祝日の午後、久美子は世田谷にできた新築マンションを訪れていた。多摩川沿いにあるこのタワーマンションは、東京人気マンション第一位に選ばれ、発売初日で完売となったことでも有名だ。敷地内には既存樹を移植してつくられた森が広がり、鳥のさえずりがどこからともなく聞こえてくる。部屋から見る展望は実に素晴らしく、久美子は高級ホテルにいるような気分に浸っていた。
「昼も最高だけど夜景も格別よ。今度は美樹ちゃんも連れていらっしゃいな」
そう言って焼きたてのケーキを切り分けているのは加奈子だ。久美子が加奈子と会うのはバンクーバーの空港で別れて以来だった。加奈子とはインターネットや電話を通じて月に数回は連絡を取り合ってきた。加奈子は昨年再婚し、再婚相手とその連れ子と共にこのマンションで暮らしている。再婚相手は外資系保険会社のセールスマンだときいていた。
「たった三年で日本にとんぼ返りとはね。どう?少しはおちついた?」
「そうね。荷物もだいたい収まったし、やっとのんびりできそうよ」
「私が言っているのは荷物じゃなくて、気持ちのことよ。達郎さんと連絡はとっているんでしょ?」
久美子は言葉を詰まらせた。
「ひょっとして、カナダで別れたきりなわけ?」
目を見開いて尋ねる加奈子に、久美子は黙ってうなずいた。
「あきれた。達郎さんから連絡はないの?インターネットだってあるでしょ?」
「彼は日本に戻ってからの私の携帯番号を知らないの。それに…うちにあるディスクトップは家族用よ。彼とメール交換なんてできないわ」
「だったら、おちついた時点であなたから連絡すべきでしょう?パソコンだって、自分用に買えばいいじゃない」
「家に2台は必要ないわ」
加奈子は深いため息をついた。
「何もしないってことは、きっぱり別れたってこと?」
久美子は首を横に振った。
「ずいぶんじゃない。あなたは家族の手前、それでいいかもしれないけど、独りでいる達郎さんの身にもなったら?」
久美子は加奈子のその言葉にカッとなった。
「だからって、電話で何を話すの?今日本は雨だとか、晴れているとか、そんな会話、意味がないわ。あの人と生きていくと言う以外に、あの人に伝えられる言葉はないのよ。でも、今の私にはそれができない。私は家庭を棄てられない。棄てられないまま、離れて淋しいから声だけきかせてなんて、そんなこと言えない!」
久美子の瞳からポロポロと涙がこぼれ落ちた。張りつめていた心の糸が切れてしまったのだ。加奈子は取り乱した久美子を初めて見た。
「いつか一緒に暮らせる日がくるかしら…なんて、他人事のような言い方をしたことがあったわ。でも彼はそんな私を責めるどころか、必ずくるとその手を握り返してくれた。離れるのは今だけだって…。淋しいとか、離婚してくれとか、一度だって言われたことないわ。ないだけに…こたえるのよ」
そこまで言って、久美子は口をつぐんでしまった。加奈子は久美子の中にある女としての烈しさを垣間見た気がした。
「ごめんなさい。よく知りもせずに…。悪かったわ」
加奈子はそう言って、しゃくりあげて泣く久美子の背にそっと触れた。
「そんなに自分を責めることないのに。誰かを愛してしまうのは、仕方のないことじゃない。あなたも達郎さんも真面目すぎるのよ。もっといい加減でいいのに。愛し合っているんだもの。たまには隠れて甘え合ってもいいと、私は思ったの。でも…私のやり方を押しつけちゃいけないわね」
加奈子は久美子がおちつくまで、ずっと背中をさすっていてくれた。
「ごめんなさい。年甲斐もなく大泣きして…恥ずかしいわ」
「いいのよ。今のあなたには泣く場所がないものね。泣きたくなったら、うちにきて泣くといいわ。いくらでもつきあうから」
加奈子はそう言って久美子に微笑みかけた。久美子もいつしか笑顔になっていた。そのとき、玄関のインターホンが鳴った。
「息子が帰ってきたわ。通してもいいかしら。紹介したいの」
「もちろんよ」
再婚相手の連れ子は男の子で、美樹と同じ中学一年だと聞いていた。
「こんにちは!久美子おばさん、お久しぶりです!」
ドアを開けて顔を出したのは加奈子の実の息子、祐樹だった。久美子は驚いた。祐樹と加奈子はいたずらっぽい目で微笑みあった。
「隠していてごめんなさい。再婚相手というのは別れた主人のことよ。連れ子というのは息子の祐樹のことなの」
久美子は口と目を同時に空けたまま硬直していた。
「久美子おばさん、ごめんなさい。母は人を驚かせるのが好きなんです。昔からの悪い癖で、僕も何度やられたことか。それはそうと、美樹ちゃんは元気ですか?」
久美子は祐樹のその言葉でようやく我にかえった。
「え、ええ、とっても元気よ」
そう言うのがやっとだった。まだ気が動転している。
「今度、美樹ちゃんと一緒にあそびにきてください。久しぶりに会いたいし。じゃ、これから塾なんで、失礼します」
祐樹はそう言って久美子に軽く頭を下げると、笑顔で部屋を出て行った。
加奈子は久美子にこれまでのいきさつを話した。
「離婚して、日本に帰国して、実家に帰って…。近所にある百貨店の婦人服売り場で働き始めた頃、夫が突然現れたのよ。びっくりしたわ」
「ご主人も、日本に転勤になったの?」
「いいえ。主人は会社をやめて帰ってきたの。日本で私と暮らすために。びっくりしたわ。彼はこれまでの仕事を気に入っていたし、その仕事を捨てて、女のために自分の生き方を変えるなんて、そんなことする人でも言う人でもなかった。それに再婚するなら、私をカナダにこさせるというのが本来の彼のやり方だし。再婚して更に驚いたのは、女が絶えたことよ。家にまっすぐに帰ってくるし、休日も家にいるし、どこへ行くにも何をするにも、私と一緒に居たがるの。最近は料理の楽しさを覚えてしまって、台所は占領され放題。これまでは家事なんていっさいやらない人だったのに、おかしいでしょう?」
確かに久美子の知る加奈子の夫は、亭主関白そのものだった。
「それで、再婚のプロポーズにはすんなりOKしたの?」
「まさか。最後はあんな別れ方をしたのよ。私にだって意地があるわ」
「それならどうして再婚を?祐樹君のため?」
「夫が頭を下げたの。土下座したのよ。いきなり、しかも路上でね。変にプライドが高くて、表はフェミニストぶっていても、中身は男尊女卑の塊みたいな人が…。許してくれと、泣きながら頭を下げて言うの。再婚が無理なら、せめて祐樹とだけは会ってくれと。そのときに思ったの。私は私から祐樹を取り上げた夫を憎んだけれど、憎しみも愛だったんだって。それまで、私は愛の反対は憎しみだと思っていた。でもそうじゃなかった。愛の反対は無関心なのよね。関心のないところには憎しみさえも生まれないんだから」
久美子ははっとした。カナダにいるときは、まだ夫に対して後ろめたい気持ちがあった。だが、今は何も感じない。後ろめたさ云々という問題ではなく、夫に対して感情というもの自体を抱くことがないのだ。
「実は今年の終りに子供が生まれるの」
「えっ?」
「二人目ができたの。というよりつくったのよね。二人目ができたことで、今まで以上に夫と強く繋がった気がした。過去のことは全部水に流して、一から始まるんだって、純粋に思えたの。夫と結婚して今ほど幸せを感じたことはないわ。雨降って地固まるってこういうことを言うのね」
久美子は複雑な思いだった。自分なら土下座してまですがる夫を女々しいと思うだろう。だが、加奈子はそんな夫に愛おしさすら覚え、受け入れたのだ。自分が思い描いていた通りの人でなくても、その全てをあるがままに受け容れることができる。それこそが本当の愛なのかもしれないと、久美子は思った。
二人目がほしいと言った夫の申し出を、自分はあっさり却下した。そこには、二人目などつくったら夫から逃れられなくなる、達郎と暮らす日が遠のく、という打算があった。
夫から求められれば求められるほど、冷めていく心。久美子は夫と一緒にいるときの今の自分が嫌いだった。久美子は自分がどんどん薄情な女になっていくような気がした。
最近のコメント