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2009年1月

第27章 愛と憎しみ

 祝日の午後、久美子は世田谷にできた新築マンションを訪れていた。多摩川沿いにあるこのタワーマンションは、東京人気マンション第一位に選ばれ、発売初日で完売になったことで有名だ。敷地内には既存樹を移植してつくられた森が広がり、鳥のさえずりがどこからともなく聞こえてくる。部屋から見る展望は実に素晴らしく、久美子は高級ホテルにいるような気分に浸っていた。

 「昼も最高だけど夜景も格別よ。今度は美樹ちゃんも連れていらっしゃいな」

 そう言って焼きたてのケーキを切り分けているのは加奈子だ。久美子が加奈子と会うのはバンクーバーの空港で別れて以来だった。加奈子とはインターネットや電話を通じて月に数回は連絡を取り合ってきた。加奈子は昨年再婚し、再婚相手とその連れ子と共にこのマンションで暮らしている。再婚相手は外資系保険会社のセールスマンだときいていた。

 「たった三年で日本にとんぼ返りとはね。どう?少しはおちついた?」

 「そうね。荷物もだいたい収まったし、やっとのんびりできそうよ」

 「私が言っているのは荷物じゃなくて、気持ちのことよ。達郎さんと連絡はとっているんでしょ?」

 久美子は言葉を詰まらせた。

 「ひょっとして、カナダで別れたきりなわけ?」

 目を見開いて尋ねる加奈子に、久美子は黙ってうなずいた。

 「あきれた。達郎さんから連絡はないの?インターネットだってあるでしょ?」

 「彼は日本に戻ってからの私の携帯番号を知らないの。それに…うちにあるディスクトップは家族用よ。彼とメール交換なんてできないわ」

 「だったら、おちついた時点であなたから連絡すべきでしょう?パソコンだって、自分用に買えばいいじゃない」

 「家に2台は必要ないわ」

 加奈子は深いため息をついた。

 「何もしないってことは、きっぱり別れたってこと?」

 久美子は首を横に振った。

 「ずいぶんじゃない。あなたは家族の手前、それでいいかもしれないけど、独りでいる達郎さんの身にもなったら?」

 久美子は加奈子のその言葉にカッとなった。

 「だからって、電話で何を話すの?今日本は雨だとか、晴れているとか、そんな会話、意味がないわ。あの人と生きていくと言う以外に、あの人に伝えられる言葉はないのよ。でも、今の私にはそれができない。私は家庭を捨てられない。捨てられないまま、離れて淋しいから声だけきかせてなんて、そんなこと言えない!」

 久美子の瞳からポロポロと涙がこぼれ落ちた。張りつめていた心の糸が切れてしまったのだ。加奈子は取り乱した久美子を初めて見た。

 「いつか一緒に暮らせる日がくるかしら…なんて、他人事のような言い方をしたことがあったわ。でも彼はそんな私を責めるどころか、必ずくるとその手を握り返してくれた。離れるのは今だけだって…。淋しいとか、離婚してくれとか、一度だって言われたことないわ。ないだけに…こたえるのよ」

 そこまで言って、久美子は口をつぐんでしまった。加奈子は久美子の中にある女としての激しさを垣間見た気がした。

 「ごめんなさい。よく知りもせずに…。悪かったわ」

 加奈子はそう言って、しゃくりあげて泣く久美子の背にそっと触れた。

 「そんなに自分を責めることないのに。誰かを愛してしまうのは、仕方のないことじゃない。あなたも達郎さんも真面目すぎるのよ。もっといい加減でいいのに。愛し合っているんだもの。たまには隠れて甘え合ってもいいと、私は思ったの。でも…私の考え方を押しつけちゃいけないわね」

 加奈子は久美子がおちつくまで、ずっと背中をさすっていてくれた。

 「ごめんなさい。年甲斐もなく大泣きして…恥ずかしいわ」

 「いいのよ。今のあなたには泣く場所がないものね。泣きたくなったら、うちにくればいいわ。いくらでもつきあうから」

 加奈子はそう言って久美子に微笑みかけた。久美子もいつしか笑顔になっていた。そのとき、玄関のインターホンが鳴った。

 「息子が帰ってきたわ。通してもいいかしら。紹介したいの」

 「もちろんよ」

 再婚相手の連れ子は男の子で、美樹と同じ中学一年だと聞いていた。

 「こんにちは!久美子おばさん、お久しぶりです!」

 ドアを開けて顔を出したのは加奈子の実の息子、祐樹だった。久美子は驚いた。祐樹と加奈子はいたずらっぽい目で微笑みあった。

 「隠していてごめんなさい。再婚相手というのは別れた主人のことよ。連れ子というのは息子の祐樹のことなの」

 久美子は口と目を同時に空けたまま硬直していた。

 「久美子おばさん、ごめんなさい。母は人を驚かせるのが好きなんです。昔からの悪い癖で、僕も何度やられたことか。それはそうと、美樹ちゃんは元気ですか?」

 久美子は祐樹のその言葉でようやく我にかえった。

 「え、ええ、とっても元気よ」

 そう言うのがやっとだった。まだ気が動転している。

 「今度、美樹ちゃんと一緒にあそびにきてください。久しぶりに会いたいし。じゃ、これから塾なんで、失礼します」

 祐樹はそう言って久美子に軽く頭を下げると、笑顔で部屋を出て行った。

 加奈子は久美子にこれまでのいきさつを話した。

 「離婚して、日本に帰国して、実家に帰って…。近所にある百貨店の婦人服売り場で働き始めた頃、夫が突然現れたの」

 「ご主人も、日本に転勤になったの?」

 「いいえ。主人は会社をやめて帰ってきたの。日本で私と暮らすために。びっくりしたわ。彼はこれまでの仕事を気に入っていたし、その仕事を捨てて、女のために自分の生き方を変えるなんて、そんなことする人でも言う人でもなかった。それに再婚するなら、私をカナダにこさせるというのが本来の彼のやり方だし。再婚して更に驚いたのは、女が絶えたことよ。家にまっすぐに帰ってくるし、休日も家にいるし、どこへ行くにも何をするにも、私と一緒に居たがるの。最近は料理の楽しさを覚えてしまって、台所は占領され放題。これまでは家事なんていっさいやらない人だったのに、おかしいでしょう?」

 確かに久美子の知る加奈子の夫は、亭主関白そのものだった。

 「それで、再婚のプロポーズにはすんなりOKしたの?」

 「まさか。最後はあんな別れ方をしたのよ。私にだって意地があるわ」

 「それならどうして再婚を?祐樹君のため?」

 「夫が頭を下げたの。土下座したのよ。いきなり、しかも路上でね。変にプライドが高くて、表はフェミニストぶっていても、中身は男尊女卑の塊みたいな人が…。許してくれと、泣きながら頭を下げて言うの。再婚が無理なら、せめて祐樹とだけは会ってくれと。そのときに思ったの。私は私から祐樹を取り上げた夫を憎んだけれど、憎しみも愛だったんだって。それまで、私は愛の反対は憎しみだと思っていた。でもそうじゃなかった。愛の反対は無関心なのよね。関心のないところには憎しみさえも生まれないんだから」

 久美子ははっとした。カナダにいるときは、まだ夫に対して後ろめたい気持ちがあった。だが、今は何も感じない。後ろめたさ云々という問題ではなく、夫に対して感情というもの自体を抱くことがないのだ。

 「実は今年の終りに子供が生まれるの」

 「えっ?」

 「二人目ができたの。というよりつくったのよね。二人目ができたことで、今まで以上に夫と強く繋がった気がした。過去のことは全部水に流して、一から始まるんだって、純粋に思えたの。夫と結婚して今ほど幸せを感じたことはないわ。雨降って地固まるってこういうことを言うのね」

 久美子は複雑な思いだった。自分なら土下座してまですがる夫を女々しいと思うだろう。だが、加奈子はそんな夫に愛おしさすら覚え、受け入れたのだ。自分が思い描いていた通りの人でなくても、その全てをあるがままに受け容れることができる。それこそが本当の愛なのかもしれないと、久美子は思った。

 二人目がほしいと言った夫の申し出を、自分はあっさり却下した。そこには、二人目などつくったら夫から逃れられなくなる、達郎と暮らす日が遠のく、という打算があった。

 夫から求められれば求められるほど、冷めていく心。久美子は夫と一緒にいるときの今の自分が嫌いだった。久美子は自分がどんどん薄情な女になっていくような気がした。

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第28章 新しい仕事

 帰国して三か月が過ぎ、久美子は就職活動を始めていた。だが、社会に出てたった二年で家庭に入ってしまった久美子には、現役で通用するような業務経験も資格もなかった。そのためいつも応募(電話)の時点で断られるか、履歴書送付で終わってしまう。就職活動より何より、まずはパソコンや簿記の資格を取ることから始めなければ、面接さえもしてもらえない。久美子はパソコン教室と専門学校の短期コースをかけもちし、三か月で簿記とパソコンの上級資格を取った。

 だが、状況は好転しなかった。面接試験まではこぎつけたものの、大学の新卒者や経験豊かな転職者までもがフリーターをしている今、専業主婦一筋できた久美子は、結局は経験不足と年齢制限で断られてしまう。それは正規雇用ではなくパートでも同じだった。経験不問や資格不要を求人票に謳っているのは生命保険の外交員くらいだ。工場のオペレーター業務も経験者優遇だが、事務職の雇用ほど厳しくはない。だが、久美子はセールスやオペレーターはやりたくなかった。

 派遣会社にも登録したが、依頼されるのは短時間かつ短期の仕事ばかり。終日かつ長期の仕事といえば資格を生かせる仕事ではなく、単純なデータの入力作業、いわゆるキーパンチャーの仕事が大半だった。コンピュータの前で終日数字を打ち続ける作業は、頭痛と肩こりを併発し、長くは続かなかった。おちついて考えれば、即戦力を売りとする派遣会社の方が、正規雇用の就職よりもハードルが高いのは当然だった。

 結局、一般事務職はあきらめ、カナダで覚えた英語を生かせる仕事を捜した。だが、ここではTOEICの資格を要求された。久美子は今度はTOEICの受験勉強に取り組んだ。努力の甲斐あってレベルAを一回でクリアし、年明けにようやくありつけた仕事は、小さな英会話教室の非常勤講師。それも週に3回、夜の6時から9時までの仕事だった。

 久美子は女が独りで生きていく厳しさをひしひしと感じた。弁護士や看護婦、公務員といった専門職でもない限り、女性が男性並みの給料を取ることは難しい。妻として夫の扶養控除にかからない程度の給料を出す事業所はそれなりにあるが、終日雇用の求人は少なく、あっても独りで生計を立てていけるだけの給料は得られない。結局、世間がいくら男女平等だと言ったところで、社会的には女性は男性と結婚しなければ生活していけないようになっている。久美子は、加奈子が離婚後、実家に戻らざるを得なかった訳がわかる気がした。

 久美子が勤めを始めたことで、夕食を毎日家でとっていた夫も、外食で済ませることが多くなった。美樹が二年生に進級すると、進学塾への送迎が重なって、久美子は家事と娘の所用と英会話教室での勤務に追われた。昇進後の夫は休日も接待で出かけることが増え、以前のような家族揃っての団欒は月に数回になっていた。

 その年の6月、美樹の“夏休み留学”が決定し、久美子は美樹と共に留学オリエンテーションのため、UTS国際教育センターに赴いた。留学先は美樹のたっての希望でカナダにしたのだが、提携先はバンクーバーではなくオタワであった。滞在期間は四週間のため、生活体験型のホームステイかファームステイのどちらかを選択する。場所柄もあってホームステイを兼ねた短期語学留学ということになった。

 7月下旬、久美子は夫と共に空港の出発ロビーまで美樹を見送りに行った。久美子は夫と共にその姿が見えなくなるまで手を振った。

 「今日から寂しくなるな」

 「ええ」

 久美子は夫と二人きりになることを思うと気が重かった。

 「新婚に戻ったみたいでたまにはいいか。今夜は二人でおいしいものでも食べにいこう」

 「そうね」

 タイムテーブルの書かれた掲示板を見上げると、Vancouver(バンクーバー)の文字が目に飛び込んできた。久美子はバンクーバーでなくても、カナダに行ける美樹が羨ましかった。オタワも達郎の住むアメリカの大地には違いない。このまま飛行機に飛び乗って会いに行きたい。久美子ははやる気持ちを懸命に抑えていた。

 その晩、夫と共に外食を済ませた久美子のもとに、勤務している英会話教室の社長から電話が入った。翌日、いつもより早く出勤した久美子をまっていたのは解雇通告だった。

 「実は経営が悪化しまして、世田谷教室を年内で閉鎖することになりました。そこで、よくやってくれている鈴木さんには大変申し訳ないのですが、今月いっぱいで退職していただきたいんです」

 久美子は一瞬頭が真っ白になった。あと一週間で突然辞めろと言われても、納得がいかない。

 「年内は継続するんですよね?それなのに、どうして今月で解雇なんですか?お言葉を返すようですが、解雇通告は三か月前というのが法律で定められていますし、それとも、生徒の方から私に対する苦情でもあったんでしょうか?」

 「いえ。鈴木さんの授業はとても丁寧でわかりやすいと好評です。できることなら、こちらとしてもずっとお願いしたい。でも、景気の煽りを受けて生徒さんも減ってきていますし、世田谷に続いて他の2教室も閉鎖になりそうなんです。ですから、非常勤の方はお断りして、当面は常勤の方だけで運営をしていきます。世田谷教室に関しては閉鎖が決定しているので、常勤の方も年内で解雇ということになります。本当に申し訳ありません」

 そうして、就職してから一年もたたないうちに、久美子は失業してしまったのだった。

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第29章 逃避行

青い海、緑色の山並み、連立する高層ビル。懐かしい街並みが徐々に近づいてくる。眼下に広がる一年半ぶりのバンクーバー。久美子は飛行機の窓から食い入るように、その風景を見つめていた。

銀座に買い物に出て、通り沿いにあった旅行社のポスターにカナダを見つけた。懐かしさにいてもたってもいられず空港に向かい、エアカナダのサービスカウンターで航空券を申し込んだ。あいにくエアカナダは満席だったが、日本空港の直行便に空きがあった。すでに搭乗開始時刻は過ぎていて、久美子は駆け足でゲートに向かった。夫には離陸直前に「ごめんなさい。しばらく一人にさせてください」と短い携帯メールを打った。

 達郎に会いたい。声がききたい。だが、達郎は何と言うだろう。離れて暮らす寂しさに耐えているのは達郎も同じだ。それなのに、激情のままに押しかけてその努力をくじこうとしている。テイラー夫妻にも会わせる顔がない。

目の前の責任を果たす―それは妻として、母として今ある家族と生きること。達郎を愛してしまった今、母として生きることはできても、妻として生きることは苦しい。達郎以外の男に抱かれるのはつらい。それが何年も共に暮らし、子供まで設けた夫であっても…。そんな久美子に、夫は無理強いをすることはないが、それでもまったくないということは通らない。

達郎と暮らしたい。顔を上げたとき、いつもそこにいてほしい。抱きたい。抱かれたい。社会人としてのモラルも、母親としての責任も、妻としての義務も、世間にどう非難されようともういい。今は何も見ないふりをして、二人だけの世界に埋没したい。

 久美子はリストラされた直後ということもあり、かなり投げやりになっていた。

 空港からタクシーを走らせ、達郎のログハウスにやってきた。玄関のドアに掛けられた TATURO SAWAKI” の文字を指でなぞると、愛しさが込み上げた。それほどに達郎に会えない日々は長く、苦しかった。だがドアには鍵がかかっていて達郎は留守だった。久美子はドアの前に腰を降ろし、達郎の帰りをまつことにした。

 だが、夜のとばりが降りて星が輝きだしても、達郎は帰ってこなかった。夏とはいえ、ノースバンクーバーの山岳地帯は冷え込む。真夏の東京から軽装のままやってきた久美子は、震えながら達郎をまった。そして2日が過ぎ、3日目には雨が降った。達郎は戻らないのかもしれないと久美子は思った。だが、他に行く宛などない。久美子は前のめりに倒れ、そのまま深い眠りにおちた。

 気がつくと、暖炉(ミニ薪ストーブ)の薪がパチパチと音をたてて燃えていた。朦朧とした意識の中で、誰かに抱き上げられたことまでは覚えている。だが、そこから先の記憶はなかった。

 そのとき、部屋のドアが開いた。入ってきたのは達郎ではなく、長身の白人男性だった。久美子はとっさに置き上がろうとしたが、身体が重くて無理だった。

 「目が覚めたかい?肺炎手前だったんだよ。あんな薄着で座り込んで、無茶な人だな」

 久美子はその顔に見覚えがあった。カナダの運転免許がとれたことが嬉しくて、達郎に知らせに初めて車でここに赴いたとき…。あのとき、達郎は日本に行っていて留守だった。達郎の友人だというファミリーがここに滞在していて、友人の名前は確かトムと言った。

 「僕を覚えているかい?」

 久美子は黙ってうなずいた。

 「タツローは今リオデジャネイロにいる」

 久美子は目を丸くした。リオデジャネイロといったらブラジルではないか。

 「今のタツローはほとんどここにいない。去年、エコロジカル・ログ・カンパニーの海外事業部に転属になったんだ。そこはテイラー氏が直接指揮する部署でね。海外からの受注を一手に引き受けて、各国の現場をまわって仕事をする。要するに、北半球に冬がきて仕事がなくなると、今度は南半球に飛んで仕事をする、という具合にね。北半球の冬は南半球の夏だから、これまでのような冬から春にかけての休みもないんだ」

 久美子は達郎に会えないと知り、愕然とした。

 「あら?目が覚めたのね。よかったわ」

 今度は長身の白人女性が顔をのぞかせた。その女性と目が合った。

 「妻のアンだよ。内科医なんだ。君が入院せずに済んだのは彼女のおかげさ」

 久美子は数年前、ドア越しから見た部屋の奥で赤ん坊をあやしていたアンの姿を思い出した。

 「下着や洋服を買ってきたわ。好みが合わないかもしれないけど我慢してね」

 そう言ってアンは紙袋から買ってきた衣類をとり出し、久美子に見せた。

「お腹すいたでしょう?今、スープを温めてもってくるわね。あなたは丸2日も眠り続けていたのよ」

 そのとき寝室にある電話が鳴った。トムが受話器をとった。

 「もしもし?ああ、タツロー?」

 久美子はどきっとした。衝動にかられてここに来たが、正気にかえってみれば、何てことをしてしまったのかと、今更ながら軽率な行動を悔やんだ。

 「うん。もう大丈夫だよ。熱も下がったしね。後は栄養つけてゆっくり休めば。うん、うん、ちょっとまって」

 トムはそう言って、受話器を久美子に差し出した。久美子はおそるおそる電話に出た。

 「もしもし…」

 心臓が脈打っている。

 「久美子さん?」

 懐かしい達郎の声。久美子の瞳から一気に涙があふれ出た。

 「もしもし?久美子さん?」

 「はい…」

 とても話せそうにない。久美子は受話器を握りしめたまま、泣き声を押し殺しているのがやっとだった。トムは久美子から受話器をとって達郎と話を続けた。

 「わかった。じゃ」

 トムはそう言って電話を切った。

 「すみません…」

 久美子はそう言ってトムに頭を下げた。

 「僕は小説家でね。達郎が頻繁にここを空けるようになってからは、時々、執筆用に使わせてもらっているんだ。子供が小さいと家じゃおちついて書けないからね」

 「そうだったんですか。お仕事の邪魔をしてしまって…ごめんなさい」

 「いいんだよ。ここを使うと言っても、それは昼間だけさ。昼間ここで書いて、夜には家に帰る。昨夜はアンとここに泊まったけど、今日は二人はいらないな。あさってにはタツローもくることだし」

 「達郎さんが?」

 久美子は驚いて顔を上げた。

 「うん。帰ってくるってさ」

 「仕事が忙しいんじゃ…。急に休みなんてとれるんですか?」

 「さあね。とれなくても帰ってくるんじゃないの?あの様子じゃ」

 「私のこと…テイラーさんに話したんでしょうか」

 「さあ。でもすぐに戻ってくるってことは、仕事より君の方が大事ってことでしょ?それはそれでいいんじゃない?実際、仕事よりも家族の方が大事だからね」

 「家族?」

 「タツローにとって君は家族なんだよ。心が通い合った時点で、彼にとっては一緒に人生を歩いているのと同じなんだ」

 「私のこと…ご存知なんですね」

 「タツローは君がどういう人かは話してくれたけど、詳しいことは何も言わない。言わないけど、何となくわかるよ」

 アンがスープを持ってやってきた。

 「これから息子を保育園に迎えにいくんだ。今日はそのまま帰るけど、また明日くるから。今夜はしっかり食べて、ぐっすり休んでね」

 「いろいろありがとうございました」

 久美子は再びトムに頭を下げた。

 「どういたしまして。じゃアン、あとは頼んだよ」

 トムはアンを抱き寄せ、唇に軽くキスをして部屋を出て行った。アンが起き上がるのに手を貸してくれる。

 「ハンドバックひとつでやってくるなんて、よほどのことだったのね。タツローが帰るまでは私が泊まるわ。一人にはしないから安心してね」

 「でも、お子さんが…」

 「大丈夫よ。家には両親も揃っているし、昼にはトムと交替するから」

 「ごめんなさい」

 「いいのよ。それより、タツローがきたら思いっきり甘えるといいわ。余計なことは考えないで。ね?」

 アンはそう言って久美子を抱きしめた。久美子の頬を涙が伝った。アンは久美子の髪を撫でながら、時折背中をポンポンと叩いた。アンの作ってくれたスープはとてもおいしく、久美子の身体だけでなく、心も温めてくれたのだった。

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第30章 再会

 翌日、久美子はアンがアメリカ人であることや、二人がアメリカの大学で知り合い、学生結婚をしたことなどをきかされた。大学を卒業後、揃ってアメリカで働き、子供の出産を機にトムの故郷であるカナダに移住したのだという。トムは税理士、アンは医師の資格をもっているが、現在は揃ってセミリタイヤし、育児に専念している。そのかたわらトムは小説、アンはパッチワークと、趣味をエンジョイしているのだった。

 「この若さでセミリタイヤなんてすごいわ。どうやってお金を貯めたの?」

 「お金があってのセミリタイヤじゃないの。5年かけて貯めたお金を切り崩しての生活よ。子供が小学生になったら二人で社会へ戻るわ。そのときはスッカラカンになっているでしょうね」

 「30代で定年なんて、そんな発想もあるのね」

 「日本はどうか知らないけど、こっちじゃそれほど珍しいことじゃないの。アメリカじゃ特にね。“お金が貯まってから”とか、“いつか”とか言っていたら、いつまでたっても何もできやしないわ。思った時がやる時なのよ。まあ内容によっては、ある程度の準備期間は必要だけど」

 「二人とも社会復帰は以前の職業に戻るんでしょう?」

 「さあね。トムは税理士は廃業したって言っているわ。小説一本で行くんだって。私は…そうね、勤務医をしながらまた貯金して、大学に戻るかも」

 「大学?30代で大学生になるの?大学に2回も行くの?」

 「日本は高校→大学→社会人というのが一般的らしいけど、こちらではそうじゃないの。仕事は慎重に、時間をかけて決めていくの。大学を出たら、いろいろな職種を試して、自分の適性を知って、やりたいことを模索して、そうしてはじめて進路を決めるの。そこに行きつくための順番なんてどうだっていいのよ。この道はやっぱり違ったと思ったとき、あるいはこっちの道に行きたいって思ったとき、何回でもやり直せばいい」

 アンと久美子、トムと達郎は4人揃って同い年だが、同じように母であり妻であるアンの生き方に、久美子は衝撃を受けた。

 「日本ではまだそういう生き方は社会的に容認されていないから、そんなことをすればするほど再就職時の初任給は落ちていくわ。30代を中心としたベンチャービジネスの会社では、そういう欧米のスタイルを取り入れているところもあるけど、まだ少数よ。そういうスタイルを貫く日本人は逆に日本を出て、アメリカで活躍している人も多いわ」

 「クミコは今、何かやっているの?」

 「英会話教室の講師をしていたけど、半年ちょっとで首になっちゃったの。結局、専業主婦に逆戻り」

 「主婦業だけで満足してる?」

 「いいえ。でも、数年前までは満足していたのよ。他に何かをやろうとか、考えたこともなかった。でも達郎さんに会って、考え方が変わったの。専業主婦が無能だとか、それに専念することが悪いとは言わないけど、もう家庭の中だけにいたくないの。子供が手を離れたからとかじゃなく、私自身のこれからの人生のために。家族のために生きることと、私自身のために生きることがイコールでなくなってきたせいもあるけれど…。今もあなたの話をきいて、ますますこのままじゃいけない、自分も何かしたいと思ったわ。ただ勤められればいい、ということではなくて、自分が本当にやりたいことを仕事にしたいって。でも自分がやりたいことが何なのか、自分のことなのにわからないわ」

 「子供の頃に好きだったこととか、夢中になっていたことは?」

 「絵本とか…好きだったけど…」

 「だったら絵本作家になったら?」

 「そんな…。突拍子もないこと言うのね。そんな簡単になれるわけないわ」

 「最初は“自称”でいいのよ。すぐになる必要はないし、確かに簡単になれるものでもない。トムは昨日あなたに“小説家だ”なんて言っていたけど、まだ一作も完成していないのよ。でも本人は作家のつもりで名刺まで作って、裏にサインまでして、友だちに配っているわ。笑っちゃうでしょ?最初はそういう簡単なことからでいいのよ。大切なのはあなたがそれをしていて楽しいかどうかなんだから」

 「楽しいかどうか…」

 「そう。逆にお金を払ってでもやりたいことと言ってもいいかしら」

 「ずいぶん盛り上がっているようだけど、何の話だい?」

 トムが顔を出した。

 「早かったのね。ちょうどあなたの噂をしていたところよ」

 アンはそう言いながらトムの首に手を回し、頬に軽くキスをした。

 「女同士、だいぶ打ち解けたようだね。ところで具合はどう?」

 トムは笑顔で久美子に話しかけた。

 「熱もすっかり引いて、食欲も出てきました。本当に何てお礼を言っていいか…」

 「良かった。君に何かあったらタツローに申し訳がたたないからね」

 「あの…達郎さんとはどういう?」

 「タツローが初めてカナダにきたとき、ヒッチハイクで捕まえられちゃったんだ。空港で金をすられたとかで、とりあえずスタンレー公園まで送っていった。あいつ、そのままそこでホームレスになって、テイラー夫人に拾われたのさ。それからしばらくして行きつけのバイク屋で偶然会って、意気投合してね。タツローが今乗っているハーレーは僕のおさがりさ」

 「あれはあなたのハーレーだったのね」

 「僕は今、ドイツのBMっていうバイクに乗っているんだけど、それに買い換えるときに、それまで乗っていたハーレーを売ろうと思っていてね。そうしたら、タダであいつに持ってかれちゃったのさ」

 「人聞きの悪いこと言うなよ。とても売れるようなシロモノじゃなかったぜ」

 そう言って入ってきたのは達郎だった。

 「タツロー?おまえ、明日の朝帰ってくるんじゃ…」

 アンも久美子も驚いた。

 「飛行機のチケットがとれたんでね。おまえと電話しているときは空港にいたんだ」

 「タツロー、おかえりなさい」

 アンが達郎に声をかけた。

 「アンは昨日も泊まってくれたんだって?ありがとう」

 達郎はそう言いながらアンに軽くハグをした。

 一年半ぶりに見る達郎は日に焼けていて、腕が筋肉のせいで太くなっていた。逞しくなった達郎が久美子は眩しかった。

 その夜は寝室にテーブルを持ち込んでのディナーとなった。アンとトムは気を利かせたのか、夕食を終えると早々に帰っていった。

達郎がシャワーを浴びに行っている間、久美子はベッドに横になったまま、暖炉の炎を見つめていた。達郎がパジャマ姿になって戻ってきた。

 「まだ起きてたの?先に休んでてよかったのに」

 達郎はそう言って久美子のとなりに横になった。暖炉の火が互いの顔を赤く照らし出す。二人は笑顔で見つめ合った。達郎は久美子の首に腕をまわし、そっと抱き寄せた。

 「何か不思議な気持ちだな。家で君がまってるなんて。こうして一緒に眠れるなんて。俺は夢でもみてるのかな」

 達郎は久美子の手を握りしめながら言った。久美子も同じ気持ちだった。だが、久美子は胸がいっぱいで言葉が出てこなかった。

 「リオデジャネイロからバンクーバーまでは直行便で?」

 ようやく言葉が出た。

 「いや。メキシコで乗り換えた」

 達郎は少しだけ体を離し、久美子の目を見て答えた。

 「長いフライトで疲れたでしょう?」

 「大丈夫だよ」

 「達郎さん、仕事は…」

 「心配しなくていいよ。今回は下見を兼ねて打ち合わせに行っていただけだから。実際の工期は来年の暮れか再来年になると思う。来週、正式な契約と細かな打ち合わせを兼ねてもう一回行かなきゃならないけど、すぐに帰ってこられるから安心して」

 「ごめんなさい。無理をさせて…」

 「そんなことはいいんだ。こうして会いにきてくれたんだから」

 「トムさんから海外事業部というところに異動になったってきいたわ。ブラジルから戻ったら、どこかの国へ行ってしまうの?」

 「今月の終りにはバングラデシュに行くことになってる。アジアの農村に、ログハウスの学校を建てるっていう仕事なんだ。その後にインド、パキスタン、ネパールの順にまわる。リオデジャネイロの仕事は突然入ってきた仕事で、何とか都合をつけて、パキスタンとネパールの合間にやるつもりだ」

 離れていた一年半の間に達郎がどんなに大きく成長したか、その眼の輝きでわかる。

 「アジアが終わったら、今度は先進国をまわるんだけど、こっちは学校じゃなく孤児院が中心なんだ」

 「その孤児院も全部ログハウスなの?」

 「もちろんさ。カタログを見せると、どこの国の子供たちもハンドヒューンタイプがいいって言うんだ。あの山小屋風の何ともいえない雰囲気がいいんだろうな。契約してくれるオーナー側もログハウス=ハンドヒューンだと思ってる。他のタイプを知らないんだよね。でも、コストによって希望通りにいかなくて、立地の条件によってはログハウスもどきになってしまう場合もある」

 「ログハウスもどき?」

 「うん。ログハウスに似せたツーバイフォー住宅さ。日本の街中にあるログハウスに見える喫茶店なんかがそのいい例だよ。一階だけをログ組みにすることによってそれらしく見える。この大きなプロジェクトは、親方の長年の夢だったんだよ 

 「親方…。ジョンさんは、今回私のしたことを怒っていたでしょ?」

 「親方は君がバンクーバーにきていることは知らない」

 「何て言ってきたの?」

 「何も言ってない。親方は身体の具合がよくなくて、今回のブラジル行きは見合わせたんだ。親方は今、このバンクーバーにいる。自宅で静養中だ」

 「そんな…。それなら、お見舞いに行かなくちゃ」

 「何言ってるの。君だって充分病人なんだよ。あと2、3日は安静にしていないと。それに俺は今、日本にいることになってる。一緒に見舞いになんて行けないよ」

 「日本に?」

 「身内に不幸があったことにしたんだよ。急だったからね。それしか手はないだろ?」

 「それはそうだけど…」

 久美子がそう言って顔をあげると、達郎はすでに熟睡していた。

 久美子は達郎の眉や高く通った鼻筋、唇を指でそっとなぞった。目の下にうっすらとクマができている。かなり疲れているのだろう。達郎が仕事を放り出してまで飛んできてくれたことが、久美子は嬉しかった。

 久美子は達郎の喉元に唇をつけるようにして目を閉じた。達郎のぬくもりが、久美子を深い眠りにいざなった。

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第31章 生い立ち

 「達郎さん?達郎さん、起きて」

 耳元で久美子の優しい声が聞こえる。自分を揺り起そうとしている。

 もう少し、もう少しだけこのままでいさせてくれ。ここから去らないでくれ…。

 朦朧とした意識の中で、達郎は夢を見ているのだと思った。

 久美子は達郎をさらに強く揺り動かした。

 「何も食べないで寝ているのは身体によくないわ。したくができたから、起きて食べて」

 はっとして飛び起きた。振り向くと、久美子が立っていた。

 目を見開いたままの達郎に、久美子は笑顔で話しかけた。

 「おはよう。もう昼よ」

 「俺、寝過して…。ごめん。これからすぐに飯をつくるから」

 達郎はそう言ってベッドから起き上がった。その言葉に久美子はふきだした。

 「食事のしたくならできているわ。顔を洗ったら、キッチンに降りてきて。タオルは新しいのに替えてあるから」

 「えっ?あ、うん…」

 呆然とする達郎をよそに、久美子は笑顔で寝室を出て行った。

 階段を下りていくと、いい匂いが漂ってきた。キッチンでは、久美子が刻んだ野菜を皿に盛り分けている。食卓には、ゆで卵とトマトソースのパスタ、キウイフルーツが皿に盛られ、きれいに並んでいる。久美子は達郎の姿を見つけると、パスタをレンジにセットした。

 「飲み物はコーヒーでいいかしら」

 「それくらいは俺がやるよ。君は何にする?」

 「冷蔵庫にオレンジジュースがあるの。それをいただくわ」

 「わかった」

 達郎はオレンジジュースを出してきてグラスに注ぐと、次に自分のインスタントコーヒーを煎れた。傍らでは久美子が温めたスープを皿に盛っている。久美子が作ってくれたのはコーンスープだった。

 「君の手料理を食べるのは、美由紀さんの料理教室以来だな。あのときも思ったけど、君は本当に料理がうまい。君と会って、結婚するなら料理上手な女性が一番だと思った。一生うまいものを食って暮らすか、暮らさないかでは大きな違いだからね」

 「今では美味しいお総菜がどこにでも売っているし、別に家で作る必要もないでしょ?それに昔と違って男性だって台所に立つ時代だし、そんな考え方、古いと思うわ」

 「君が親方のうちで作ってくれた日本料理は煮物が中心で、汁物や鍋料理も田舎の郷土料理みたいにうまかった。そんなふうに、一見地味なようでいて懐かしいお袋の味が、男はいつまでたっても恋しいもんさ。俺が君に魅かれたのは、料理の力も大きいよ」

 「食べ物につられたってこと?失礼しちゃうわ」

 「もちろんそれだけじゃないけど…。あとはお袋の若い頃にちょっと似てたんだ」

 「お母様?」

 「うん。俺がカナダにくる前の年に亡くなったけどね」

 「そうだったの…」

 「親父は健在で、郷里の松本で長男夫婦と暮らしてる」

 「松本って…長野県?」

 「うん。実家は豪農で山もいくつか持っている。俺は三人兄弟の三男で、一番上の兄貴は親父の跡を継いで農業をやっていて、二人目の兄貴は松本でサラリーマンをしている。二人とも結婚して子供が二人いる。二人目の兄貴が家を構えるときは、実家の木を切り出したんだよ。今みたいに外材が入ってくる前は、林業も盛んだったから、学生時代は親父に連れられて、よく枝落としに行ったものさ」

 「枝落としって?」

 「木の手入れのことさ。山林に行くと木の三分の二は枝がないだろう?あれは自然にああなったんじゃなくて、人間が木に登って、数年置きに一本一本枝を切り落として手入れした結果なんだ。そう考えると、昔から木には縁があったんだな。兄貴二人は普通高校に進んで大学まで出たけど、俺は地元の農業高校止まりでね。成績が足りなくて、農業にも林業にも関係ない土木科に進んだ。兄弟中で一番頭が悪くて、孫の顔も見せてあげられない親不幸者さ」

 「そんなこと…。それに、土木科だって建設の一環でしょ?枝落としと同じで、今の仕事に立派に繋がっていると思うわ」

 「やさしいね、君は。君の方は?ご両親はどうしているの?」

 「私は東京生まれの東京育ちだから、田舎があるあなたが羨ましいわ。私は中学、高校ともキリスト教の女子校だったの。しかも全寮制で。大学は共学がよかったから、上智大学の教育学部に進んだの。父は帝都銀行で頭取をしているわ。母はずっと専業主婦。弟が一人いて、去年お嫁さんをもらったばかりよ。実家は弟の結婚と同時に二世帯住宅に改築して、昔の家の面影はないわ」

 「君はエリートなんだな」

 「そんなことないわ」

 「キリスト教の学校ってことは、君も実家もクリスチャンなわけ?」

 「仏教だけど、行儀作法とか校風とか評判とかで、親がそこに決めたのよ」

 「長野の山猿と都会のお嬢様育ち。すごい組み合わせだな」

 「お嬢様だなんて…。学歴とか、生い立ちとか、そんなこと関係ないでしょ」

 久美子は唇を尖らせてそう答えると、二人が食べ終わった皿を重ねて、席を立った。達郎も即座に立ち上がり、久美子の腕をとどめた。

 「片づけは俺がやるよ。君はまだ寝ていなきゃだめだ。ぶり返したら大変だろ」

 「大丈夫よ。熱もないし、少しは身体を動かさないと。あなたこそブラジルから帰ってきたばかりなんだし、ちゃんと疲れをとらなきゃだめよ。ここはいいからベッドに戻って」

 「じゃあ、こうしよう。片づけは俺がやるから、飯のしたくを頼むよ」

 「わかったわ。じゃ、ベッドに戻る前にスーツケースから洗濯物を出していって」

 「ええっ?いいよ。自分の洗濯くらい自分でするから。君にそんなことさせられないよ」

 「夕べ少し汗をかいたの。どうせ洗濯するんだもの、一緒にやってしまうわ」

 「だったら、君の分も俺がやるよ」

 「私の下着をあなたが干すの?そんなの恥ずかしいわ」

 「俺だって、俺のパンツを君に干してもらうなんて気がひけるよ」

 二人は目を見合わせた。いい年をしてもめている内容がおかしく、同時に吹き出した。

 「じゃあお互い様ということで、君が洗濯して干す、俺が取り込んでたたむ、ということでどうだい?」

 「いいわ」

 達郎は食器を洗い終えると寝室には行かず、洗濯物を干す久美子の傍らで薪割りを始めた。久美子は薪割りを初めて見た。

 「私もやってみたいわ。できるかしら」

 「もちろんさ。でも、身体をちゃんと治してからね」

 それから5日が過ぎ、達郎が再びブラジルへ赴く日がやってきた。達郎は久美子の手に家の鍵を握らせて言った。

 「スペアキーだけど、君にやるよ。週末には戻ってくる。それまでに日本に帰るようなら、これはそのまま処分してくれ」

 達郎は久美子が自分のところにきたのは一時的なもので、離婚してきたわけではないことを承知していた。

 「なぜここにきたのか…聞かないのね」

 「俺が口をはさむことじゃないだろ。夫婦のことは夫婦にしかわからないだろうし。俺たちは愛し合っているけど、夫婦じゃない。君はまだ“鈴木久美子”なんだ。でも俺は君が“鈴木久美子”であろうとなかろうと、いつだってそのままの君を受け入れるよ」

 「あなたは私がこのままでいると思っているわけ?信じてくれてないの?」

 「信じるとか信じないとか、そういうことじゃないんだ」

 「どういうこと?」

 「来週ブラジルから戻ったら話すよ」

 「私は帰ったりなんかしないわ!まだ薪割りも教えてもらってないし、ずっとここにいるんだから!」

 久美子はすねて横を向いてしまった。その横顔に達郎はそっとキスをした。久美子が驚いて振り向くと、達郎は笑顔だった。達郎は久美子を強く抱きしめた。

 「寝室の横が俺の部屋だ。家にいるときは俺はそこで本を読んだり、図面を引いたりして過ごす。本棚には親方からもらった本や俺の好きな本が詰まっている。日本で出版されていない親方の本も全部揃えてある。退屈しのぎに読むといい。それから、机の一番上の引き出しにクレジットカードが入ってる。それで、食料に限らず洋服でも何でも好きな物を買えばいい。街に出るときはタクシーを呼べばいいから」

 「あなたのお金なんて使えないわ」

 「今の俺は会社の金で外国ばかりまわっているから、稼いでも使うところがないんだ。だから大金持ちとはいかないけど、小金持ちにはなった。今は金に不自由してないから、心配には及ばないよ。日本に帰るときは…そうだな。カードはもとのところに戻しておいてくれ」

 「達郎さん…」

 達郎は腕の力を緩め、久美子の唇に軽くキスをした。

 「じゃ、留守を頼むね。何かあったら携帯に電話して」

 達郎はスーツケースをレンタカーに積み終え、運転席に腰を下ろした。見送りに出てきた久美子の不安そうな、それでいて淋しそうな表情に胸が痛んだ。

 「行ってくるよ」

 「行ってらっしゃい」

 久美子は車が見えなくなるまで手を振った。達郎は久美子の姿が見えなくなる直前に一回だけクラクションを鳴らした。達郎は再びここに戻ってきたとき、久美子がここで自分をまっていることはないだろうと思った

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第32章 ビジョン・マップ

 達郎の部屋は、北壁一面が本棚になっていた。まるで三面鏡のようにきれいに区切られ、右側が変色した古本コーナー、中央が達郎の仕事関連、左側が近年購入した本、という感じになっている。

 ページが変色した古本は、達郎がジョン・テイラーから譲り受けたものだ。精神世界、心理学、成功哲学、投資、起業とあらゆるジャンルの本が揃えられ、成功哲学ではナポレオン・ヒル、デール・カーネギー、アール・ナイチンゲール、ノーマン・ビンセント・ピール、W・エレメント・ストーン、マクスウェル・モルツなど、多くの名著が並んでいる。

 一方、達郎の成功哲学の棚にはアンソニー・ロビンズ、ハーブ・エッカー、ケン・ブランチャード、ジェイ・エイブラハム、ブライアン・トレーシーなど、今日世界N0.1と異名をとるコーチ陣の名著が並ぶ。他には世界三大投資家の一人、ジム・ロジャースや若手投資家のロバート・キヨサキの本もある。

 ロバート・キヨサキの『金持ち父さんシリーズ』は久美子も読んで知っている。ジェイ・エイブラハムも夫が本を持っていたので知っていた。だが、ここにあるのは和書ではなく、全て洋書だ。和書は翻訳のページ数の都合で3分の2が省略されてしまうが、ここにある洋書は原書(完全版)である。夫がこれらの原書を見たら歓喜の声を上げるに違いない。

 仕事関連のコーナーではジョンの著作はもちろんだが、ジョン以外の一流ログビルダーの作品集や著作も揃えられている。ログビルダー専門誌やナショナル・ジオグラフィック、地球環境や森林の本。特に森林分野では材木から森の動物に至るまで、細かく揃えられている。一級建築士資格取得のためのテキストや問題集もあった。料理の本も数冊あり、これには笑えた。恐らく、自炊係をしていたときに活用したのだろう。

 数冊の本を手に取り、ページをぺらぺらとめくってみた。赤い線がぎっしりと引かれ、ところどころに達郎が日本語で書き込みを加えている。本の後ろには読み終えた年月日が記され、何回も読んだ本もある。本棚のどの分野のどの本を引き抜いても、それは同じだった。この本棚は達郎が読破したものだけを置いているようだ。

 「勉強ができなかったとか、嫌いだとか言っていたけど、とんでもないわ」

 久美子はひとり言のようにつぶやいた。仮に達郎の言葉が真実でも、この数年間、すごいスピードでそのブランクを埋めていったのがわかる。

 本棚の下にあるコーナーには成功哲学の著者のセミナーや講演のDVD、世界各国の観光DVDがずらりと並んでいた。セミナー関連は恐らくジョンに指示されたものだろう。観光DVDは今取り組んでいるプロジェクトの下調べに使うに違いない。

 久美子は世界の観光DVDよりも、達郎が何度も読み返している成功本に興味があった。夫もこういう類の本を好んで読んでいるが、久美子自身は読んだことがない。夫が持っている本の原書(完全版)が、ここには全て揃っていた。

 久美子はまず夫と達郎が読破した成功本から読むことにした。二人の男の世界を垣間見たいという冒険心からだったが、冊数を重ねていくにつれ、成功哲学とはビジネス論というより、人生論であることがわかった。

 続いて久美子は講演DVDを観た。中でもアンソニー・ロビンズの講演はすごい熱気だった。音楽コンサートもそうだが、ライブは迫力が違う。宿泊型のセミナーDVDはもっと良かった。久美子はいつか達郎と彼のセミナーに参加したいと思った。

 本とDVDに夢中になっていて気づかなかったのだが、達郎が帰ってくる前日になって、机の脇の壁にボードが掲げられているのに気がついた。ボードの中央には「Vision Map」と書かれた大きなメモ用紙が張り付けられ、それを囲むように、いろいろな雑誌の切り抜きや写真が貼られていた。達郎の夢を反映させたボードだった。

 その中に手書きのログハウスがあった。絵の下に小さく「ドリーム・ハウス」と書かれている。とっさに久美子は、これが自分と達郎の家だとわかった。達郎がデザインしたこのログハウスはちょっと不思議な形をしており、ジョンのログハウスとも、久美子がこれまで本で見たどの国のログハウスとも違っていた。

 二世帯住宅のようなログハウスで、外観はハンドヒューンそのものだが、部屋の内装はリビングルームを除いて、白い塗壁構造になっている。こうして室内を明るくすることで、ログハウス特有の部屋の暗さをカバーしたのかもしれない。だが、ログハウスもどきでもなく、純粋なログハウス工法で、こんなログハウスが果たしてつくれるものなのか、久美子は首を傾げてしまった。

 久美子はダイニングの設計を見て、使い勝手が悪い部分に勝手に赤で書き込みをした。トイレにも本棚がほしかったので、書き加えておいた。キッチンではシンクの位置を変えてもらうことにした。自分の部屋と達郎の部屋の真ん中に二人の寝室があるのは問題ない。

 久美子は時間が経つのも忘れて、メモ用紙にアイデアを書き込んだ。そして、それら全部をセロテープでつないで、ボードに張り付けてしまったのだった。

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第33章 喜びと悲しみ

 バンクーバーの夏は日が長く、夜9時を過ぎても少し明るい。だが、ノースバンクーバーの山岳部は、いったん日が落ちてしまうと、気温が急激に下がり始める。久美子はオープンデッキの隅に積んである薪を数本持ってきて、リビングの薪ストーブにくべた。

 今日は達郎が帰ってくる日だ。空港には夕刻到着すると聞いていたのだが、まだ戻らない。キッチンには久美子自慢の日本料理が並んでいる。達郎の喜ぶ顔が見たくて、グランビル・アイランドのパブリック・マーケットで食材を仕入れ、半日かけて作ったのだ。時計が11時を打ち、待ちかねた久美子は一人で夕食をとった。達郎の携帯は電源が切られたままだ。久美子は深いため息をついた。

 浴室の窓から見える夜空には星が輝いていた。久美子は日本にいる夫や、同じカナダの地でホームステイしている娘のことを思った。おちついて考えれば、夫には何の不満もない。努力家で勤勉で、家族をこよなく愛し、達郎と一線を越えた時も、何も聞かずに許してくれた。娘の美樹も、素直でやさしい子に育っている。精神的にも経済的にも満たされ、申し分のない家庭だった。そして今、達郎のもとに押し掛けたことで、それを完全に壊してしまった。久美子は心の中で夫と娘に詫びた。

 一方の達郎は、テイラー邸で夫妻と談笑していた。空港からエコロジカル・ログカンパニーに直行し、社用を済ませた後、ブラジルの報告も兼ねてジョンを見舞ったのだ。あらかじめ連絡をしておいたこともあり、ジョンと美由紀は夕食を用意して迎えてくれた。達郎はジョンと邸内のサウナで汗を流した。プロジェクトの話に花が咲き、ジョンは達郎の仕事に満足そうだった。

 達郎がレンタカーで家に着いたときには、夜の12時を回っていた。外灯がついていたので、達郎は驚いた。カーテンの隙間から、リビングの灯りがもれている。達郎はオープンデッキの前に無造作に車を止め、スーツケースも下ろさずに、デッキに駆け上がった。玄関のインターホンを押そうとしたその時、ドアが開いた。

 「おかえりなさい!」

 パジャマ姿の久美子が笑顔で顔を出した。

 「お疲れ様。お腹すいたでしょ?夕食のしたくならできているわよ。あら?荷物は?」

 達郎はまたしても夢を見ているのかと思った。目を見開いたまま立ちつくす達郎に、久美子は笑顔で続けた。

 「今日の夕食は何だと思う?肉じゃがでしょ、ひじきの煮つけでしょ、それから…」

 久美子が最後まで話し終わらないうちに、達郎は久美子を抱きしめた。

 「どうしてここにいるんだよ…」

 達郎はひとり言のようにつぶやいた。

 「どうしてって…」

 達郎は久美子を抱きしめたまま中に入り、ドアに背を向けたまま鍵をかけた。

 「こんなに長くいて…大丈夫なのか?」

 達郎は久美子の両腕を掴み、心配そうに久美子の顔を覗き込んだ。

 「こんなに家を開けて、いくら何でも変に思うだろ?もう帰った方がいい」

 達郎の心遣いが、久美子は嬉しかった。

 「夫は…私がここにいることにきっと気づいているわ。娘は今オタワでホームステイをしているけど…。娘にも隠すつもりはないの。だから、もう少しここにいさせて」

 「あのご主人が君に手をあげることはないと思うけど、長くいればいるほど、君の立場は悪くなる。今ならまだ間に合うんじゃないのか?」

 久美子は首を横に振った。

 「だめなの。身体が…夫を受けつけないのよ」

 久美子は達郎の胸に顔を埋め、歪んだ表情で答えた。

 「夫婦生活ってそういうことでしょ。もちろんそれが全てじゃないけれど…。結婚しているんだもの。避けては通れないわ」

 男と女は違う。女は受け身だ。その言葉に達郎は胸が痛んだ。

 「あなたに、これ以上迷惑をかけられないことはわかってる。あなたがバングラデシュに発つまでには帰るわ。だからお願い。もう少しここにいさせて」

 久美子の瞳は潤んでいた。

 「俺は迷惑なんかじゃないけど、娘さんは…中学生だろ?そういう多感な時期に、こういうのはまずいんじゃないの?」

 「そうよ。だから、あなたと別れて日本に帰った。ジョンさんに責任を果たせと言われ、私もそうするべきだと思った。だから努力したわ。したけど…。母親でいることと妻でいることは別だわ。あなた以外の男性(ひと)に抱かれるなんて、今の私にはできない…」

 久美子の言葉はそれ以上続かなかった。しばらく沈黙が続いた。ストーブで燃える薪の音だけが、室内に響いていた。

 達郎は久美子を抱きあげ、寝室に向かった。寝室はすでに温められていて、日なたの匂いがした。ベッドメイクされた枕元に、達郎の下着とパジャマがたたんで置いてある。シーツはきれいに洗濯され、ふとんはほんのりふくらんでいる。久美子の心遣いに、達郎は胸が熱くなった。

 達郎はベッドの前で立ち止まり、久美子を抱いたまま口づけた。包み込むようなキスだった。達郎は久美子をゆっくりとベッドに倒した。二人が結ばれるのは二度目だ。暖炉の炎が、二つの影をカーテンに写し出す。その影はやがて一つになり、いつまでも揺れ続けた。

 翌朝、達郎と久美子はバスタブに浸かりながら、軽いキスを繰り返していた。すると、窓辺につがいの小鳥がやってきて、さえずりながらキスを始めた。その光景に二人で目を見合わせ、笑ってしまった。鳥たちは二人の視線に気づくと、一瞬目を見合わせ飛び去ってしまった。

 「家に帰ったのかしら」

 久美子は浴室の窓を大きく開き、森を見ながらつぶやいた。 

 「どうかな。もしかしたら旅に出たのかもしれないよ」

 「渡り鳥でもないのに?」

 「海を渡らない旅もあるさ」

 達郎は後ろから久美子を抱きしめ、窓から空を見上げた。

 「バングラに発つまで、仕事は休みなんだ。プロジェクトの切れ目に10日前後、休みをもらえることになっている。冬場なら家でじっとしているしかないけど、春や秋はハーレーでツーリングに行くんだ。実は今回もそのつもりで、だいぶ前に宿をとってある。一緒に行かないか?」

 「いいの?」

 「うん。本当はトムと行く予定だったんだけどね」

 「そんな…。それじゃ彼に悪いわ。何なら三人で行くとか」

 「トムとはいつでも行けるし、あいつもそんなヤボなことはしないよ。カップルと一緒に旅行しても楽しくないだろ。それとも君一人で留守番をしてるかい?」

 「そんなのいやよ」

 「だろ?トムには電話で断った」

 「ずい分手回しがいいのね。そういうとこ、あなたジョンさんに似てきたわ」

 「ははは。そりゃ嬉しいな。学生の頃、ログハウスと同じくらいハーレーに夢中で、働けるようになったら、絶対乗るんだって決めてた。山とか湖とか、俺が感動した場所へ、今度来るときは絶対すきな娘(こ)と来るんだって誓った場所へ、その娘を乗せて出かけようって決めたんだ。今、君とその夢を叶えたい」

 「好きな娘…。もう30代のおばさんよ。いいかしら?」

 「俺も30代のおじさんだよ。気持ちは10代で走ればいいさ。二人で国立公園に出かけよう」

 「裏のガレージにハーレーがなかったけど…」

 「売っちゃいないよ。外国に行っている間、俺のファットボーイは元の持ち主がしっかり管理してくれてる。そうと決まったら、今日の午後は街に買い物に出よう。バイクは風を切るから、夏でもけっこう寒いんだ。君もバイクルックでしっかり装備しないとね。ヘルメットは前のやつでいいよね?」

 「初めてあなたのハーレーに乗ったときの、あの赤いヘルメットね」

 「またあの悲鳴が聞けるかと思うと楽しみだよ」

 「まっ、人ごとだと思って」

 その晩はバンクーバー花火大会の最終日だった。毎年恒例のこの大会は、“シンフォニー・オブ・ファイヤー”と呼ばれ、音楽に合わせて花火が打ち上げられる。7月の最終週と、8月の最初の二週間、水曜日と土曜日の夜10時から合計4回催される。北国の夏は9時半くらいまで明るいため、10時にならないと花火が始められないのだ。

 夏の長い夜を楽しむために、イングリッシュ・ベイのビーチは何十万人もの観衆で賑わっていた。昨年もその前の年も、家族揃ってここで花火を楽しんだ。今、隣には達郎がいる。肩を抱かれながら、その胸で打ち上げられる花火に酔いしれている。

 花火はやがて、カナダ、アメリカ、中国三か国の競演となり、大会はグランドフィナーレをむかえた。失いつつある家族へのせつなさと、愛する男の腕の中にいる幸せとが胸の中でせめぎ合い、久美子の心を苛んだ。炸裂する花火に照らされたその頬に、一筋の涙が伝った。

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