第24章 愛が壊れるとき
三月下旬、空港の出発ロビーには、テイラー夫妻をはじめ、美樹のクラスメイトとその父兄、親しくしていた近所の人達までが見送りにきてくれた。その姿を見た美樹は、夫と一緒に遅れて帰ると、泣いて駄々をこねた。困り果てた夫が、夏休みに再びバンクーバーを訪れることを約束して、その場をなんとかおさめた。
上空から見下ろすバンクーバー。美樹は飛行機の窓に顔をピッタリと付け、食い入るようにその風景を見つめていた。異国でできた友人たちとの別れを惜しみ、肩を震わせ泣いている。その街並みが雲の中に消え、見えなくなったとき、久美子の瞳からも涙が流れ落ちた。達郎が空港の展望デッキで見送ってくれていることを、久美子は美由紀からきいていた。身を切られるような達郎との別れだった。
そして久美子の日本での生活が始まった。帰国後、真っ先にしなければならないことは、三年間留守にしていた自宅の大掃除だった。加えて美樹の中学入学の準備、町内会の会合など、諸々の所用に追われた。夫はそれらがひと段落ついた頃、5月の連休明けに日本に帰ってきた。
夫の帰国と同時に、カナダに発つ前と同じ生活が始まった。帰りが深夜に及んでも、夕食は必ず家でとる夫の日課も、寝ないで夫をまつ久美子の日課も復活した。家族で囲む週末の食卓は笑顔と笑い声がたえず、一家団欒の、絵にかいたような幸せが再び訪れた。
久美子は長い髪をアップに上げ、バスローブに身を包み、リビングにやってきた。先に風呂を済ませた夫の鈴木が、ビールを飲みながら新聞に目を通している。鈴木は久美子に気づくと、あらかじめ用意していたグラスにビールを注ぎ、さりげなく差し出した。
「ありがとう」
久美子はそう言ってソファーに腰をおろすと、ごくごくと音をたてて一気に飲みほした。束ね損ねた送り毛が汗でうなじにはりついている。頬はほんのりと赤らみ、白い素足に薄いピンクのマニキュアがきれいに塗られている。鈴木はそんな久美子に見とれていた。
「ああ、おいしかった」
空けたグラスを片づけようと立ちあがった久美子を、鈴木が背後から抱きしめた。うなじに唇を這わせながらバスローブの結び目をほどく。ふりむかせてゆっくりとソファーに倒すと、バスローブが半分はだけ、湯上りのピンク色に染まった右胸が顔を出した。鈴木はすかさずその胸に吸いつき、右手でもう片方の胸を掴むと、ゆっくりと動かし始めた。
「だめよ。こんなところで。美樹が起きてきたらどうするの?」
「子供はもう夜中さ。起きてきやしないよ」
鈴木はそう言って久美子の股間に顔を埋めた。娘に気づかれるのを危惧し、声を殺せば殺すほど、激しく身悶えする久美子に、鈴木の欲情はどんどんエスカレートしてゆく。鈴木は久美子の束ねた髪をほどき、着ていたパジャマを脱ぎ捨てた。バスローブを翻し、後から久美子を突く。体位を変えることなく、延々と突き続ける。こらえきれなくなった久美子がついに声を上げる瞬間、鈴木の手がその口をふさぎ、二人は共に果てた。
ほどなくして、鈴木が久美子の背中に飛び散ったしずくをティッシュで拭い、鈴木はパジャマ姿に、久美子は元のバスローブ姿に戻った。長い髪をかき上げ、再び束ねる久美子に鈴木が話しかけた。
「久美子、二人目をつくらないか?」
久美子は驚いて顔をあげた。
「美樹にきょうだいをつくってやりたい。一人っ子はやっぱり淋しいと思うんだ。どうだろう?」
美樹が小学校に上がる頃、久美子は二人目をほしがったが、夫は頑として首を縦に振らなかった。それは夫なりに、久美子の身体をいたわってのことだった。
美樹を身ごもってからの久美子は体調不良が続き、入退院を繰り返した。つわりは途絶えることなく延々と続き、点滴を打ちながら出産に臨んだ。普通分娩でこそあったが、難産で、久美子は三日三晩産みの苦しみを味わった。その三日間は鈴木も会社を休み、久美子につきっきりで出産に立ちあった。出産の処置も壮絶で、鈴木は傍らで見守ることしかできない自分がはがゆかった。分娩台の傍らで久美子の手を握りしめ、涙を流しながら母子の無事を祈った。美樹が生まれた瞬間、久美子は意識を失った。久美子の意識が戻ったのはそれから2日後で、しばらく退院できなかった。
鈴木は大の子供好きで、子供は何人もほしかったが、愛する女にこんな思いは二度とさせたくないと思った。だが、久美子はそんな夫のためにも、そして美樹のためにも二人目がほしかった。久美子は初産が難産でも、二人目もそうなるとは限らないこと、今は無痛分娩や水中出産といった妊婦に負担をかけない出産法があることを話し、懇願した。だが鈴木は、「出産のリスクは減っても、そこに至るまでの君のリスクは減らない。食べたい物もろくに食べられず、どんどん痩せ細ってゆく君を見るのはつらい」と言って、取り合わなかった。
その夫がなぜ、ここにきて急に二人目がほしいと言い出したのか、久美子は府に落ちなかった。言葉を失っている久美子に鈴木は続けた。
「子はかすがいというだろう?僕たちの絆をもっと強めていくためにも二人目がほしいんだ。美樹のためだけじゃない。君だって二人目をほしがっていただろう?」
その言葉に久美子は愕然とした。夫が変わってしまったのか、本来そういう性格で自分が気づかなかっただけなのか、それとも自分が変わってしまったのかわからないが、いつも堂々として、自信に充ちあふれていた夫が急に小さく見えた。
「もちろん無理にというわけじゃない。産むのも、その苦しみを味わうのも君だから、君が嫌だっていうなら今のままでいい。でも、考えてみてほしいんだ」
考えるまでもなかった。確かに美樹を一人っ子にはしたくない。だがそれは、今でも変わらず夫を愛している場合だ。久美子は今の夫に魅力を感じない。心をつなぎとめておくために子供をつくるなど、言語道断だ。
男の女々しさや愚かさもまた、その深い愛ゆえであることを、このときの久美子は理解できなかった。沈黙の後、久美子は口を開いた。
「確かにきょうだいがあるのはいいことだわ。私も初めてのときと同じになるのを覚悟して、あなたに二人目をせがんだこともあったけど、あのときはまだ20代だった。でも、今はもう38よ。だから…ごめんなさい」
鈴木は唖然とした。こんなにもあっさりと断られるとは思っていなかったからだ。断られるにしても、しばらく考えてからの返答だと思っていた。鈴木はショックを隠せなかった。
「シャワーを浴びてくるわ。あなたは先に休んで」
夫への愛が完全に覚めた瞬間だった。胸や腰に残る唇の跡さえ、洗い流してしまいたかった。夫からの返答はなかった。
美樹を産んだ時の苦しみは壮絶だった。今でもはっきりと覚えている。まさに命を賭けて産んだのだ。だが、今の夫のために命は賭けられない。
もし再び子供を産む日がくるとしたら、その父親は達郎以外に考えられなかった。久美子は熱いシャワーを浴びながら、むしょうに達郎に抱かれたい衝動に駆られた。
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)


最近のコメント