第16章 運命の宣告
久美子がカナダにきて三年が過ぎていた。
毎週ではないが、久美子は相変わらずテイラー邸に足を運んでいた。久美子は美由紀を姉のように慕い、美由紀も久美子を妹のように思っていた。二人は時間が経つのも忘れて語り合い、一緒にウィンドウショッピングに出かけたりもした。月に二度は、達郎もジョンの講義を聴きにやってくる。そんなときは四人で昼食をとった。
達郎とは友人でも恋人でもなく、はたまた単なる知人でもない状態が続いていた。携帯の電話番号はとうの昔に交換し合ったが、かけたことは一度もない。互いに魅かれ合っていることはわかっていたが、その先に進むことはなかった。
だが、すでにぎりぎりのところまで来ていることに、久美子も達郎も気づいていた。それでも一線を越えずにきたのは、お互いにそれなりの理由があったからだ。
久美子にとって達郎と交わることは、家庭を捨てることを意味した。抱かれたら溺れてしまう。母親であることを放棄してしまうに違いない。家庭か達郎か、いずれは選ばなければならない時がやってくる。そして、気持ちに後戻りがきかない以上、達郎を選ぶことになるだろう。だが、それは今ではない。美樹がもう少し大きくなるまで、せめて思春期を終えるまでは、この家庭を壊すわけにはいかない。だが、久美子は今すぐにでもそうしてしまいそうな自分が怖かった。幼い美樹を悲しませることはできない。かといって、達郎を失うこともできない。達郎に対して身勝手なことは重々承知で、久美子は可能な限り時を引き延ばしていたかった。達郎ならわかってくれるという甘えが、久美子の中にはあった。
そんな久美子に比べ、達郎が一線を越えない理由はもっと単純だった。これまでテイラー邸で二人きりになる機会は幾度もあった。そのたびに、達郎は懸命に自分を抑えてきた。久美子が人妻だからではない。指一本でも触れてしまったら、無理やりにでも犯してしまうだろう。抱いてしまったら、帰したくなくなる。久美子が結婚しているのはわかっている。わかっているが、それでも自分以外の男と交わってなどほしくない。たとえ何もなくても(それはあり得ないが)、愛する女が自分以外の男と暮らしているのは、苦痛以外の何ものでもない。達郎にとって激情のままに久美子を抱くことは、久美子の家族を憎む自分をむき出しにすることに等しかった。女々しい自分をさらすのは、男として絶対に避けたかった。
久美子は家族と共にダウンタウンの高層マンションに住んでいた。そこからは達郎の住むノースバンクーバーの山々を見渡すことができる。だが、今日はあいにくの曇り空で何も見えなかった。連日の雨で乾かない洗濯物が、乾燥機の中でからからと音をたてて回っている。いつものように掃除機をかけていると、リビングの電話が鳴った。かけてきたのは夫だった。
「鈴木でございます」
「ああ久美子!ビッグニュースがあるんだ!」
「あなた?どうしたの?」
「本社に栄転になったんだ!日本に帰れるんだよ!」
「えっ?」
「こっちでの業績が認められてね。管理職の仲間入りさ!今、辞令が出たばかりだ。社長直々に電話をもらったよ。すぐに君に伝えたくて電話したんだ!」
久美子の身体は凍りついた。本社に栄転?日本に帰る?
「久美子、久美子?聞いてるかい?」
「ああ、ごめんなさい。あまりにも突然で…。帰るっていつ?」
「何寝ぼけた事を言っているんだ。転勤は今回が初めてじゃないだろう。国内だろうが海外だろうが同じさ。4月から東京だ。カナダにいるのはあとひと月足らずだ」
「そんな…」
「美樹も中学に上がることだし、タイミングとしてもちょうどいい。来週には後任がこっちにくる。引継ぎをしなきゃならないから、これから帰りは遅くなる。それも日本に帰るまでの辛抱だ。忙しくなるぞ。荷造りの方は任せたよ。じゃ」
そう言って夫は電話を切ってしまった。久美子は受話器を握り締めたまま、その場に立ち尽くしていた。頭の中が真っ白だった。日本に帰るということは、達郎と会えなくなるということだ。
久美子は初めて達郎の携帯に電話を入れた。達郎はワンコールで出た。
「もしもし?」
「達郎さん?」
「急にどうしたの?」
「これから会えない?」
「これからって、何かあったの?」
「夫から今電話があって…。4月から東京に転勤だって…」
達郎もその場で凍りついた。すぐには言葉が出てこなかった。
「会いたいの」
久美子は泣き声だった。
「今、出先なんだ。グランビル・アイランドにあるどこかのカフェでいいかな」
「あなたの家で…」
久美子は意を決して言った。
「二人だけで会うのは、よくないだろ?」
達郎は防御線を張った。
「今は何も考えられないし、考えたくもないわ」
「話だけじゃ済まなくなるって、わかってる?」
「わかってるわ」
二人は達郎のログハウスで落ち合うことになった。久美子は車のキーを片手に、即座にマンションを出た。
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