引っ張っていった。そしてドアをロックして電気をつけると、久美子をベッドに突き倒した。

 久美子は言葉が出なかった。久美子の知っている夫はいつも穏やかで、紳士的な男だった。命令口調も初めてなら、こんなふうに乱暴に扱われることも初めてだった。

 「いったいどうしたの?あなた、何だか変よ」

 「脱げ」

その言葉に久美子は呆気にとられた。

 「そんなになるまで飲むなんて、あなたらしくないわ」

 「つべこべ言ってないで、早く脱げよ」

 「ごめんなさい。今夜はそんな気分じゃないの」

そう言って久美子はうつむいた。

 「僕だってそんな気分じゃない」

 「えっ?」

 「抱く気はないって言っているんだ」

 「だったら、どうして…」

 「脱いで全部見せるんだ!」

 そう言って鈴木は久美子を押さえつけ、衣服を強引に剥ぎ取った。鈴木は嫉妬に怒り狂っていた。

 「あなた、一体どうしたのよ。やめて!」

鈴木はまったく聞く耳を持たなかった。鈴木は本当に久美子を裸にしただけだった。口づけるわけでも、愛撫するわけでもない。

久美子はあらゆる角度から、その視線に晒された。鈴木は右手で久美子の長い髪を掴み、左手で顎と首筋を指でなぞり終えると、久美子の両足を持ち上げて、ゆっくりと手を這わせた。そこまでされて、久美子はようやく夫が何をしているのか気がついた。

 (この人は知っている…)。

 久美子は血の気が引いてゆく思いがした。鈴木は久美子の身体に、達郎の唇の跡を捜していたのだ。

 「あっ…!」

 鈴木の指が久美子の身体の中に滑り込んだ。だが、その指は久美子を導くために入れられたのではない。鈴木はそんな場所までも、指で探っているのだった。

久美子の瞳から涙が流れ落ちた。辱めを受けている自分が惨めだった。だが、甘んじて受けねばならない。自分は夫であるこの人を裏切ったのだから。

 久美子の涙で、鈴木はようやく我に返った。久美子の身体に形跡を見つけることはできなかったが、香り立つような女の美しさが、今まさに恋をしていることを物語っていた。カナダにきて塞ぎ込んでいた久美子を変えたのも、運転免許をとらせたのも、自分ではないことを鈴木は悟った。

 鈴木は着ていた上着を脱いで久美子にかけた。シーツに顔を埋め、すすり泣く久美子が愛おしかった。久美子が自分を裏切ったとしても、他の男に渡す気はない。むしろ他の男に抱かれたことが、久美子の女としての魅力をいっそう際立たせ、鈴木の男としての征服欲を駆り立てた。

 「すまなかった」

 鈴木は久美子の髪にそっと触れた。

 「もう二度とこんなことはしないと誓うよ。許してくれ」

 その言葉に久美子は顔を上げた。

 「何があろうと君は僕の妻だ。僕は君を離さない。忘れないでくれ。君は美樹の母親でもあるんだ。三人で日本に帰ることに変更はない。僕たちはこれからも一緒に生きていくんだ」

 鈴木は久美子の涙を指で拭い、唇にそっと口づけた。久美子の潤んだ瞳と濡れた唇が、鈴木の欲望をそそった。

 「真面目に抱きたくなったが、今夜は我慢するよ。向こうのソファーで寝る」

 鈴木はクローゼットから毛布を出して脇に抱えると、静かに部屋を出て行った。

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第21章 隠された過去

美由紀から久美子のもとに電話が入った。バカンスを途中で切り上げ、カナダに戻ってきたという。夫がテイラー氏の経営する『エコロジカル・ログ・カンパニー』に新任の支店長を連れて異動の挨拶に行ったことで、夫妻は久美子の日本帰国を知ったのだった。

 美由紀は久美子の都合をきき、邸宅に来るように言った。車を処分してしまったため、テイラー邸からベンツが迎えにきた。通い慣れた道…。今度ここを通る日はいつだろう。テイラー夫妻に会えなくなることも、久美子にはこたえていた。

 テイラー邸に着くと、久美子は茶室に通された。茶室では美由紀がしたくを整え、久美子をまっていた。

「失礼します」

久美子はそう言って着座した。

 「お久しぶりね。ところで、ご主人、栄転ですって?」

 「はい。日本に戻ることになりました。来週早々、私と娘だけ先に帰国します」

 「達郎さんには?」

 「直接話しました」

 「直接?」

「はい」

「そう…」

 美由紀が茶を点てている間、久美子はカナダでの三年間を振り返っていた。達郎のことも、カナダでの生活も、これほどまでに早く、こんなにもあっけなく終わるとは思ってもみなかった。明日などこなければいいのにと思う。だが、一日はあっというまに過ぎてゆく。帰国まで一週間もない。

 久美子は差し出された茶を静かに飲み終えた。

「ごちそうさまでした」

「もう一煎いかが?」

「いえ…」

 「境界は…ある日突然越えてしまうものよね」

 久美子は美由紀の言葉に驚いた。美由紀はすべてを見透かしているようだった。これまで達郎も久美子も、互いのことでテイラー夫妻に相談をもちかけたことはなかった。そして、夫妻も二人のことにはいっさい触れてはこなかった。

 「私とジョンがそうだったわ。私は独身だったけれど、ジョンは結婚していた。もう何十年も昔のことよ」

 久美子は美由紀とジョンが不倫から始まったことは知らなかった。

 「それじゃ前のおくさまは…」

 「亡くなったわ。私とジョンが結ばれた日に…。容態が急変して、苦しんで息を引き取ったの。そのときジョンは仕事で日本にきていて、私たちは互いの腕の中で溺れていた。もっとも私とジョンが出会ったときにはすでに闘病生活をしていて、末期がんだったの」

 「そんな…」

 「私たちが結婚するまでには、それからかなりの年月を要したわ。私はジョンと別れて、一度他の人と結婚したりもしたけど、やはりジョンでないとだめだった…」

 平穏に見えるテイラー夫妻にそのような過去があったとは。そして美由紀がその過去を語ってくれたのは、達郎との現状を気遣ってのことだと久美子は思った。

 「私と達郎さんの気持ちには、ジョンさんも美由紀さんも気づいていらしたんですよね」

 美由紀は久美子の言葉に静かに微笑んだだけだった。

「黙って見守ってくださったこと、本当にありがとうございました」

 久美子はそう言って美由紀に頭を下げた。

 「あなたたちはこれからね」

 久美子は驚いて顔を上げた。

 「これから?もう会えないのに…ですか?」

 「男と女は結ばれてからが始まりなのよ。若いうちはとかく早急に答を出そうとする。今しか見えないのね。でも今を大切に生きるのと、今しか見えないのとでは全然違うわ。人は人生の岐路に立ったとき、常に試される。逃げるか、流されるか、受け取るか…。今の自分は過去の決断と選択の結果だわ。そのときの態度がその後の人生を左右し、心の在り方ひとつで未来が決まってしまう。そう考えると、思いとどまったのは二人にとって正解だったんじゃなくて?」

 「正しかったのかどうか、正直まだ迷っています。彼のもとに留まることも、彼から離れることも、私にとってはどちらもつらい選択ですし。達郎さんに迷いはないようですが…」

 「彼が迷わないのは、自分の人生を信頼しているからでしょう。自分の夢も、あなたとのことも絶対にうまくいくと信じているのね。決めたら迷わない、決めたら後悔しない、それが彼流なんでしょう」

 そのとき茶室に内線が入った。美由紀は受話器を置くと、久美子を振り返って言った。

 「達郎さんがきたわ」

 「達郎さんが?

 「今日のジョンの講義には久美子さんも参加なさいな」

 「私がログビルダーの授業に…ですか?」

 「きっと得るものがあると思うわ」

 「ここで美由紀さんとお話していてはいけませんか?とてもそんな気には…」

 「だったら私も参加するわ。ここで落ち込んでいてもしょうがないし。ね?」

 「はい…」

 久美子はとまどいを隠せなかった。だが、もう会えないと思っていた達郎に会えるのは嬉しかった。

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第22章 スケールの違い

 達郎は革ジャンにジーンズ、首にマフラーといういでたちでやってきた。リビングフロアーで手袋をはずしていると、ジョンが現れた。

 「メットも黒、ハーレーも黒、シャツとジーンズ以外はいつも黒づくし。黒が好きなのはわかるが、あまり縁起がいいとは言えないな」

 ジョンはそう言って達郎をからかった。いつもは笑顔で反論する達郎だが、今日は元気がなかった。

 「けさ、社で各務商事の支店長と会ったよ。私たちがカナダに帰ってきたことをきいて、改めて挨拶にきてくれてね。あの若さで取締役とはたいしたものだ。異動をききつけた幾つかのユーザーから、ヘッドハントされたらしい。もっともこれは会社サイドの情報だがね」

 達郎はフェアモントホテルのバーで、取引先の社長と握手をしていた鈴木の姿を思い出した。

 「会社側が彼を日本に戻すことにしたのも、引き抜きを恐れてのことだろう。そういうことをいっさい言わないところが、彼の素晴らしいところだな。部下の面倒見もいいし、いずれは会社のトップに立つ男だろう」

 達郎はジョンの言葉に打ちのめされた。

 「エコロジカル・ログ・カンパニーではヘッドハントしなかったんですか?」

 達郎のその言葉にジョンは眉をしかめた。

 「なさけないことを言うな。彼は組織で生きていくタイプだが、おまえはそうではない。比較する必要などないと思うがね」

 「俺だって親方の組織で働いている、言わばサラリーマンですよ」

 「おまえは一匹狼だ。組織では勤まらん。学ぶことだけ学んだら独立しろ」

「俺が経営者に?そんなこと考えたこともありませんよ」

「一介のログビルダーで終わらせるために、おまえをここに通わせているのではない。おまえは私と同じ道を行くだろう。それは断言できる。今はまだピンとこないかもしれないがね。もっとも恋愛感情一つ制御できないようでは無理もないが」

達郎は久美子とのことを指摘されて黙ってしまった。

「普通の人間と同じことをしていたら、普通の結果しか出せないぞ。一段上のものを目指そうと思ったら、小さな出来事にいちいち反応していたらだめだ」

ジョンの言葉に達郎は怒りを覚えた。

「小さなこと?俺にはそうは思えません」

「私から見たら、おまえたちのしていることなどままごとにすぎん」

「ままごと?いくら親方でもその言い方はあんまりです!

「そんなにほしいものなら取り返すんだな。一流になれ。そのためには一流と接することだ。一流の人間、一流の食事、一流の芸術。他人と比較して自分に酔っている暇などないぞ。4月から、おまえにはスティーブの代行をしてもらう」

「代行って、どういうことですか?」

「スティーブを社長にし、私は会長職に退く」

「会長職…」

「何年も前から温めていたプロジェクトが、投資家の資金を得てようやく軌道に乗ったのでね。それに専念するためだ。これは兼ねてからの私の夢でもあるわけだが、おまえにぜひ手伝ってもらいたい。発展途上国を中心にログハウスの孤児院や学校を建ててまわるんだ。まずはカンボジアに飛ぶ」

「カンボジア…」

「おまえに世界を見せてやろう。発展途上国から先進国まで、私と一緒に世界の現場を周るのだ。世界中の人たちにログハウスの良さを知ってもらいたい。環境破壊が進み、地球温暖化が進む今こそ、ログハウスを通じて自然と共存する道を模索してもらいたいのだ」

ジョンの壮大なビジョンの前に、達郎は言葉を失った。達郎は目の前の出来事に囚われている自分があまりにも小さく、なさけなく思えた。

「今日はクミコを呼んである。今、ミユキの茶室にいるよ。そろそろ来る頃だ」

「久美子さんを?」

達郎が驚いて顔を上げると、ジョンは笑顔で続けた。

「今日は二人揃って私の講義を受けなさい。いいね?」

美由紀が久美子を連れ立ってやってきた。ジョンと美由紀は何かを企んでいるようだった。

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第23章 生命の木

 達郎と久美子が会うのは、達郎の家で結ばれて以来だった。

 「やあ」

 「こんにちは」

 目が合ったとたん、二人とも赤面して下を向いてしまった。

 あのときはお互いに無我夢中だったが、よくも何時間も没頭していたものだと思う。振り返ってみると、そこに恥じらいの余地はまったくなく、愛し合ったというよりも、奪い尽くしたという表現の方が正しい。

 そのときの光景がまざまざと蘇り、久美子は胸が張ってくるのを感じた。達郎も同じようにそのときの光景を思い出し、反応していた。

 下を向いて沈黙している二人の姿に、美由紀とジョンは目を見合わせた。

 ジョンは自らハンドルを握り、屋敷の敷地内にある深い森に車を走らせた。助手席に美由紀、後部座席に達郎と久美子が乗った。

 途中、ジョンは車を止めて窓ガラスを下ろすと、久美子に話しかけた。

 「クミコは木についてはあまり知らないだろう?」

 「はい。杉とか松とか、針葉樹、落葉樹…。そのくらいしかわかりません」

 「森林が育つためには、一年で500ミリ以上の降水量が必要だが、この条件を満たす陸地は地球上の3分の1しかない。ここブリティッシュ・コロンビア州はそのうちの一つだ。ブリティッシュ・コロンビア州の針葉樹林は、日本の面積の1.5倍に相当する。ここから見える木はウエスタン・ヘムロックといってマツ科に属している。この他にアマビリス・ファーという木もあるが、それらを総称してカナディアン・ヘム・ファーと呼んでいるんだよ」

 そう言ってジョンは左右に広がる森を指差した。

 「マツの一種なんですね。でも枝がないわ」

 「この木は生長が早くてね。30年も経つと梢が空をさえぎって、太陽の光が届かないから、枝が自然に枯れてしまうんだ。この節の少ない真っ直ぐな幹は、自然に出来たものなんだよ。この木は強度や見た目もよく、加工もしやすい。低木だから、伐採のコストもかからない。だから質のわりに経済的で、需要が高いんだ」

 達郎が補足した。

 ジョンは再び車を走らせた。山麓にさしかかると、そこかしこに雪が残っていた。四人で車を降り、森の中を歩く。高所に広がるこの森林は、大木で構成されていた。

 達郎は歩きながら木を指差し、久美子に説明を始めた。

 「この木はカナディアン・イエロー・シダーといってヒノキ科の常緑針葉樹で、独特の香りがあることで有名なんだ。木理が綿密で年輪も均一だから、木の質にこだわる施主に人気が高い。日本でもかなり重宝されている材料だよ。どこで使うと思う?」

 達郎の質問に、久美子は首をかしげた。

 「寺社建築で使われるんだ。京都や奈良にある国宝の改修工事でね」

 「日本の名刹をカナダの大木が支えているとは知らなかったわ」

 「日本の国産檜と同質なんだ」

 「ログビルダーって、ログハウスを建てるだけじゃだめなのね」

 「ビルダーになる動機は単純でも、仕事はそうはいかなくてね。毎日が勉強さ」

 「バンクーバーで一番多い木は何なの?」

 「バンクーバーは霧が多いからね。その気候に最も適しているのが、カナディアン・ダグラス・ファーだ。カナダの針葉樹の中で一番高さがあって、日本では米松と呼ばれている。耐朽性と保存性に優れているから、ログ材としてハンドカットログハウスに多く使われる。ヤニが多いのが難点だ」

 5分ほど歩いただろうか。前を歩いていたジョンと美由紀が一本の大木の前で立ち止まった。

 「これは?」

 久美子がまた達郎に尋ねた。

 「ウエスタン・レッド・シダー。赤杉だ。日本では“カナダ杉”の愛称で親しまれている。ここブリティッシュ・コロンビア州やアメリカ北西部に多く生息していて、高さは50メートル以上にもなる。防腐・防虫効果の高いフェノールをたくさん含んでいるから、防腐を施さなくても耐久性が高いんだ。針葉樹の中で一番軽くて、寸法も狂わない。加工もらくで、断熱性はコンクリートの12倍だ。イエロー・シダーと違ってヤニも少ない。独特の香りや木目の美しさ、長持ちする木として人気が高い。これをふんだんに使ってログハウスを建てられたら最高だけど、高額でちょっと手が出ないのが難点かな」

 「かつてカナダの先住民たちはこの木を“生命(いのち)の木”といって崇めていたんだよ」

 ジョンが口を開いた。

 「生命の木…」

 達郎も久美子も木を見上げたまま、同時につぶやいた。

 「ふたりともこの木のようでありなさい」 

 ジョンはそう言って二人を振り返った。

 「何かを手に入れるためには、手に入れたいものへの執着を手放さねばならない。まずは目の前にある責任を果たしなさい。共に生きるのはそれからでも遅くはない。何事も遅すぎるということも、早すぎるということもないんだよ。人生で起こることはすべて、ベストなタイミングで起きているのだから」

 ジョンは何とも言えない温かい目で二人を見つめた。その目は久美子が初めてテイラー邸を訪れた時に見せてくれた目と同じだった。

 「会えなくなることを嘆くより、出会えたことに感謝しましょう。こうして四人でここに立っている瞬間にも。せっかく芽生えた友情や愛情を、途中で断ち切る理由などどこにもないわ。互いが互いにとって生命の木である限り」

 ジョンのとなりに寄り添うようにして、美由紀が続けた。乾いていた砂漠にゆっくりと水が染み入るように、夫妻の言葉は、達郎と久美子の心をひたひたと浸した。

 車に戻るまでの道を、達郎と久美子は手をつないで歩いた。ふたりは夫妻の熱いオーラに、すっぽりと包まれているような気がしていた。

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第24章 愛が壊れるとき

 三月下旬、空港の出発ロビーには、テイラー夫妻をはじめ、美樹のクラスメイトとその父兄、親しくしていた近所の人達までが見送りにきてくれた。その姿を見た美樹は、夫と一緒に遅れて帰ると、泣いて駄々をこねた。困り果てた夫が、夏休みに再びバンクーバーを訪れることを約束して、その場をなんとかおさめた。

上空から見下ろすバンクーバー。美樹は飛行機の窓に顔をピッタリと付け、食い入るようにその風景を見つめていた。異国でできた友人たちとの別れを惜しみ、肩を震わせ泣いている。その街並みが雲の中に消え、見えなくなったとき、久美子の瞳からも涙が流れ落ちた。達郎が空港の展望デッキで見送ってくれていることを、久美子は美由紀からきいていた。身を切られるような達郎との別れだった。

 そして久美子の日本での生活が始まった。帰国後、真っ先にしなければならないことは、三年間留守にしていた自宅の大掃除だった。加えて美樹の中学入学の準備、町内会の会合など、諸々の所用に追われた。夫はそれらがひと段落ついた頃、5月の連休明けに日本に帰ってきた。

夫の帰国と同時に、カナダに発つ前と同じ生活が始まった。帰りが深夜に及んでも、夕食は必ず家でとる夫の日課も、寝ないで夫をまつ久美子の日課も復活した。家族で囲む週末の食卓は笑顔と笑い声がたえず、一家団欒の、絵にかいたような幸せが再び訪れた。

 久美子は長い髪をアップに上げ、バスローブに身を包み、リビングにやってきた。先に風呂を済ませた夫の鈴木が、ビールを飲みながら新聞に目を通している。鈴木は久美子に気づくと、あらかじめ用意していたグラスにビールを注ぎ、さりげなく差し出した。

 「ありがとう」

 久美子はそう言ってソファーに腰をおろすと、ごくごくと音をたてて一気に飲みほした。束ね損ねた送り毛が汗でうなじにはりついている。頬はほんのりと赤らみ、白い素足に薄いピンクのマニキュアがきれいに塗られている。鈴木はそんな久美子に見とれていた。

 「ああ、おいしかった」

 空けたグラスを片づけようと立ちあがった久美子を、鈴木が背後から抱きしめた。うなじに唇を這わせながらバスローブの結び目をほどく。ふりむかせてゆっくりとソファーに倒すと、バスローブが半分はだけ、湯上りのピンク色に染まった右胸が顔を出した。鈴木はすかさずその胸に吸いつき、右手でもう片方の胸を掴むと、ゆっくりと動かし始めた。

 「だめよ。こんなところで。美樹が起きてきたらどうするの?」

 「子供はもう夜中さ。起きてきやしないよ」

 鈴木はそう言って久美子の股間に顔を埋めた。娘に気づかれるのを危惧し、声を殺せば殺すほど、激しく身悶えする久美子に、鈴木の欲情はどんどんエスカレートしてゆく。鈴木は久美子の束ねた髪をほどき、着ていたパジャマを脱ぎ捨てた。バスローブを翻し、後から久美子を突く。体位を変えることなく、延々と突き続ける。こらえきれなくなった久美子がついに声を上げる瞬間、鈴木の手がその口をふさぎ、二人は共に果てた。

 ほどなくして、鈴木が久美子の背中に飛び散ったしずくをティッシュで拭い、鈴木はパジャマ姿に、久美子は元のバスローブ姿に戻った。長い髪をかき上げ、再び束ねる久美子に鈴木が話しかけた。

 「久美子、二人目をつくらないか?」

 久美子は驚いて顔をあげた。

 「美樹にきょうだいをつくってやりたい。一人っ子はやっぱり淋しいと思うんだ。どうだろう?」

 美樹が小学校に上がる頃、久美子は二人目をほしがったが、夫は頑として首を縦に振らなかった。それは夫なりに、久美子の身体をいたわってのことだった。

美樹を身ごもってからの久美子は体調不良が続き、入退院を繰り返した。つわりは途絶えることなく延々と続き、点滴を打ちながら出産に臨んだ。普通分娩でこそあったが、難産で、久美子は三日三晩産みの苦しみを味わった。その三日間は鈴木も会社を休み、久美子につきっきりで出産に立ちあった。出産の処置も壮絶で、鈴木は傍らで見守ることしかできない自分がはがゆかった。分娩台の傍らで久美子の手を握りしめ、涙を流しながら母子の無事を祈った。美樹が生まれた瞬間、久美子は意識を失った。久美子の意識が戻ったのはそれから2日後で、しばらく退院できなかった。

鈴木は大の子供好きで、子供は何人もほしかったが、愛する女にこんな思いは二度とさせたくないと思った。だが、久美子はそんな夫のためにも、そして美樹のためにも二人目がほしかった。久美子は初産が難産でも、二人目もそうなるとは限らないこと、今は無痛分娩や水中出産といった妊婦に負担をかけない出産法があることを話し、懇願した。だが鈴木は、「出産のリスクは減っても、そこに至るまでの君のリスクは減らない。食べたい物もろくに食べられず、どんどん痩せ細ってゆく君を見るのはつらい」と言って、取り合わなかった。

その夫がなぜ、ここにきて急に二人目がほしいと言い出したのか、久美子は府に落ちなかった。言葉を失っている久美子に鈴木は続けた。

「子はかすがいというだろう?僕たちの絆をもっと強めていくためにも二人目がほしいんだ。美樹のためだけじゃない。君だって二人目をほしがっていただろう?」

 その言葉に久美子は愕然とした。夫が変わってしまったのか、本来そういう性格で自分が気づかなかっただけなのか、それとも自分が変わってしまったのかわからないが、いつも堂々として、自信に充ちあふれていた夫が急に小さく見えた。

 「もちろん無理にというわけじゃない。産むのも、その苦しみを味わうのも君だから、君が嫌だっていうなら今のままでいい。でも、考えてみてほしいんだ」

 考えるまでもなかった。確かに美樹を一人っ子にはしたくない。だがそれは、今でも変わらず夫を愛している場合だ。久美子は今の夫に魅力を感じない。心をつなぎとめておくために子供をつくるなど、言語道断だ。

 男の女々しさや愚かさもまた、その深い愛ゆえであることを、このときの久美子は理解できなかった。沈黙の後、久美子は口を開いた。

 「確かにきょうだいがあるのはいいことだわ。私も初めてのときと同じになるのを覚悟して、あなたに二人目をせがんだこともあったけど、あのときはまだ20代だった。でも、今はもう38よ。だから…ごめんなさい」

 鈴木は唖然とした。こんなにもあっさりと断られるとは思っていなかったからだ。断られるにしても、しばらく考えてからの返答だと思っていた。鈴木はショックを隠せなかった。

 「シャワーを浴びてくるわ。あなたは先に休んで」

 夫への愛が完全に覚めた瞬間だった。胸や腰に残る唇の跡さえ、洗い流してしまいたかった。鈴木からの返答はなかった。

美樹を産んだ時の苦しみは壮絶だった。今でもはっきりと覚えている。まさに命を懸けて産んだのだ。だが、今の夫のために命は賭けられない。

もし再び子供を産む日がくるとしたら、その父親は達郎以外に考えられなかった。久美子は熱いシャワーを浴びながら、むしょうに達郎に抱かれたい衝動に駆られた。

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第25章 ビジネスパートナーとの出会い

 カンボジアの首都、プノンペン。道路には車とバイクが溢れ、砂ぼこりが舞い、人々の汗と排気ガスが入り混じった混沌の街。季節は乾季と雨季のみで、一年中で雨期に入る直前の4月が最も暑く、気温は40度まで上昇する。

 ジョンがなぜ最も過酷なこの時期にカンボジア行きを決めたのか、達郎にはわからなかった。達郎はカナダ以外の外国を知らない。プノンペンは達郎にとって初めての“アジア”だった。

ジョンはタクシーを使わず、あえてトゥクトゥク(三輪自動車)を使った。達郎は、ジョンにマスクとサングラスを携帯するように言われていた訳がようやくわかった。排気ガスと赤土と埃をもろに吸い込むことになるからだ。風は温風というより熱風だった。

 ジョンは達郎を連れだってある学校を訪れた。そして、その校長と共に今度は車で農村に向かった。クーラーの効いている車は、カンボジアでは天国を思わせた。

 農村に到着すると、車の周りに沢山の村人たちが集まってきた。車を降りると、一気に汗が噴き出し、一瞬にして下着までびしょ濡れになった。子供たちが後をついてくる。田んぼの中の一本道を5分ほど歩くと、木の枝と干し草でつくられた粗末な小屋に辿り着いた。小屋といっても地面の上の掘っ立て小屋で、中では裸足の子供たちが字を習っていた。

 小屋の裏にはロープが張られ、立入禁止になっている。そこから先に無数の地雷が埋まっているのだ。よく見ると授業を受けている子供の中には、手や足のない子が沢山いた。それは、村の大人でも同じだった。目を見開いたまま立ち尽くす達郎に、ジョンは言った。

 「孤児院や学校を建てるだけでは、子供たちは通ってこない。学ぶことより、働くことの方が先決だからだ。そして、働くことに太刀打ちできる唯一のものが食べることだ。運よく学校に来られる子でさえ給食を持ち帰り、家族に分け与えている。7歳の女の子がその下にいる3人の兄弟を養っていたりするのだ。それでも生まれた村で生きていける子はまだ幸せだ。そうでない子は売られていく。今の女の子の相場は日本円で三千円だ。子供に限らず、生きていくために臓器や血を売ることも珍しくない。もっともそれはカンボジアに限らないが…。私たちができることはあまりにも小さい。それでもできることからやっていこうと思う。ここにもう少し大きくて頑丈な校舎を建て、給食を三回配り、子供だけでなく、大人にも字を読めるようになってもらいたいものだ」

 達郎は返す言葉が見つからなかった。手や足や指がなくても、くったくのない笑顔の子供たち。達郎はそんな痩せ細った子供たちが眩しかった。急に視界がぼやけて、目の前が見えなくなった。達郎の頬を幾筋もの涙が伝っていたからだ。

 その晩、達郎はプノンペンにあるインターコンチネンタルホテルで、ジョンから日本の外食産業の将来を担うと目されている若手社長を紹介された。年は達郎と同じで38。カンボジアにすでに三つの学校を建設している。地雷撤去支援にも積極的に取り組んでおり、会社の総利益の一割を毎年寄付していた。

 「はじめまして。㈱ジャパンフーズの新庄と申します。カンボジアのプロジェクトは沢木さんに一任されていると会長から伺いました。同じ世代に育った者同士、分かり合えることも多いでしょう。これからよろしく頼みます」

 そう言って新庄は達郎に右手を差し出した。その力強い握手に達郎はたじろいだ。達郎はジョンから何もきかされていなかった。突然カンボジアに連れてこられ、初対面の相手からいきなりプロジェクトリーダーだと言われても、何がどうなっているのかさっぱりわからない。横目でジョンを見ると、ニコニコ顔で何度も頷いている。頭のいい新庄はその様子から事情を察したようで、達郎にことのいきさつを説明しだした。

 「僕の本来の目的は学校を建てることだけで、給食までやるつもりはなかったんです。ですが、貧窮に喘ぐカンボジアでは言い方は悪いのですが、食べ物なしで人を呼び寄せることは不可能でした。学校の建設は当初は5校を目標としていましたが、給食もやることになり、資金面で3校にとどまってしまいました。そこにエコロジカル・ログ・カンパニーさんから共同プロジェクトの申し入れがありました。建設部門をエコロジカル・ログ・カンパニーさんで、給食部門を当社でというありがたいお申し出でした。こうして当初からの目標であった10校達成が可能になったわけです」

 「そうだったんですか…」

達郎は弁の立つ新庄にそう返すのがやっとだった。

 「私が世界各国の会社から株を買っていることはおまえも知っているだろう?私は彼が株式を上場した頃からの株主でね。それが彼と出会ったいきさつだ」

 ジョンが達郎に向けて重い口を開いた。

「そういえば、会長が当社の株を購入してくださった理由をまだおききしていませんでした」

新庄がジョンに笑顔で話しかけた。

「たいした理由はないのだよ。“この会社はおもしろそうだ”と思ったら買う。経営者の人柄に惚れこんだら買う。それだけだ」

「そのどちらだったのか、おききしてよろしいでしょうか?」

「ははは。両方だと答えておこう」

「まいりました」

新庄はそう言うと、笑顔でジョンに頭を下げた。

「今日は炎天下を走り回って疲れた。私はこれで失礼するよ。後は若い者同士で食事を楽しんでくれ。私はルームサービスを頼んでゆっくりと部屋で休むことにする。年には勝てんよ。あっはっはっ」

「ええっ!?」

達郎は思わず大声をあげて、立ち上がってしまった。

「じゃあなタツロー。明日の朝は7時に起こしにきてくれ。鍵はあけておくから」

ジョンはそう言って席を立った。

「起こしに行かなくても、モーニングコールを頼めば済むことですよ!鍵をかけないなんて不用心です!親方!ちょっとまってください!親方!」

背後で叫ぶ達郎を無視し、ジョンは退散してしまった。新庄はそんな二人のやりとりを黙って見ていたが、こらえきれず、腹をかかえて笑いだした。その豪快な笑いに達郎は驚いて振りかえった。

「ああ、すみません。あんまりおかしくて。つまり、あなたは何も聞かされずに連れてこられたというわけだ」

「いや、それはその…」

沢木さんと私はこれから共に一つの目標に向かって仕事をしていく、言わば同志です。隠し事はなしにしましょう。事情はどうあれ、私は尊敬するテイラー会長が最も信頼しているあなたを信用します。これから数年の付き合いになるわけですし、改めてよろしくお願いします」

数年って?」 

「このプロジェクトはカンボジアだけじゃないんです。東南アジアを中心にしたプロジェクトで、フィリピン、タイ、バングラディシュ、パキスタン、ネパール、インドと続きます。ここカンボジアではエコロジカル・ログ・カンパニーさんと当社の二社で請け負いますが、その他の国に関しては他にも数社が加わってきます。それは日本の会社であったり、欧米の会社であったりします。会長から伺っていませんか?」

達郎は観念して、新庄に本音で語ることにした。

「恥ずかしながら、まったく知りません。ただ、世界を見せてやると言われ、最初に連れてこられたのがここカンボジアです。発展途上国から先進国までくまなく周るとは言っていましたが、詳細はきいていません」

「そうでしたか。でも、会長があさってカナダに帰られることはご存じですよね?その後、あなたは10日間ここに滞在し、私と一緒にこの国を周ることになっていますが、ひょっとしてそれもご存じない?」

達郎は絶句してしまった。あいた口がふさがらないとはこのことだ。

「ああ、やはりご存じありませんでしたか。実は僕は今の会社を興す前に、脱サラして、5年間アジアを放浪したんです。バックパックを背負ってね。沢木耕太郎の『深夜特急』のファンでして。カンボジアは一番長く滞在した国で、当時の知り合いとは今も交流しています。あなたは私と違って、工期中はずっとこのカンボジアに滞在しなければならないわけですから、カンボジアでの生活のノウハウを、これからの10日間ですべてお伝えしたいと思っています」

達郎は大きなため息をついた。

そうですか…。そこまで決まっているのなら、これはもう“お願いします”と言うしかなさそうだ。こちらこそよろしく頼みます」

達郎はそう答えると、今度は自分から右手を差し出した。新庄は快くその握手に応じてくれた。

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第26章 危険な誘惑

 それから、ジョンが帰国してからの10日間、達郎は新庄の案内でカンボジアを旅することになった。バックパック一つで放浪しようと言い出したのは新庄だ。高級ホテルから安宿まで泊まり歩いたが、途中、新庄の友人だというカンボジア人の家に二泊させてもらった。そこでは、カンボジア庶民の生活を垣間見ることができた。

 旅の間に二人は、互いのこれまでの人生やこれからの夢について語り合った。新庄は世界遺産のアンコールワットやアンコールトムにも連れて行ってくれた。夕日に染まるアンコールワットを見る頃には、互いを「沢木」「新庄」と呼び合い、確かな友情が芽生えていた。

 カンボジアでの工期はしばらく先の、乾期にあたる12月~1月ということだった。この時期は雨が少なく、気温が比較的低いため、プノンペンで最も過ごしやすい時期と言われている。達郎はプノンペンで過ごす日に備えて、お勧めのホテルや、おいしくて衛生的で安い食堂も教えてもらった。カンボジアの地酒も覚えた。

 あっという間に10日が過ぎて、カンボジアでの最後の夜がやってきた。翌日の正午に達郎はカナダへ、新庄は日本へ帰る。

 その日は、二人が初めて会ったインターコンチネンタルに宿をとった。これまで宿の手配をしてきたのは新庄で、ずっと同室だったが、今回は別々だった。

 「今夜に限ってどうしたんだ?金が尽きたわけでもあるまいし」

 達郎が新庄に話しかけた。

 「今日はお互い帰りが別々になるかもしれないからさ。男同志で同じ部屋に寝てもつまらないだろ。最後の日ぐらい羽を伸ばそう」

 「羽を伸ばすって、どういうことだ?」

 「おまえは俺と違って、二か月もここに滞在するんだ。慣れない土地で、明けても暮れてもトンカチでトントンやっているだけじゃ、おかしくもなるってもんさ。食べること以上にかかせないことがあるだろ?飯を食ったら、とびきりの場所に連れて行ってやるから」

 食事を済ませた後、新庄が達郎を連れていったのは売春宿だった。

達郎は生まれてこのかた金で女を買ったこともなければ、つきあう女に不自由したこともなかった。学生時代、成績は今一だったが、運動神経がよかったことと、その端正な顔立ちやルックスから、女の子にはよくもてた。初めてのセックスは年上の大学生で、高校時代に憧れていた先輩だった。もちろん自分からせまったわけではなく、相手からホテルに誘われた。

 由起子とつき合いだすまでにも、数人の女の子とつき合ったが、そのセックスも自然の成り行きか、相手にせがまれてそうなるかのどちらかだった。セックスをしたいと思うとき、達郎の前には常にさせてくれる“恋人”という女の存在があった。唯一、その例外が久美子だった。

 「目の前に映っている鏡の中から好きな娘を選べばいい。こっちから向こうは見えるが、向こうからは見えない仕組みになっている。この店はきれいな娘(こ)が揃っていて有名なんだ。客も官僚や実力者ばかりで、一般の客は入れない。会員制だ。いわゆる高級コールガールってやつさ。当然ホテルへの出張もある。割高になるけどね」

 「つまり、おまえはここの会員ってことなんだな。そして俺も今日から会員というわけだ」

 「おまえの入会費は俺の紹介料で相殺しておいた。今夜の花代は俺のおごりだ。俺はあの赤いドレスの娘にするが、おまえはどうする?」

 「せっかくだが新庄、俺は帰る」

 「へっ?」

 「おまえは俺に気を遣わず楽しんでくれ。じゃ」

 「ちょっとまてよ、沢木。タダでできるんだぞ。もったいないことするな」

 「もったいないとか、そういうことじゃないんだよ。とにかく俺は帰るから」

 「ああ、わかった。病気が怖いんだな。だが、ここの娘は大丈夫だ。この店はそういう面でも定評があるんだ。そんなに心配ならゴムをつければ問題ないだろ」

 「病気が怖いとかそういうことじゃないんだ」

 「沢木、おまえひょっとしてホモか?」

 「えっ?」

 「それならそうと言ってくれればよかったのに。それで今夜も同じ部屋に泊まりたかったんだな。そうか…。だが俺はいくらおまえでも、男とはやりたくない。何ならこれからニューハーフの店を紹介するよ」

 達郎はふきだした。新庄の真剣な表情がおかしかった。

 「俺はホモでもなければ、病気が怖いわけでもない。本当にその女を抱きたいと思ったら、俺はその女が病気でもセックスするよ。俺は惚れた女しか抱かないんだ」

 「沢木、二人でいるときにカッコつけても意味ないぞ。惚れた腫れた関係なしでやりたいときだってあるだろう?」

 「あるけど、あいにくそういうときはいつも相手がいてね。俺は素人で十分さ」

 「沢木、おまえってやな奴だな。遠回しにもてるのを自慢してるようなもんだぞ」

 「おまえだって男の俺から見ても十分男前だよ。女を買う必要なんてないんじゃないのか?」

 「確かに女には不自由してないさ。でも、たまには外国の女を抱きたくなるのさ」

 「それならそれでいいじゃないか。おまえが妻帯者だからって、俺はそんなお前を責めようとは思わないし、おまえの奥さんに話したりしないよ。だから安心して楽しんでこい。な?」

 達郎はそう言って新庄の肩をポンと叩いた。達郎のくったくのない笑顔に新庄は降参した。

 「わかったよ。勝手にしろ。しかし、おまえも変わった男だな。だが、おまえがそんなに惚れ込むなんて、さぞかしいい女なんだろうな。一度会ってみたいもんだ」

 「とびきりの美人さ。いずれ紹介するよ。約束する」

 達郎は日本にいる久美子のことを思った。自分とは対照的な新庄を友人だと紹介したら、久美子はどう思うだろう。生真面目な久美子のことだ。新庄の性格に難色を示すに違いない。その場面を想像しただけで、達郎はおかしかった。

 達郎は店主にタクシーを呼んでもらい、一人その店を後にした。プノンペンの夜景はバンクーバーとは対照的で、ホテルがある繁華街に出るまでは、信号機の影も形も見えず、どこまでも暗かった。

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第27章 愛と憎しみ

 祝日の午後、久美子は世田谷にできた新築マンションを訪れていた。多摩川沿いにあるこのタワーマンションは、東京人気マンション第一位に選ばれ、発売初日で完売となったことでも有名だ。敷地内には既存樹を移植してつくられた森が広がり、鳥のさえずりがどこからともなく聞こえてくる。部屋から見る展望は実に素晴らしく、久美子は高級ホテルにいるような気分に浸っていた。

 「昼も最高だけど夜景も格別よ。今度は美樹ちゃんも連れていらっしゃいな」

 そう言って焼きたてのケーキを切り分けているのは加奈子だ。久美子が加奈子と会うのはバンクーバーの空港で別れて以来だった。加奈子とはインターネットや電話を通じて月に数回は連絡を取り合ってきた。加奈子は昨年再婚し、再婚相手とその連れ子と共にこのマンションで暮らしている。再婚相手は外資系保険会社のセールスマンだときいていた。

 「たった三年で日本にとんぼ返りとはね。どう?少しはおちついた?」

 「そうね。荷物もだいたい収まったし、やっとのんびりできそうよ」

 「私が言っているのは荷物じゃなくて、気持ちのことよ。達郎さんと連絡はとっているんでしょ?」

 久美子は言葉を詰まらせた。

 「ひょっとして、カナダで別れたきりなわけ?」

 目を見開いて尋ねる加奈子に、久美子は黙ってうなずいた。

 「あきれた。達郎さんから連絡はないの?インターネットだってあるでしょ?」

 「彼は日本に戻ってからの私の携帯番号を知らないの。それに…うちにあるディスクトップは家族用よ。彼とメール交換なんてできないわ」

 「だったら、おちついた時点であなたから連絡すべきでしょう?パソコンだって、自分用に買えばいいじゃない」

 「家に2台は必要ないわ」

 加奈子は深いため息をついた。

 「何もしないってことは、きっぱり別れたってこと?」

 久美子は首を横に振った。

 「ずいぶんじゃない。あなたは家族の手前、それでいいかもしれないけど、独りでいる達郎さんの身にもなったら?」

 久美子は加奈子のその言葉にカッとなった。

 「だからって、電話で何を話すの?今日本は雨だとか、晴れているとか、そんな会話、意味がないわ。あの人と生きていくと言う以外に、あの人に伝えられる言葉はないのよ。でも、今の私にはそれができない。私は家庭を棄てられない。棄てられないまま、離れて淋しいから声だけきかせてなんて、そんなこと言えない!」

 久美子の瞳からポロポロと涙がこぼれ落ちた。張りつめていた心の糸が切れてしまったのだ。加奈子は取り乱した久美子を初めて見た。

 「いつか一緒に暮らせる日がくるかしら…なんて、他人事のような言い方をしたことがあったわ。でも彼はそんな私を責めるどころか、必ずくるとその手を握り返してくれた。離れるのは今だけだって…。淋しいとか、離婚してくれとか、一度だって言われたことないわ。ないだけに…こたえるのよ」

 そこまで言って、久美子は口をつぐんでしまった。加奈子は久美子の中にある女としての烈しさを垣間見た気がした。

 「ごめんなさい。よく知りもせずに…。悪かったわ」

 加奈子はそう言って、しゃくりあげて泣く久美子の背にそっと触れた。

 「そんなに自分を責めることないのに。誰かを愛してしまうのは、仕方のないことじゃない。あなたも達郎さんも真面目すぎるのよ。もっといい加減でいいのに。愛し合っているんだもの。たまには隠れて甘え合ってもいいと、私は思ったの。でも…私のやり方を押しつけちゃいけないわね」

 加奈子は久美子がおちつくまで、ずっと背中をさすっていてくれた。

 「ごめんなさい。年甲斐もなく大泣きして…恥ずかしいわ」

 「いいのよ。今のあなたには泣く場所がないものね。泣きたくなったら、うちにきて泣くといいわ。いくらでもつきあうから」

 加奈子はそう言って久美子に微笑みかけた。久美子もいつしか笑顔になっていた。そのとき、玄関のインターホンが鳴った。

 「息子が帰ってきたわ。通してもいいかしら。紹介したいの」

 「もちろんよ」

 再婚相手の連れ子は男の子で、美樹と同じ中学一年だと聞いていた。

 「こんにちは!久美子おばさん、お久しぶりです!」

 ドアを開けて顔を出したのは加奈子の実の息子、祐樹だった。久美子は驚いた。祐樹と加奈子はいたずらっぽい目で微笑みあった。

 「隠していてごめんなさい。再婚相手というのは別れた主人のことよ。連れ子というのは息子の祐樹のことなの」

 久美子は口と目を同時に空けたまま硬直していた。

 「久美子おばさん、ごめんなさい。母は人を驚かせるのが好きなんです。昔からの悪い癖で、僕も何度やられたことか。それはそうと、美樹ちゃんは元気ですか?」

 久美子は祐樹のその言葉でようやく我にかえった。

 「え、ええ、とっても元気よ」

 そう言うのがやっとだった。まだ気が動転している。

 「今度、美樹ちゃんと一緒にあそびにきてください。久しぶりに会いたいし。じゃ、これから塾なんで、失礼します」

 祐樹はそう言って久美子に軽く頭を下げると、笑顔で部屋を出て行った。

 加奈子は久美子にこれまでのいきさつを話した。

 「離婚して、日本に帰国して、実家に帰って…。近所にある百貨店の婦人服売り場で働き始めた頃、夫が突然現れたのよ。びっくりしたわ」

 「ご主人も、日本に転勤になったの?」

 「いいえ。主人は会社をやめて帰ってきたの。日本で私と暮らすために。びっくりしたわ。彼はこれまでの仕事を気に入っていたし、その仕事を捨てて、女のために自分の生き方を変えるなんて、そんなことする人でも言う人でもなかった。それに再婚するなら、私をカナダにこさせるというのが本来の彼のやり方だし。再婚して更に驚いたのは、女が絶えたことよ。家にまっすぐに帰ってくるし、休日も家にいるし、どこへ行くにも何をするにも、私と一緒に居たがるの。最近は料理の楽しさを覚えてしまって、台所は占領され放題。これまでは家事なんていっさいやらない人だったのに、おかしいでしょう?」

 確かに久美子の知る加奈子の夫は、亭主関白そのものだった。

 「それで、再婚のプロポーズにはすんなりOKしたの?」

 「まさか。最後はあんな別れ方をしたのよ。私にだって意地があるわ」

 「それならどうして再婚を?祐樹君のため?」

 「夫が頭を下げたの。土下座したのよ。いきなり、しかも路上でね。変にプライドが高くて、表はフェミニストぶっていても、中身は男尊女卑の塊みたいな人が…。許してくれと、泣きながら頭を下げて言うの。再婚が無理なら、せめて祐樹とだけは会ってくれと。そのときに思ったの。私は私から祐樹を取り上げた夫を憎んだけれど、憎しみも愛だったんだって。それまで、私は愛の反対は憎しみだと思っていた。でもそうじゃなかった。愛の反対は無関心なのよね。関心のないところには憎しみさえも生まれないんだから」

 久美子ははっとした。カナダにいるときは、まだ夫に対して後ろめたい気持ちがあった。だが、今は何も感じない。後ろめたさ云々という問題ではなく、夫に対して感情というもの自体を抱くことがないのだ。

 「実は今年の終りに子供が生まれるの」

 「えっ?」

 「二人目ができたの。というよりつくったのよね。二人目ができたことで、今まで以上に夫と強く繋がった気がした。過去のことは全部水に流して、一から始まるんだって、純粋に思えたの。夫と結婚して今ほど幸せを感じたことはないわ。雨降って地固まるってこういうことを言うのね」

 久美子は複雑な思いだった。自分なら土下座してまですがる夫を女々しいと思うだろう。だが、加奈子はそんな夫に愛おしさすら覚え、受け入れたのだ。自分が思い描いていた通りの人でなくても、その全てをあるがままに受け容れることができる。それこそが本当の愛なのかもしれないと、久美子は思った。

 二人目がほしいと言った夫の申し出を、自分はあっさり却下した。そこには、二人目などつくったら夫から逃れられなくなる、達郎と暮らす日が遠のく、という打算があった。

 夫から求められれば求められるほど、冷めていく心。久美子は夫と一緒にいるときの今の自分が嫌いだった。久美子は自分がどんどん薄情な女になっていくような気がした。

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第28章 新しい仕事

 帰国して三か月が過ぎ、久美子は就職活動を始めていた。だが、社会に出てたった二年で家庭に入ってしまった久美子には、現役で通用するような業務経験も資格もなかった。そのためいつも応募(電話)の時点で断られるか、履歴書送付で終わってしまう。就職活動より何より、まずはパソコンや簿記の資格を取ることから始めなければ、面接さえもしてもらえない。久美子はパソコン教室と専門学校の短期コースをかけもちし、三か月で簿記とパソコンの上級資格を取った。

 だが、状況は好転しなかった。面接試験まではこぎつけたものの、大学の新卒者や経験豊かな20代の転職者までもがフリーターをしている昨今、専業主婦一筋できた久美子は、結局は経験不足と年齢制限で断られてしまう。それは正規雇用ではなくパートでも同じだった。経験不問や資格不要を求人票に謳っているのは生命保険の外交員くらいだ。工場のオペレーター業務も経験者優遇だが、事務職の雇用ほど厳しくはない。だが、久美子はセールスや現場作業はやりたくなかった。

 派遣会社にも登録したが、依頼されるのは短時間かつ短期の仕事ばかり。終日かつ長期の仕事といえば資格を生かせる仕事ではなく、単純なデータの入力作業、いわゆるキーパンチャーの仕事が大半だった。コンピュータの前で終日数字を打ち続ける作業は、頭痛と肩こりを併発し、長くは続かなかった。おちついて考えれば、即戦力を売りとする派遣会社の方が、正規雇用の就職よりもハードルが高いのは当然だった。

 結局、一般事務職はあきらめ、カナダで覚えた英語を生かせる仕事を捜した。だが、ここではTOEICの資格を要求された。久美子は今度はTOEICの受験勉強に取り組んだ。努力の甲斐あってレベルAを一回でクリアし、年明けにようやくありつけた仕事は、小さな英会話教室の非常勤講師。それも週に3回、夜の6時から9時までの仕事だった。

 久美子は女が独りで生きていく厳しさをひしひしと感じた。弁護士や看護婦、公務員といった専門職でもない限り、女性が男性並みの給料を取ることは難しい。妻として夫の扶養控除にかからない程度の給料を出す事業所はそれなりにあるが、終日雇用の求人は少なく、あっても独りで生計を立てていけるだけの給料は得られない。結局、世間がいくら男女平等だと言ったところで、社会的には女性は男性と結婚しなければ生活していけないようになっている。久美子は、加奈子が離婚後、実家に戻らざるを得なかった訳がわかる気がした。

 久美子が勤めを始めたことで、夕食を毎日家でとっていた夫も、外食で済ませることが多くなった。美樹が二年生に進級すると、進学塾への送迎が重なって、久美子は家事と娘の所用と英会話教室での勤務に追われた。昇進後の夫は休日も接待で出かけることが増え、以前のような家族揃っての団欒は月に数回になっていた。

 その年の6月、美樹の“夏休み留学”が決定し、久美子は美樹と共に留学オリエンテーションのため、UTS国際教育センターに赴いた。留学先は美樹のたっての希望でカナダにしたのだが、提携先はバンクーバーではなくオタワであった。滞在期間は四週間のため、生活体験型のホームステイかファームステイのどちらかを選択する。場所柄もあってホームステイを兼ねた短期語学留学ということになった。

 7月下旬、久美子は夫と共に空港の出発ロビーまで美樹を見送りに行った。

 「じゃあパパ、ママ、行ってきます!」

 美樹はそう言いながら笑顔で大きく手を振った。久美子は夫と共にその姿が見えなくなるまで手を振り続けた。

 「今日から寂しくなるな」

 「ええ」

 久美子は夫と二人きりになることを思うと気が重かった。

 「新婚に戻ったみたいでたまにはいいか。今夜は二人でうまいものでも食べにいこう」

 「そうね」

 タイムテーブルの書かれた掲示板を見上げると、Vancouver(バンクーバー)の文字が目に飛び込んできた。久美子はバンクーバーでなくても、カナダに行ける美樹が羨ましかった。オタワも達郎の住むアメリカの大地には違いない。

 このまま飛行機に飛び乗って会いに行きたい…。

 久美子ははやる気持ちを懸命に抑えた。

 その晩、夫と共に外食を済ませた久美子のもとに、勤務している英会話教室の社長から電話が入った。翌日、いつもより早く出勤した久美子をまっていたのは解雇通告だった。

 「実は経営が悪化しまして、世田谷教室を年内で閉鎖することになりました。そこで、よくやってくれている鈴木さんには大変申し訳ないのですが、今月いっぱいで退職していただきたいんです」

 久美子は一瞬頭が真っ白になった。あと一週間で突然辞めろと言われても、納得がいかない。

 「年内は継続するんですよね?それなのに、どうして今月で解雇なんですか?お言葉を返すようですが、解雇通告は三か月前というのが法律で定められていますし、それとも、生徒の方から私に対する苦情でもあったんでしょうか?」

 「いえ。鈴木さんの授業はとても丁寧でわかりやすいと好評です。できることなら、こちらとしてもずっとお願いしたい。でも、景気の煽りを受けて生徒さんも減ってきていますし、世田谷に続いて他の2教室も閉鎖になりそうなんです。ですから、非常勤の方はお断りして、当面は常勤の方だけで運営をしていきます。世田谷教室に関しては閉鎖が決定しているので、常勤の方も年内で解雇ということになります。本当に申し訳ありません」

 そうして、就職してから一年もたたないうちに、久美子は失業してしまったのだった。

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第29章 逃避行

青い海、緑色の山並み、連立する高層ビル。懐かしい街並みが徐々に近づいてくる。眼下に広がる一年半ぶりのバンクーバー。久美子は飛行機の窓から食い入るように、その風景を見つめていた。

銀座に買い物に出て、通り沿いにあった旅行社のポスターにカナダを見つけた。懐かしさにいてもたってもいられず空港に向かい、エアカナダのサービスカウンターで航空券を申し込んだ。あいにくエアカナダは満席だったが、日本空港の直行便に空きがあった。すでに搭乗開始時刻は過ぎていて、久美子は駆け足でゲートに向かった。夫には離陸直前に「ごめんなさい。しばらく一人にさせてください」と短い携帯メールを打った。

 達郎に会いたい。声がききたい。だが、達郎は何と言うだろう。離れて暮らす寂しさに耐えているのは達郎も同じだ。それなのに、激情のままに押しかけてその努力をくじこうとしている。テイラー夫妻にも会わせる顔がない。

目の前の責任を果たす―それは妻として、母として今ある家族と生きること。達郎を愛してしまった今、母として生きることはできても、妻として生きることは苦しい。達郎以外の男に抱かれるのはつらい。それが何年も共に暮らし、子供まで設けた夫であっても…。そんな久美子に、夫は無理強いをすることはないが、それでもまったくないということは通らない。

達郎と暮らしたい。顔を上げたとき、いつもそこにいてほしい。抱きたい。抱かれたい。社会人としてのモラルも、母親としての責任も、妻としての義務も、世間にどう非難されようともういい。今は何も見ないふりをして、二人だけの世界に埋没したい。

 久美子はリストラされた直後ということもあり、かなり投げやりになっていた。

 空港からタクシーを走らせ、達郎のログハウスにやってきた。玄関のドアに掛けられた TATURO SAWAKI” の文字を指でなぞると、愛しさが込み上げた。それほどに達郎に会えない日々は長く、苦しかった。だがドアには鍵がかかっていて達郎は留守だった。久美子はドアの前に腰を降ろし、達郎の帰りをまつことにした。

 だが、夜のとばりが降りて星が輝きだしても、達郎は帰ってこなかった。夏とはいえ、ノースバンクーバーの山岳地帯は冷え込む。真夏の東京から軽装のままやってきた久美子は、震えながら達郎をまった。そして2日が過ぎ、3日目には雨が降った。達郎は戻らないのかもしれないと久美子は思った。だが、他に行く宛などない。久美子は前のめりに倒れ、そのまま深い眠りにおちた。

 気がつくと、暖炉(ミニ薪ストーブ)の薪がパチパチと音をたてて燃えていた。朦朧とした意識の中で、誰かに抱き上げられたことまでは覚えている。だが、そこから先の記憶はなかった。

 そのとき、部屋のドアが開いた。入ってきたのは達郎ではなく、長身の白人男性だった。久美子はとっさに置き上がろうとしたが、身体が重くて無理だった。

 「目が覚めたかい?肺炎手前だったんだよ。あんな薄着で座り込んで、無茶な人だな」

 久美子はその顔に見覚えがあった。カナダの運転免許がとれたことが嬉しくて、達郎に知らせに初めて車でここに赴いたとき…。あのとき、達郎は日本に行っていて留守だった。達郎の友人だというファミリーがここに滞在していて、友人の名前は確かトムと言った。

 「僕を覚えているかい?」

 久美子は黙ってうなずいた。

 「タツローは今リオデジャネイロにいる」

 久美子は目を丸くした。リオデジャネイロといったらブラジルではないか。

 「今のタツローはほとんどここにいない。去年、エコロジカル・ログ・カンパニーの海外事業部に転属になったんだ。そこはテイラー氏が直接指揮する部署でね。海外からの受注を一手に引き受けて、各国の現場をまわって仕事をする。要するに、北半球に冬がきて仕事がなくなると、今度は南半球に飛んで仕事をする、という具合にね。北半球の冬は南半球の夏だから、これまでのような冬から春にかけての休みもないんだ」

 久美子は達郎に会えないと知り、愕然とした。

 「あら?目が覚めたのね。よかったわ」

 今度は長身の白人女性が顔をのぞかせた。その女性と目が合った。

 「妻のアンだよ。内科医なんだ。君が入院せずに済んだのは彼女のおかげさ」

 久美子は数年前、ドア越しから見た部屋の奥で赤ん坊をあやしていたアンの姿を思い出した。

 「下着や洋服を買ってきたわ。好みが合わないかもしれないけど我慢してね」

 そう言ってアンは紙袋から買ってきた衣類をとり出し、久美子に見せた。

「お腹すいたでしょう?今、スープを温めてもってくるわね。あなたは丸2日も眠り続けていたのよ」

 そのとき寝室にある電話が鳴った。トムが受話器をとった。

 「もしもし?ああ、タツロー?」