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2009年2月

第34章 ビーバー街道

 久美子を乗せた達郎のハーレーは SEA TO SKY HIGHWAY (ハイウェイ99号線)に入り、西に向かって進んでいた。今回達郎が選んだのは、バンクーバーからエルクアイランド国立公園を結ぶ約1,200kmのドライブルートだ。街道周辺の湖にビーバーが多く生息することから、『ビーバー街道』とも呼ばれる。

 ビーバー街道はシーニックゾーン(バンクーバー~ウィスラー120km)、アクティビティ・ゾーン(ウィスラー~リルエット135km)、ゴールドラッシュゾーン(リルエット~カムループス166km)、フレッシュ・ウォーター・ゾーン(カムループス~ブルーリバー223km)、カナディアン・ロッキー・ゾーン(ブルー・リバー~アイランド584km)の5つに分けられ、まずはカリバルディ州立公園の麓に広がるスキー・リゾート、ウィスラーを目指す。

 ホースシュー・ベイを抜け、海岸線ぎりぎりの狭い道路を北上すると、緑の小島が見えてきた。ここハウ海峡は切り立った崖が海岸線まで迫り、バンクーバー~ウィスラー間を3時間で結ぶ『ウィスラー・マウンテニア号』の線路が顔を出す美しい景観はバンクーバーから遠ざかるほどに増していき、景色を映し出す青い湖や、崖から落ちる一筋の滝に目を奪われる。

 久美子は達郎の背にもたれながら、ハーレーを体感していた。ドドド、ドドドというエンジン音もさることながら、カーブを曲がるときの地を這うような感覚、後ろに乗っているのに、まるで自分が運転しているような錯覚。久美子はハーレーが好きになった。

 ノースバンクーバーから約60km北上し、一時間ほどで最初の町、スコーミッシュに着いた。スコーミッシュはカナダの西海岸にある小さな田舎町で、北米有数のロッククライミングの聖地でもある。335メートルの落差(ブリティッシュ・コロンビア州で3番目の高さ)を誇るシャノンフォールズや、世界で2番目の大きさを誇る花崗岩の一枚岩、スタワマス・チーフが有名だ。

 クライミング・フェスティバルやカイトボードの大会のポスターが、町のあちこちに貼られていた。クライマーや、ハイキング、ラフティングを楽しみにきた家族連れが目につく。公園でくつろぐ地元の人々からはのんびりとした雰囲気が漂う。

 達郎と久美子はこの夏オープンしたばかりのスコーミッシュ・リリワット・カルチュワルセンターで昼食をとることにした。先住民のロングハウスをイメージした3階建ての施設で、施設内のカフェでは、サーモンチャウダーやシカ肉、カリブージャーキーなど、先住民の食事が楽しめるようになっている。

 二人はヘルメットを脇にかかえたまま、窓際の席に腰をおろした。ほどなくしてやってきたウエイトレスにランチメニューを注文し、飲み物を先に持ってきてくれるよう頼んだ。

 まずは二人揃ってコーラで乾杯した。

 「お疲れ様でした。運転替ってあげられなくてごめんなさい」

 「なんの。これくらいどうってことないよ。それより、君の方こそ長時間乗ってみてどうだい?無理なようなら、この先はキャンセルするけど」

 「大丈夫よ。それどころか、私もハーレーほしくなっちゃった」

 「ええっ?」

 「それにはまず、大型免許ね」

 「マジで言ってるの?」

 「もちろんよ。でも足がつかなかったり、転んだときに起こせなかったりしたらだめよね。メンテナンスのこともあるし…。そこを何とかクリアして、乗っている女性だっているわよね?ハーレーって男性だけの乗り物じゃないんでしょ?」

 「もちろん。女性のライダーだっていっぱいいるよ。でも、君の場合は身長がないから、乗れるハーレーは限られると思うよ。シートが一番低いダイナ・ローライダーあたりかな」

 「ダイナって?」

 「ハーレーにもいろいろあるんだよ。知りたい?」

 「知りたい。そういえば、ジョンさんのハーレーコレクションは凄かったわ。それまで乗り物に見とれたことなんてなかったけど、ピカピカに磨き上げられた沢山のハーレーを見て、ハーレーってこんなにも美しい乗り物なのかって思った。ちなみに何種類くらいあるの?」

 「日本車は排気量別で揃えられているけど、ハーレーダビッドソンのラインナップはファミリーという言い方で、車種をベースに5つに分けられている。ソフティル、ダイナ、スポーツスター、ツーリング、VRSCという具合にね。今俺が乗っているファットボーイはソフティルの人気ハーレーで、一見大きくて扱いにくそうだけど、走ってみると意外に安定感があって乗りやすい。感じが日本のバイクに近いからかな。ただ、長距離になるとちょっと手足がしんどい。ダイナの特徴は、アイドリングだけでエンジンが揺れるところだ。中でもFXDは車体まで揺れちゃう唯一のハーレーさ。低速トルクがついているから出だしがいい。スポーツスターは振動が少なくて、一定速度になると排気音も静かになるから、ハーレーって感じがしないかも。手足が短い日本人にはハンドルが遠くて、足付きが悪い。乗るなら金をかけてカスタムするしかない。ツーリングファミリーはその名の通り、長距離を走るためのハーレーだ。アメリカの道路は広くて、直線が多いだろ?ツーリングファミリーのエレクトラグライドは、そういう大陸を走る機能が全部揃っていて、基本的なスタイルもそのままなんだ。ハーレーダビッドソンの、言わば顔さ。親方のガレージにあった白の一番でかいヤツがそうだよ。モデルにもよるけど、音楽だって聴けちゃうんだ。VRSCはドラッグレース(400メートルの直線を速さで競うレース)の競技車両がモチーフになっているから、スタイルが低くて長い。とにかくシャレていて、世界中のどんなバイクと比べてみても、フォルムが独特なんだ。水冷エンジン搭載ファミリーとも言われてて、ポルシェと共同でエンジン開発をしたんだ。マレーシアやシンガポールとか、熱い国にはもってこいのハーレーさ」

 ログハウス以外のことで、こんなにも熱く語る達郎を久美子は初めて見た。

 「何かよくわからないけど、あなたのハーレー好きが半端じゃないことはよくわかったわ。ジョンさんの影響だと言っていたけど、それだけじゃないってことも。今度あなたとアメリカ大陸を走るときは、私も自分のハーレーに乗って走りたいわ」

 「ははは。そりゃあいい。せいぜい楽しみにしてるよ」

 「その言い方、本気にしてないのね。いいわ。いずれびっくりさせてあげるから」

 料理が運ばれてきて、二人揃ってあっという間にたいらげた。

 宿泊地のウィスラーまでは、ここからさらに60km走らなければならない。道路はチーマス川に沿ってしだいに標高を上げていく。途中、達郎はハーレーを止め、荷物の中からマフラーを出して、久美子の首に巻きつけた。氷河に削られた美しい入り江に沿ってハイウェイをひた走ると、雪をかぶったコースト山脈が見え始めた。

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第35章 母と子

 二人はウィスラービレッジにあるクリスタル・ロッジ・ホテルに着いた。メインストリートに面したこのホテルは、ウィスラー山とブラッコム山のスキーリフトまで歩いていける距離にあり、『スターバックスコーヒー』や『オールドスパゲティファクトリー』など22軒の店が館内に併設されている。冬はスキーでの出入りも可能だ。達郎と久美子は街を散策することもなく、ホテルでのんびりと過ごした。

 一夜明け、ホテルを早朝にチェック・アウトし、カムループスに向けて出発した。途中、ウィスラー近郊のジョフリー・レイクまで足を延ばす。この湖に行くには、ウィスラーからハイウェイ99号線を北上し、ペンバートンの農村地帯を抜け、急勾配のハイウェイを進んでいく。氷河から溶け出たエメラルドグリーンの湖水とその向こうに広がる森は、レイクルイーズに引けをとらないほど美しい。二人はここで数枚、写真を撮った。

 ウィスラー渓谷に点在する5つの湖をあとに、アップダウンの多い山道を川と交差しながらひた走る。ペンバートンを過ぎると、19世紀後半にゴールドラッシュで栄えた町、リルエットに着く。この辺りの国道97号線はゴールドラッシュ・レイルと呼ばれ、99号線と97号線の合流地点にあるハットクリーク・ランチは、当時の牧場や開拓者が住んでいた住居などをそのままに残している。途中、道路は97号線からトランス・カナダ・ハイウェイ(国道1号線)になり、キャッシュ・クリークに近づくにつれ、風景は半砂漠の原野に一変する。

 トランス・カナダ・ハイウェイの366番出口を下り、カムループスに入った。ここで昼食と給油を済ませ、およそ4時間半かけてイエロー・ヘッド・ハイウェイ(国道5号線)を北上する。風景は乾燥した大地から白樺が群生する森林地帯に変わり、リトルフォート、アヴォーラを経て、クリアウォーターに入った。クリアウォーターには迫力のある滝がいくつもあり、水の公園として有名なウェルズ・グレイ州立公園がある。だが、そこには寄らず、ひたすらスキナー山脈の奥地ブルーリバーを目指す。

 ブルーリバーの国道沿いには、何棟ものログハウス(ホテル)が建っていた。この木立の中に建つログハウスのほとんどは、エコロジカル・ログ・カンパニーが手掛けたものだ。すぐ近くには雪山がそびえ、この辺りの標高は800m。ヘリコプタースキーの基地として、売り出し中のリゾートでもある。

 達郎と久美子はエコロジカル・ログ・カンパニーの保養所にもなっているシャレータイプのホテル、エコロジカル・ヘリコプター・スキーイングにやってきた。二人は湖の近くに建つログハウス4棟のうちの1棟に泊まることにした。

 「さすがに少し疲れたな」

 「今日は朝からずっと走りっぱなしだったものね」

 「その分、明日はジャスパーまで3時間走って終わりにするよ。午後は休みがてら、のんびりしよう」

 「私、カナダにいた間、観光らしい観光ってしたことないの。夫は休日も仕事で飛び回っていたから。支社がようやく軌道に乗って、やっと旅行でもしようかという矢先に転勤になってしまって…。カナダには素晴らしい自然が沢山あるのに、三年もいたのに知らなかったなんてもったいないわ。ここにくるまでにも感動した場所は沢山あった。あの子にも見せてあげたいわ」

 達郎と二人でいても、久美子が美樹を思わない日はなかった。達郎は久美子のその言葉に、立ち入ることのできない境界を感じた。子供というものは、こんなにも絶対的なものなのかと思った。

 「血にはどんなにしたって抗えないってことかな」

 達郎のその言葉に、久美子ははっとした。何気なく口にした言葉は、傍らにいる恋人=達郎を否定したものだ。久美子はまずいことを言ってしまったと思った。

 「そりゃそうだな。夫婦は他人だけど、親子は違う。娘さんの身体には君の血が半分流れてる。子供っていうのは、親にしてみれば自分の分身みたいなものなのかな。君は…夫は捨てられても、子供は捨てられないだろう」

 達郎は静かに言い切った。

 「そんなこと…。今の私はこうしてあなたといるのよ。あなたを選ぶと決めたから…」

 「君は捨てられない。捨てたらきっと後悔する。そういう女性(ひと)だ。すべてを捨て去るには、君は優しすぎる」

 「私が結局はもとの場所に戻ると言いたいの?」

 「うん」

 「ひどいわ。まるで信じてくれてないのね」

 「責めているんじゃないよ。戻ったら戻ったで、今度は俺に対する罪の意識でずっと苦しむだろ?君はそういう損な性格だと言ったんだよ。俺はそういう君だから魅かれたのかもしれない。君がどんどん離婚して平気でいられるようなタイプだったら、恐らく好きにならなかったと思うよ。せつないけどね」

 「せつないなんて…。あなたが弱みを見せてくれたのって初めてね」

 「もう言わないよ」

 「私が困るから?」

 達郎はその言葉には答えず、そっと久美子を抱き寄せた。

 翌日も早朝にホテルを出発した。カムループスから国道5号線を北上していくと、風景は針葉樹林地帯に変わり、ロッキーの険しい山並みに変わった。フレーザー川沿いの国道16号線に入ると、川では遡上してきた大量のキングサーモンが産卵の時期を迎えていた。 

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第36章 情熱

 イエロー・ヘッド峠を越えると、世界遺産カナディアン・ロッキーが始まった。前方に突然現れたのは、ロッキーの最高峰マウント・ロブソンだ。一直線の道路が、まるでロブソンに続いているかのように伸びている。二人はハーレーを止め、その威容にしばし見入った。

 やがてブリテッシュ・コロンビア州とアルバータ州の州境、イエローヘッド・パスにさしかかった。「Time zone, move watch ahead one hour. (1時間時計を進めてください)」と書かれた看板が目に飛び込んでくる。ここは太平洋標準時と山岳標準時を分ける境になっており、ジャスパーのあるアルバータ州では時間が一時間進む。カナダでは州によって時差があるのだ。

 州境を越えると、ロッキー国立公園の玄関口であるジャスパー国立公園の入口ゲートが見えてきた。ここで滞在日数の公園使用料を払う。

 宿泊先であるジャスパー・ハウス・バンガローは、ジャスパー郊外のアサバスガ・リバーの川岸にあった。森に囲まれたこのホテルはログキャビンの宿で、野生動物が敷地内に遊びに来ることで知られている。到着した頃には6時を回っており、二人はレストランで早々に食事を済ませ、ホテル内のサウナで汗を流した。

 久美子が部屋に戻ると、ひと足早く戻った達郎がベッドの上で地図を広げていた。

 「早かったのね。難しい顔して悩んでいるのは明日のルート?」

 久美子はそう言って、横になっている達郎の脇に腰をおろした。

 「うん。当初はビーバー街道を走破しようと思っていたけど、ここからエドモントンまでは5時間も走らなきゃならないし、そのわりには見る所がないんだよね。終点のエルク・アイランドはさらにその先だし…」

 「でも、この先もホテルは予約してあるんでしょ?」

 「いや。実はトムの友人がエドモントンにいてね。今回のツーリングをビーバー街道にしたのは、その関係もあったんだ。エドモントンで解散して、トムはその友達のところに行って、俺は一人でエルク・アイランドまで走るつもりだった。バンクーバーには飛行機で帰ればいいかなってね」

 「飛行機?ハーレーはどうするの?」

 「航空輸送するのさ。金はかかるけどね」

 「ハーレーを飛行機で送るなんて考えたこともなかったわ。でも、そうよね。じゃなきゃ、ディーラーは外国車なんて仕入れられるわけないものね」

 「別に商売でなくても、自分の愛車で世界を旅する連中はそうしているよ。大陸から大陸へ移るときは船か飛行機しかないし、船は安いけど時間がかかるからね」

 「私、帰りもハーレーかと思っていたわ」

 「もううんざりしてきたんじゃないの?ツーリングなんて初めてだろ?」

 「うんざりどころか、車でドライブするより楽しいわ。もし、あなたが大変でなかったら、バンクーバーにはハーレーで戻りたいわ。日程的にきついかしら」

 「君がこれまでのペースできつくなければ、できなくはないよ。ここからアイスフィールド・パークウェイ(氷河ハイウェイ)でレイク・ルイーズまで行って、そこから  トランス・カナダ・ハイウェイでカムループスまで戻る。途中、サーモン・アームで一泊しなきゃならないけど。カムループスからバンクーバーまでは5時間だ」

 「レイク・ルイーズ!旅行社のポスターで見かけて、一度行ってみたいと思っていたの。ここからどれくらい?」

 「2時間くらいさ」

 「そんなに近いの?」

 「うん。レイク・ルイーズまでの230kmはカナディアン・ロッキーきっての景勝ロードでね。途中、ジャスパーの町の周辺には、氷河の水でできている湖が40個もあって、絵はがきにも使われるマリーン湖はそのひとつだ。コロンビア大氷原から流れ出しているアサバスカ氷河や、山岳写真家の間で世界一と言われているモレーン湖もレイク・ルイーズから20分で着く。その先のバンフにだって30分あれば充分だ。バンフにはロッキーの温泉が湧き出ているよ」

 「温泉ですって?私、温泉大好き!」

 「かなり興奮してきたね。じゃ、そのコースで行くかい?」

 「いいの?」

 「そんなに嬉しそうな顔されたんじゃ、連れてかないわけにはいかないだろ。ちなみに、温泉も入るかい?」

 「ほんと?」

 「ただし、だ。日本と違って裸では入れないよ。貸切露天風呂なんていうのもない。つまり混浴で、野外プール型なんだ。中には川沿いにあるのや、公園内にあったりするけど、全部水着で入るんだ」

 「じゃあ、どこかで水着を買わなきゃいけないわね」

 「そうと決まったらホテル捜しだ。この時期ですんなりとれるかが問題だな」

 「前日と前々日ですものね。普通に考えたらまず無理よね」

 「何事もやってみなけりゃわからないもんだよ」

 達郎は荷物の中からホテルリストを出し、いくつかのホテルに電話を入れた。予想通りどこのホテルも満室で、キャンセル待ちになってしまった。

 「ホテルがとれなかったら野宿するの?」

 久美子は心配そうな顔できいた。

 「それならそれで野生動物と触れ合えていいんじゃない?クマが枕元に立っていたら迫力があるだろうし、せっかくビーバー街道を走ってきたんだ。ビーバーは夜に活動するから間違いなく会えるさ」

 達郎は冗談で言ったのだが、久美子は本気にして黙り込んでしまった。達郎はそんな久美子がおかしかった。

 達郎の携帯が鳴った。レイク・ルイーズにあるホテルからだった。

 「部屋が用意できたって。これで明日は野宿しないで済んだな」

 「ほんとね。野生動物も怖いけど、夜は冷えるだろうし…。これで寝袋も買わなくて済んだわ。何てホテル?」

 「ルイーズ湖畔にある『ディア・ロッジ』っていうホテルだ。『シャトー・レイク・ルイーズ』のように目の前が湖とまでは行かないけど、歩いて5分だそうだから、朝の散歩にちょうどいい」

 「でも、電話して10分もしないうちにキャンセルが出るなんて、私たち、ついてるのね」

 「ははは。どこのホテルもいざというときのために数室は確保してあるんだよ」

 「そうなの?じゃ、さっきの野宿の話は、私をからかっていたわけ?」

 「はい」

 「まっ、ひどい」

 久美子はそう言って手を振り上げ、達郎を叩くそぶりをした。

 「ははは。ごめん、ごめん。それはそうと、あさってはどうする?レイク・ルイーズに二泊してバンフに行って戻るか、それともバンフに泊まるかい?今すぐ返事ができるなら、さっきのホテルに連泊できる」

 「あなたはどうしたいの?」

 「バンフにある『フェアモント・スプリングス』に“カクテルの先生”がいてね。行けるようなら、ちょっと顔を出したいんだ。でも、酒を飲んで運転するわけにはいかないから、行くならそこに泊まることになる」

 「“カクテルの先生”?」

 「うん。君と会ったばかりの頃、俺バンクーバーの『フェアモント・ホテル』のバーで働いていただろ?美由紀さんの紹介とはいえ、ちゃんとした仕事ができなかったら即クビだからね。で、初出勤まで一か月あったから、修業に出たのさ」

 「『フェアモント・スプリングス』に?」

 「まさか。同じ系列に修業で雇ってもらえるわけないだろ」

 「じゃ、どうして『フェアモント・スプリングス』なの?」

 「修業先はバンクーバーにある『フライデーズ』だ。そのとき雇ってくれたのが、そこで店長をしていたその“先生”さ。彼はその後、『フェアモント・スプリングス』に引き抜かれて、今に至っている」

 「『フライデーズ』っていうとカジュアルレストランのチェーン店ね」

 「世界56か国に900店舗をもつレストラン&アメリカンバーさ。トム・クルーズは映画『カクテル』に出るとき、『フライデーズ』でバーデンダーの技術を学んだ。その記事をどこかで読んだのを思い出して、真似したのさ。でも、見たことも知り合いでもない東洋人が『今日から一か月だけ働かせてくれ』って言ったところで雇ってくれるわけがない。ついでに求人募集もしてなかったんで、“その一か月間はタダ働きでいいから”と条件を出したんだ。但し、閉店後に店の道具で練習させてもらう約束でね。そしたら雇ってくれた。昼間はレストランで皿洗い、夜はバーで下働き。シェーカーを扱うのは初めてじゃなかったから、目で見て覚えた。閉店したあと、寝る時間を削って練習したよ。そしたら何日後かな、覗きにきてね。いつのまにかつきあってくれるようになった。最後の二週間はつきっきりで教えてくれたし、実際に客に出すカクテルも作らせてくれた。タダだという約束だったのに、最終日にバイト代を用意してくれていて、渡してくれた。俺が『フェアモント・ホテル』で一年間働けたのも、彼が仕込んでくれたおかげだ」

 「『フライデーズ』って、バーとしてそんなに格式が高いの?」

 「パフォーマンスを交えてカクテルを作るフレアバーテンディングの場合はね。『フライデーズ』では毎年、世界各国の『フライデーズ』で働くバーテンダーが参加する世界大会をやるんだ。いろんな国からいろんなバーテンダーが参加する。プロのバーテンダーで『フライデーズ』を知らない奴はいないよ。バンクーバーのフェアモントのバーテンダーにはフレアバーテンディングをやる奴はいなかったから、そういう意味でも自分を売り込めると思って、修業先を『フライデーズ』に決めたのさ。美由紀さんに恥をかかせるわけにはいかないからね」

 「あなたって人は…。それもすべてログビルダーになるためにやったことなのよね。その情熱はどこからくるのかしら」

 「自分のことを情熱家だなんて思ったことないよ」

 「出会ったばかりの頃、あなたを見ていて思ったものよ。“この人は恋をするときも、こんなふうに相手に情熱を傾きつくすのかしら”って。そんなふうに愛されるあなたの恋人が羨ましかった。そして、いつのまにかそんなふうに愛してもらいたいと思うようになった。気がついたときにはもう…愛してた」

 「君だって熱いだろ?」

 「私にはあなたみたいな情熱はないわ。冷めているもの」

 「冷めている人間が、カナダくんだりまで追いかけてきてくれるかい?君は自分の熱さに気づいていないだけだ。人生で熱くなる時は何度か巡ってくるけど、その時気づかないフリをして抑えこむか、それまでの人生を変えようと思うか、どっちかだ。変えたいと強く望めば、必ず変わる」

 「だといいけれど…」

 「うん」

 「『フェアモント・スプリングス』っていったら、世界的に有名なホテルよね。こんなに急で、とれるかしら?」

 「スイートなら全室埋まりはしないだろ?それに、いざとなったら“先生”に口をきいてもらうさ」

 そう言って達郎はフェアモント・スプリングス・ホテルに電話を入れた。運よくジュニア・スイートに空きがあり、明後日はバンフで一泊することが決まった。

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