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2008年10月

第16章 運命の宣告

 久美子がカナダにきて三年が過ぎていた。

毎週ではないが、久美子は相変わらずテイラー邸に足を運んでいた。久美子は美由紀を姉のように慕い、美由紀も久美子を妹のように思っていた。二人は時間が経つのも忘れて語り合い、一緒にウィンドウショッピングに出かけたりもした。月に二度は、達郎もジョンの講義を聴きにやってくる。そんなときは四人で昼食をとった。

 達郎とは友人でも恋人でもなく、はたまた単なる知人でもない状態が続いていた。携帯の電話番号はとうの昔に交換し合ったが、かけたことは一度もない。互いに魅かれ合っていることはわかっていたが、その先に進むことはなかった。

 だが、すでにぎりぎりのところまで来ていることに、久美子も達郎も気づいていた。それでも一線を越えずにきたのは、お互いにそれなりの理由があったからだ。

久美子にとって達郎と交わることは、家庭を捨てることを意味した。抱かれたら溺れてしまう。母親であることを放棄してしまうに違いない。家庭か達郎か、いずれは選ばなければならない時がやってくる。そして、気持ちに後戻りがきかない以上、達郎を選ぶことになるだろう。だが、それは今ではない。美樹がもう少し大きくなるまで、せめて思春期を終えるまでは、この家庭を壊すわけにはいかない。だが、久美子は今すぐにでもそうしてしまいそうな自分が怖かった。幼い美樹を悲しませることはできない。かといって、達郎を失うこともできない。達郎に対して身勝手なことは重々承知で、久美子は可能な限り時を引き延ばしていたかった。達郎ならわかってくれるという甘えが、久美子の中にはあった。

そんな久美子に比べ、達郎が一線を越えない理由はもっと単純だった。これまでテイラー邸で二人きりになる機会は幾度もあった。そのたびに、達郎は懸命に自分を抑えてきた。久美子が人妻だからではない。指一本でも触れてしまったら、無理やりにでも犯してしまうだろう。抱いてしまったら、帰したくなくなる。久美子が結婚しているのはわかっている。わかっているが、それでも自分以外の男と交わってなどほしくない。たとえ何もなくても(それはあり得ないが)、愛する女が自分以外の男と暮らしているのは、苦痛以外の何ものでもない。達郎にとって激情のままに久美子を抱くことは、久美子の家族を憎む自分をむき出しにすることに等しかった。女々しい自分をさらすのは、男として絶対に避けたかった。

久美子は家族と共にダウンタウンの高層マンションに住んでいた。そこからは達郎の住むノースバンクーバーの山々を見渡すことができる。だが、今日はあいにくの曇り空で何も見えなかった。連日の雨で乾かない洗濯物が、乾燥機の中でからからと音をたてて回っている。いつものように掃除機をかけていると、リビングの電話が鳴った。かけてきたのは夫だった。

 「鈴木でございます」

 「ああ久美子!ビッグニュースがあるんだ!」

 「あなた?どうしたの?」

 「本社に栄転になったんだ!日本に帰れるんだよ!」

 「えっ?」

 「こっちでの業績が認められてね。管理職の仲間入りさ!今、辞令が出たばかりだ。社長直々に電話をもらったよ。すぐに君に伝えたくて電話したんだ!」

 久美子の身体は凍りついた。本社に栄転?日本に帰る?

 「久美子、久美子?聞いてるかい?」

 「ああ、ごめんなさい。あまりにも突然で…。帰るっていつ?」

 「何寝ぼけた事を言っているんだ。転勤は今回が初めてじゃないだろう。国内だろうが海外だろうが同じさ。4月から東京だ。カナダにいるのはあとひと月足らずだ」

 「そんな…」

 「美樹も中学に上がることだし、タイミングとしてもちょうどいい。来週には後任がこっちにくる。引継ぎをしなきゃならないから、これから帰りは遅くなる。それも日本に帰るまでの辛抱だ。忙しくなるぞ。荷造りの方は任せたよ。じゃ」

 そう言って夫は電話を切ってしまった。久美子は受話器を握り締めたまま、その場に立ち尽くしていた。頭の中が真っ白だった。日本に帰るということは、達郎と会えなくなるということだ。

久美子は初めて達郎の携帯に電話を入れた。達郎はワンコールで出た。

 「もしもし?」

 「達郎さん?」

 「急にどうしたの?」

 「これから会えない?」

 「これからって、何かあったの?」

 「夫から今電話があって…。4月から東京に転勤だって…」

 達郎もその場で凍りついた。すぐには言葉が出てこなかった。

 「会いたいの」

 久美子は泣き声だった。

 「今、出先なんだ。グランビル・アイランドにあるどこかのカフェでいいかな」

 「あなたの家で…」

久美子は意を決して言った。

 「二人だけで会うのは、よくないだろ?」

 達郎は防御線を張った。

 「今は何も考えられないし、考えたくもないわ」

 「話だけじゃ済まなくなるって、わかってる?」

 「わかってるわ」

二人は達郎のログハウスで落ち合うことになった。久美子は車のキーを片手に、即座にマンションを出た。

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第17章 妻の秘密

ダウンタウンの交差点で信号待ちをしていると、一台の車が追い越し車線に入ってきた。その車はちょうど久美子のとなりに止まった。皮肉にも、入ってきた車は久美子の夫、鈴木であった。

二台並んで、信号が変わるのをまつ。この偶然に夫はすぐに気づいたが、久美子は気づかなかった。軽くクラクションを鳴らしても気づく気配は全くなく、久美子は思いつめた顔つきのまま、信号を凝視していた。

信号が青に変わり、久美子の方が先に走り出した。次の交差点を右に折れれば、一家で暮らすマンションだ。だが、久美子はまっすぐに走ってゆく。このまま行けば車は繁華街を抜け、ダウンタウンを出ることになる。

(いったいどこへ向かっているのか…)。

鈴木は怪訝に思った。やがて久美子の車はスタンレー公園を抜け、ライオンズゲートブリッジに入った。“ノースバンクーバー”の表示が目に飛び込んできた。

ノースバンクーバーにはテイラー夫妻が住んでいる。だが夫妻はこの時期、恒例のバカンスに出かけ、春までは帰らないときいていた。また、ダウンタウン以上のショッピングスポットがノースバンクーバーにあるとも思えなかった。

驚いたことに、久美子の車はノースバンクーバーの郊外に向かっていた。民家の数がぐんと減り、林や森だけの世界になっても、久美子は臆することなく、深い森にどんどん入ってゆく。林の隙間からところどころに小さな家が見えるが、住んでいる気配はない。恐らく別荘地なのだろう。

やがて久美子の車は、メイン道路から数百メートル置きに伸びる山道の一つに入った。鈴木はすぐには後を追わず、道路に停車したまま、久美子が出てくるのを待った。だが、久美子はいっこうに戻ってこない。鈴木は先ほど久美子が入っていった山道に車を走らせることにした。

5分ほどして森を抜けると、一軒のログハウスが姿を現した。久美子の車はその入口をさえぎるように駐車されていた。庭先には一台のオートバイが無造作に止めてあり、こちらも到着して間もないという感じだった。鈴木はハウスから少し離れた森の脇に車を止め、エンジンを切った。

鈴木は車を降りて、玄関口にやってきた。友人同士でパーティーでもしているのか。だが全ての窓は閉まっていて、カーテンが引かれている。音楽も人のざわめきも聞こえない。入口のドアに“ TATSURO SAWAKI ”と書かれた表札がかかっている。久美子はこの表札にある“タツロー・サワキ”という男と一緒にいるのだろうか。良妻賢母の久美子が日中、男とこんな山奥で逢引きしているとは到底思えない。だが傍らに駐車してある車は、確かに自分が久美子のために用意したものだ。ナンバーにも間違いはない。

鈴木はノックしようとした手をとどめた。なぜかはわからないが、ここから先の領域には、足を踏み入れてはならない気がした。何か大切なものを失ってしまうような気がしたのだ。

鈴木は車に戻りエンジンをかけると、来た道を引き返していった。

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第18章 禁断の果実

 脱ぎ捨てた洋服が、玄関口からリビングに続いていた。久美子は夫がきていることにも気づかず、達郎と唇を重ねていた。達郎がドアを開けるのと同時に、その腕に飛び込んだのだった。

 「ここじゃおちつかない。上(二階)に行こう」

 達郎はそう言って腕の力を緩めた。

 「ここでいいわ。何ならこのまま、こうして立ったままでもかまわない」

 達郎は驚いて、腕の中にいる久美子を見た。久美子の瞳は真剣だった。

 「君は大胆なんだな。でも俺は、そんなふうに乱暴に君を抱きたくない」

「彼女と同じベッドで抱かれるのはいやよ」

久美子は達郎の手を振りほどき、つけていた下着をとった。達郎は息を呑んだ。透き通るような白い肌、ふくよかな胸…。

気が遠くなるほど、自分を抑えてきた。突き上げてくる熱いものを押し殺してきた。目の前にいるのに抱けないやるせなさ、苦しさ。その日々が今、報われようとしている。ようやく、久美子のすべてを自分のものにできる。

「わかった…」

久美子の眩しい肢体の前に、達郎の理性は崩れ去った。達郎は久美子を抱き上げ、部屋に置かれているソファーに久美子を横たえた。

「初めて会った時、やっぱりこうしてここに連れてこられたわね」

「こんな日がくるとは想像もしていなかったよ」

達郎は指先で久美子の唇をなぞり、再び口づけた。久美子の指が達郎の髪にからみつくのと同時にそのキスは長い、味わうようなキスに変わった。何度も何度も唇を重ねながら、達郎も久美子と同じ姿になった。

達郎は久美子の身体に唇を滑らせながら両手を這わせ、そのすべてをくまなく確かめた。豊かな胸を交互に口に含み、その果実を存分に味わう。そして深い繁みに顔を埋め、舌を這わせた。久美子の歪んだ表情と悶えるさまが、達郎の男としての本能に拍車をかけた。

達郎の好きにさせていた久美子も、いつのまにか達郎の身体に指を這わせ、唇を滑らせていた。やがて互いの唇が互いの最も大切な部分に触れ、味わい終えると、久美子はゆっくりとその足を開いた。

虚ろな瞳が達郎を凝視している。あらわな姿を惜しげもなくさらす久美子に、達郎は再び息を呑んだ。達郎は一気に久美子の中に滑り込んだ。

達郎の息が荒くなるのと同時に、久美子の喘ぎ声も大きくなってゆく。久美子も達郎も、初めてのセックスで絶頂感を味わえるとは思ってもみなかった。だが、今まさにその絶頂にいる。久美子の熱い身体は、達郎を果てなく包み込み、どんな要求にも抗うことはない。

達郎は限りなくやさしく抱く時もあれば、激しく貪るように抱く時もあった。久美子は達郎の上で抱かれている時、ハーレーに乗っているような錯覚を覚えた。まるでそのエンジン音が身体の中でこだましているようだった。寄せては返す波のように、あるいは何かを登りつめるように、延々と繰り返される愛の営みに、久美子は何度も声を上げ、崩れ落ちた。

やがて小刻みに揺れる久美子の胸に、達郎の汗がポトポト落ちてきた。達郎は長い旅を終える直前に、自身を久美子の身体から離した。そして再び久美子の胸に顔を埋め、身体を重ねてきた。久美子の身体の上を熱いものが流れ落ちた。

室内に静寂が訪れた。床の上に久美子はうつ伏せ、達郎は仰向けのまま、しばらく横になっていた。乱れた呼吸が整うまでに、だいぶ時間がかかった。達郎は背後から久美子の腰に手を回し、包み込むように抱きしめた。

「ずっと…こうしたかった」

達郎はそう言って久美子の耳元に口づけた。久美子は振り返り、達郎の髪をやさしく撫でた。久美子は達郎の手を自分の胸にいざない、瞳で懇願した。

「きりがないよ。今度こそ離したくなくなる」

「もう限界ってこと?だったら…」

達郎は唇で久美子の言葉をさえぎると、胸に置かれた手をその繁みに移した。

「そんなわけないだろ。まだ充分いけるよ」

今度は達郎が指で久美子をいざなった。唇が、再び久美子の身体の上を滑ってゆく。達郎は指を舌に変え、さらに激しくいざなった。久美子の両足がガクガクと痙攣をはじめ、息遣いが喘ぎ声に変わった。

達郎はようやく顔を上げ、背後から久美子の胸に手を伸ばした。その指で固くなった果実を確かめる。うなじに唇を這わせながら見る久美子は、瞳を閉じたまま唇をわずかに開き、一足先に快楽の世界で溺れていた。

達郎は両手を久美子の両膝に移してその足を開き、久美子の奥深く自身を沈めた。やがて床のきしむ音が室内にこだまする頃、達郎も久美子のいる世界に引き込まれていった。

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第19章 愛の誓い

 時計の針が3時を打った。

 「行かなくちゃ」

 久美子はそう言って、脱ぎ捨ててある下着に手を伸ばした。

 「いやだ。帰さない」

 達郎はそう言って、久美子の手をとどめた。

 「4時には娘が帰ってくるわ。洗濯物もそのままだし、掃除機だって放り出したまま出てきたのよ。一番に帰らないと変に思われるわ。夕食の支度だってあるし」

 「夕食の支度ならここですればいい」

 達郎はそう言って久美子を抱きしめた。

 「そうできたら…」

 久美子はそこまで言って声を詰まらせた。しばらく沈黙が続いた。

 「そういうわけにはいかないか…」

 達郎はそう言って久美子から身体を離した。そして素早く服を着ると、久美子が下着をつけている間に、戸口に脱ぎ捨ててあるワンピースを拾いにいった。

 久美子が着替え終わると、達郎は玄関のドアを開いた。帰すのはつらいが、久美子の困っている顔を見るのはもっとつらい。達郎はドアを押さえるようにして戸口に立つと、久美子に出て行くように促した。

 「じゃ…」

 「結局、何も話せなかったね」

 「お互いに夢中だったから…」

 久美子はそう言って頬を赤らめた。

 「来月の今頃は…君は日本かな」

 「娘の学校のこともあるし…。先に帰国することになると思うわ」

 「ひと月足らずじゃ、何をどうこうもできないね」

 「せめてあと一年、カナダで過ごすことができたら、そうしたら私…」

 「今の俺には君と生きていけるだけの器量も経済力もない。気持ちだけでは君を引き止められない。そうだろ?」

 「そんなこと…」

 「君は俺にどうしてほしい?」

 「今の私は日本にいる自分さえも想像できないの。あなたを失うことも考えられない。現実に心が追いつかないのよ。急にこんなことになって、すぐに結論なんて出せないわ」

「結論なんて出ないさ」

達郎はぽつりと言った。

 「確かに夢だけじゃ食っていけない。君も失くせない。だからって、自分の夢を放り出して、君と生きるためだけに金になる仕事に就いても、俺は…」

 「あなたに会えなくなるのと同じくらい、ログビルダーでないあなたも想像できないわ。もっと早くに出会っていたら…。私が夫と出会う前に、あるいはあなたが彼女と出会う前に。そうしたら…」

 「いや、この年で出会ったことにミスはないんだ」

「結婚しているのに?」

「日本でサラリーマンをしていた俺を、君が愛してくれたとは思えない。君が夢を追う俺を愛してくれたように、俺も今の君だから、結婚した君だからこそ魅かれたんだ。母親としての包み込むようなやさしさに…。若い時に巡り合っても、きっと気づきもせずに通り過ぎてしまっただろう。だからこれでよかったんだよ」

「今は…離れるしかないのね」

「今だけだよ」

「あなたの夢が実現して、一緒に生きられる…。二つの夢が同時に叶う日がくるかしら」

「くるよ。今はまだその時期じゃないだけのことさ。その時がきたら、ずっと一緒にいよう」

 そう言って、達郎は久美子にそっと口づけた。久美子の頬を涙が伝った。

 「愛してるわ。あなたを、誰よりも愛してる」

 久美子は達郎の胸に顔を埋め、強くしがみついた。達郎は久美子のその言葉で、報われた気がした。

 「俺も…誰よりも愛しているよ」

 達郎も抱きしめるその腕に力を込めた。

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第20章 嫉妬

 その日、夫は深夜に帰ってきた。だが、仕事で遅くなったという感じではなかった。足元もおぼつかないほど、夫は酔っていた。出会ってから今日まで、夫の酔いつぶれた姿など、久美子はただの一度も見たことがない。「飲むなら呑まれるな。呑まれるなら飲むな」が、酒豪である夫の独身時代からの口癖であった。

 「なんだ。まだ起きていたのか」

 久美子は夫の目をまっすぐに見ることができなかった。

 「美樹はどうした?」

 「とっくに夜中よ。今お水をもってくるわね」

 鈴木がキッチンに行こうとした久美子の腕を掴んだ。

 「なに?」

 そう言って振り向いた久美子は、はっとするほど美しかった。これほどまでに美しい久美子を、鈴木は見たことがなかった。一気に酔いが醒めた。

 「来い!」

 鈴木はその腕を掴んだまま、強引に久美子を寝室に引っ張っていった。そしてドアをロックして電気をつけると、久美子をベッドに突き倒した。

 久美子は言葉が出なかった。久美子の知っている夫はいつも穏やかで、紳士的な男だった。命令口調も初めてなら、こんなふうに乱暴に扱われることも初めてだった。

 「いったいどうしたの?あなた、何だか変よ」

 「脱げ」

その言葉に久美子は呆気にとられた。

 「そんなになるまで飲むなんて、あなたらしくないわ」

 「つべこべ言ってないで、早く脱げよ」

 「ごめんなさい。今夜はそんな気分じゃないの」

そう言って久美子はうつむいた。

 「僕だってそんな気分じゃない」

 「えっ?」

 「抱く気はないって言っているんだ」

 「だったら、どうして…」

 「脱いで全部見せるんだ!」

 そう言って鈴木は久美子を押さえつけ、衣服を強引に剥ぎ取った。鈴木は嫉妬に怒り狂っていた。

 「あなた、一体どうしたのよ。やめて!」

鈴木はまったく聞く耳を持たなかった。鈴木は本当に久美子を裸にしただけだった。口づけるわけでも、愛撫するわけでもない。

久美子はあらゆる角度から、その視線に晒された。鈴木は右手で久美子の長い髪を掴み、左手で顎と首筋を指でなぞり終えると、久美子の両足を持ち上げて、ゆっくりと手を這わせた。そこまでされて、久美子はようやく夫が何をしているのか気がついた。

 (この人は知っている…)。

 久美子は血の気が引いてゆく思いがした。鈴木は久美子の身体に、達郎の唇の跡を捜していたのだ。

 「あっ…!」

 鈴木の指が久美子の身体の中に滑り込んだ。だが、その指は久美子を導くために入れられたのではない。鈴木はそんな場所までも、指で探っているのだった。

久美子の瞳から涙が流れ落ちた。辱めを受けている自分が惨めだった。だが、甘んじて受けねばならない。自分は夫であるこの人を裏切ったのだから。

 久美子の涙で、鈴木はようやく我に返った。久美子の身体に形跡を見つけることはできなかったが、香り立つような女の美しさが、今まさに恋をしていることを物語っていた。カナダにきて塞ぎ込んでいた久美子を変えたのも、運転免許をとらせたのも、自分ではないことを鈴木は悟った。

 鈴木は着ていた上着を脱いで久美子にかけた。シーツに顔を埋め、すすり泣く久美子が愛おしかった。久美子が自分を裏切ったとしても、他の男に渡す気はない。むしろ他の男に抱かれたことが、久美子の女としての魅力をいっそう際立たせ、鈴木の男としての征服欲を駆り立てた。

 「すまなかった」

 鈴木は久美子の髪にそっと触れた。

 「もう二度とこんなことはしないと誓うよ。許してくれ」

 その言葉に久美子は顔を上げた。

 「何があろうと君は僕の妻だ。僕は君を離さない。忘れないでくれ。君は美樹の母親でもあるんだ。三人で日本に帰ることに変更はない。僕たちはこれからも一緒に生きていくんだ」

 鈴木は久美子の涙を指で拭い、唇にそっと口づけた。久美子の潤んだ瞳と濡れた唇が、鈴木の欲望をそそった。

 「真面目に抱きたくなったが、今夜は我慢するよ。向こうのソファーで寝る」

 鈴木はクローゼットから毛布を出して脇に抱えると、静かに部屋を出て行った。

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第21章 隠された過去

美由紀から久美子のもとに電話が入った。バカンスを途中で切り上げ、カナダに戻ってきたという。夫がテイラー氏の経営する『エコロジカル・ログ・カンパニー』に新任の支店長を連れて異動の挨拶に行ったことで、夫妻は久美子の日本帰国を知ったのだった。

 美由紀は久美子の都合をきき、邸宅に来るように言った。車を処分してしまったため、テイラー邸からベンツが迎えにきた。通い慣れた道…。今度ここを通る日はいつだろう。テイラー夫妻に会えなくなることも、久美子にはこたえていた。

 テイラー邸に着くと、久美子は茶室に通された。茶室では美由紀がしたくを整え、久美子をまっていた。

「失礼します」

久美子はそう言って着座した。

 「お久しぶりね。ところで、ご主人、栄転ですって?」

 「はい。日本に戻ることになりました。来週早々、私と娘だけ先に帰国します」

 「達郎さんには?」

 「直接話しました」

 「直接?」

「はい」

「そう…」

 美由紀が茶を点てている間、久美子はカナダでの三年間を振り返っていた。達郎のことも、カナダでの生活も、これほどまでに早く、こんなにもあっけなく終わるとは思ってもみなかった。明日などこなければいいのにと思う。だが、一日はあっというまに過ぎてゆく。帰国まで一週間もない。

 久美子は差し出された茶を静かに飲み終えた。

「ごちそうさまでした」

「もう一煎いかが?」

「いえ…」

 「境界は…ある日突然越えてしまうものよね」

 久美子は美由紀の言葉に驚いた。美由紀はすべてを見透かしているようだった。これまで達郎も久美子も、互いのことでテイラー夫妻に相談をもちかけたことはなかった。そして、夫妻も二人のことにはいっさい触れてはこなかった。

 「私とジョンがそうだったわ。私は独身だったけれど、ジョンは結婚していた。もう何十年も昔のことよ」

 久美子は美由紀とジョンが不倫から始まったことは知らなかった。

 「それじゃ前のおくさまは…」

 「亡くなったわ。私とジョンが結ばれた日に…。容態が急変して、苦しんで息を引き取ったの。そのときジョンは仕事で日本にきていて、私たちは互いの腕の中で溺れていた。もっとも私とジョンが出会ったときにはすでに闘病生活をしていて、末期がんだったの」

 「そんな…」

 「私たちが結婚するまでには、それからかなりの年月を要したわ。私はジョンと別れて、一度他の人と結婚したりもしたけど、やはりジョンでないとだめだった…」

 平穏に見えるテイラー夫妻にそのような過去があったとは。そして美由紀がその過去を語ってくれたのは、達郎との現状を気遣ってのことだと久美子は思った。

 「私と達郎さんの気持ちには、ジョンさんも美由紀さんも気づいていらしたんですよね」

 美由紀は久美子の言葉に静かに微笑んだだけだった。

「黙って見守ってくださったこと、本当にありがとうございました」

 久美子はそう言って美由紀に頭を下げた。

 「あなたたちはこれからね」

 久美子は驚いて顔を上げた。

 「これから?もう会えないのに…ですか?」

 「男と女は結ばれてからが始まりなのよ。若いうちはとかく早急に答を出そうとする。今しか見えないのね。でも今を大切に生きるのと、今しか見えないのとでは全然違うわ。人は人生の岐路に立ったとき、常に試される。逃げるか、流されるか、受け取るか…。今の自分は過去の決断と選択の結果だわ。そのときの態度がその後の人生を左右し、心の在り方ひとつで未来が決まってしまう。そう考えると、思いとどまったのは二人にとって正解だったんじゃなくて?」

 「正しかったのかどうか、正直まだ迷っています。彼のもとに留まることも、彼から離れることも、私にとってはどちらもつらい選択ですし。達郎さんに迷いはないようですが…」

 「彼が迷わないのは、自分の人生を信頼しているからでしょう。自分の夢も、あなたとのことも絶対にうまくいくと信じているのね。決めたら迷わない、決めたら後悔しない、それが彼流なんでしょう」

 そのとき茶室に内線が入った。美由紀は受話器を置くと、久美子を振り返って言った。

 「達郎さんがきたわ」

 「達郎さんが?

 「今日のジョンの講義には久美子さんも参加なさいな」

 「私がログビルダーの授業に…ですか?」

 「きっと得るものがあると思うわ」

 「ここで美由紀さんとお話していてはいけませんか?とてもそんな気には…」

 「だったら私も参加するわ。ここで落ち込んでいてもしょうがないし。ね?」

 「はい…」

 久美子はとまどいを隠せなかった。だが、もう会えないと思っていた達郎に会えるのは嬉しかった。

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第22章 スケールの違い

 達郎は革ジャンにジーンズ、首にマフラーといういでたちでやってきた。リビングフロアーで手袋をはずしていると、ジョンが現れた。

 「メットも黒、ハーレーも黒、シャツとジーンズ以外はいつも黒づくし。黒が好きなのはわかるが、あまり縁起がいいとは言えないな」

 ジョンはそう言って達郎をからかった。いつもは笑顔で反論する達郎だが、今日は元気がなかった。

 「けさ、社で各務商事の支店長と会ったよ。私たちがカナダに帰ってきたことをきいて、改めて挨拶にきてくれてね。あの若さで取締役とはたいしたものだ。異動をききつけた幾つかのユーザーから、ヘッドハントされたらしい。もっともこれは会社サイドの情報だがね」

 達郎はフェアモントホテルのバーで、取引先の社長と握手をしていた鈴木の姿を思い出した。

 「会社側が彼を日本に戻すことにしたのも、引き抜きを恐れてのことだろう。そういうことをいっさい言わないところが、彼の素晴らしいところだな。部下の面倒見もいいし、いずれは会社のトップに立つ男だろう」

 達郎はジョンの言葉に打ちのめされた。

 「エコロジカル・ログ・カンパニーではヘッドハントしなかったんですか?」

 達郎のその言葉にジョンは眉をしかめた。

 「なさけないことを言うな。彼は組織で生きていくタイプだが、おまえはそうではない。比較する必要などないと思うがね」

 「俺だって親方の組織で働いている、言わばサラリーマンですよ」

 「おまえは一匹狼だ。組織では務まらん。学ぶことだけ学んだら独立しろ」

「俺が経営者に?そんなこと考えたこともありませんよ」

「一介のログビルダーで終わらせるために、おまえをここに通わせているのではない。おまえは私と同じ道を行くだろう。それは断言できる。今はまだピンとこないかもしれないがね。もっとも恋愛感情一つ制御できないようでは無理もないが」

達郎は久美子とのことを指摘されて黙ってしまった。

「普通の人間と同じことをしていたら、普通の結果しか出せないぞ。一段上のものを目指そうと思ったら、小さな出来事にいちいち反応していたらだめだ」

ジョンの言葉に達郎は怒りを覚えた。

「小さなこと?俺にはそうは思えません」

「私から見たら、おまえたちのしていることなどままごとにすぎん」

「ままごと?いくら親方でもその言い方はあんまりです!

「そんなにほしいものなら取り返すんだな。一流になれ。そのためには一流と接することだ。一流の人間、一流の食事、一流の芸術。他人と比較して自分に酔っている暇などないぞ。4月から、おまえにはスティーブの代行をしてもらう」

「代行って、どういうことですか?」

「スティーブを社長にし、私は会長職に退く」

「会長職…」

「何年も前から温めていたプロジェクトが、投資家の資金を得てようやく軌道に乗ったのでね。それに専念するためだ。これは兼ねてからの私の夢でもあるわけだが、おまえにぜひ手伝ってもらいたい。発展途上国を中心にログハウスの孤児院や学校を建ててまわるんだ。まずはカンボジアに飛ぶ」

「カンボジア…」

「おまえに世界を見せてやろう。発展途上国から先進国まで、私と一緒に世界の現場を周るのだ。世界中の人たちにログハウスの良さを知ってもらいたい。環境破壊が進み、地球温暖化が進む今こそ、ログハウスを通じて自然と共存する道を模索してもらいたいのだ」

ジョンの壮大なビジョンの前に、達郎は言葉を失った。達郎は目の前の出来事に囚われている自分があまりにも小さく、なさけなく思えた。

「今日はクミコを呼んである。今、ミユキの茶室にいるよ。そろそろ来る頃だ」

「久美子さんを?」

達郎が驚いて顔を上げると、ジョンは笑顔で続けた。

「今日は二人揃って私の講義を受けなさい。いいね?」

美由紀が久美子を連れ立ってやってきた。ジョンと美由紀は何かを企んでいるようだった。

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第23章 生命の木

 達郎と久美子が会うのは、達郎の家で結ばれて以来だった。

 「やあ」

 「こんにちは」

 目が合ったとたん、二人とも赤面して下を向いてしまった。

 あのときはお互いに無我夢中だったが、よくも何時間も没頭していたものだと思う。振り返ってみると、そこに恥じらいの余地はまったくなく、愛し合ったというよりも、奪い尽くしたという表現の方が正しい。

 そのときの光景がまざまざと蘇り、久美子は胸が張ってくるのを感じた。達郎も同じようにそのときの光景を思い出し、反応していた。

 下を向いて沈黙している二人の姿に、美由紀とジョンは目を見合わせた。

 ジョンは自らハンドルを握り、屋敷の敷地内にある深い森に車を走らせた。助手席に美由紀、後部座席に達郎と久美子が乗った。

 途中、ジョンは車を止めて窓ガラスを下ろすと、久美子に話しかけた。

 「クミコは木についてはあまり知らないだろう?」

 「はい。杉とか松とか、針葉樹、落葉樹…。そのくらいしかわかりません」

 「森林が育つためには、一年で500ミリ以上の降水量が必要だが、この条件を満たす陸地は地球上の3分の1しかない。ここブリティッシュ・コロンビア州はそのうちの一つだ。ブリティッシュ・コロンビア州の針葉樹林は、日本の面積の1.5倍に相当する。ここから見える木はウエスタン・ヘムロックといってマツ科に属している。この他にアマビリス・ファーという木もあるが、それらを総称してカナディアン・ヘム・ファーと呼んでいるんだよ」

 そう言ってジョンは左右に広がる森を指差した。

 「マツの一種なんですね。でも枝がないわ」

 「この木は生長が早くてね。30年も経つと梢が空をさえぎって、太陽の光が届かないから、枝が自然に枯れてしまうんだ。この節の少ない真っ直ぐな幹は、自然に出来たものなんだよ。この木は強度や見た目もよく、加工もしやすい。低木だから、伐採のコストもかからない。だから質のわりに経済的で、需要が高いんだ」

 達郎が補足した。

 ジョンは再び車を走らせた。山麓にさしかかると、そこかしこに雪が残っていた。四人で車を降り、森の中を歩く。高所に広がるこの森林は、大木で構成されていた。

 達郎は歩きながら木を指差し、久美子に説明を始めた。

 「この木はカナディアン・イエロー・シダーといってヒノキ科の常緑針葉樹で、独特の香りがあることで有名なんだ。木理が綿密で年輪も均一だから、木の質にこだわる施主に人気が高い。日本でもかなり重宝されている材料だよ。どこで使うと思う?」

 達郎の質問に、久美子は首をかしげた。

 「寺社建築で使われるんだ。京都や奈良にある国宝の改修工事でね」

 「日本の名刹をカナダの大木が支えているとは知らなかったわ」

 「日本の国産檜と同質なんだ」

 「ログビルダーって、ログハウスを建てるだけじゃだめなのね」

 「ビルダーになる動機は単純でも、仕事はそうはいかなくてね。毎日が勉強さ」

 「バンクーバーで一番多い木は何なの?」

 「バンクーバーは霧が多いからね。その気候に最も適しているのが、カナディアン・ダグラス・ファーだ。カナダの針葉樹の中で一番高さがあって、日本では米松と呼ばれている。耐朽性と保存性に優れているから、ログ材としてハンドカットログハウスに多く使われる。ヤニが多いのが難点だ」

 5分ほど歩いただろうか。前を歩いていたジョンと美由紀が一本の大木の前で立ち止まった。

 「これは?」

 久美子がまた達郎に尋ねた。

 「ウエスタン・レッド・シダー。赤杉だ。日本では“カナダ杉”の愛称で親しまれている。ここブリティッシュ・コロンビア州やアメリカ北西部に多く生息していて、高さは50メートル以上にもなる。防腐・防虫効果の高いフェノールをたくさん含んでいるから、防腐を施さなくても耐久性が高いんだ。針葉樹の中で一番軽くて、寸法も狂わない。加工もらくで、断熱性はコンクリートの12倍だ。イエロー・シダーと違ってヤニも少ない。独特の香りや木目の美しさ、長持ちする木として人気が高い。これをふんだんに使ってログハウスを建てられたら最高だけど、高額でちょっと手が出ないのが難点かな」

 「かつてカナダの先住民たちはこの木を“生命(いのち)の木”といって崇めていたんだよ」

 ジョンが口を開いた。

 「生命の木…」

 達郎も久美子も木を見上げたまま、同時につぶやいた。

 「ふたりともこの木のようでありなさい」 

 ジョンはそう言って二人を振り返った。

 「何かを手に入れるためには、手に入れたいものへの執着を手放さねばならない。まずは目の前にある責任を果たしなさい。共に生きるのはそれからでも遅くはない。何事も遅すぎるということも、早すぎるということもないんだよ。人生で起こることはすべて、ベストなタイミングで起きているのだから」

 ジョンは何とも言えない温かい目で二人を見つめた。その目は久美子が初めてテイラー邸を訪れた時に見せてくれた目と同じだった。

 「会えなくなることを嘆くより、出会えたことに感謝しましょう。こうして四人でここに立っている瞬間にも。せっかく芽生えた友情や愛情を、途中で断ち切る理由などどこにもないわ。互いが互いにとって生命の木である限り」

 ジョンのとなりに寄り添うようにして、美由紀が続けた。乾いていた砂漠にゆっくりと水が染み入るように、夫妻の言葉は、達郎と久美子の心をひたひたと浸した。

 車に戻るまでの道を、達郎と久美子は手をつないで歩いた。ふたりは夫妻の熱いオーラに、すっぽりと包まれているような気がしていた。

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