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2009年3月

第37章 大自然に抱かれて

 ジャスパーからレイク・ルイーズまでを結ぶアイスフィールド・パークウェイ(93号線)は、世界屈指のドライブ・ルートとして知られている。全長約230kmの道沿いには3000m級のロッキーの山々が連なり、多くの氷河や美しい湖が点在する。

 アイスフィールド・パークウェイのハイライトと言われるコロンビア大氷原は、総面積325kmに及ぶ巨大な氷原で、ジャスパーから1時間30分ほどで着く。パークウェイから見えるのはこの大氷原から流れ出す8つの氷河の一つ、全長6kmになるアサバスカ氷河だ。毎年25mという速度で、大地を削りながらゆっくりと移動している。パークウェイ沿いにあるアイスフィールド・センター展望台からは、コロンビア大氷原と流れ出る氷河が見渡せる。

 達郎と久美子は氷河湖の横の駐車場にハーレーを停め、氷河まで歩くことにした。手をつないでモレーン(推積物)の瓦礫道を歩く。やがて『1982年はここまで氷河があった』という標識が見え、次に1992年の標識があり、坂を下っていくと氷河の一端が見えてくる。

 天気は快晴で、氷河の反射から目を守るため、二人はあわててサングラスをかけた。氷河の前に立つと、上部から冷たい風が吹き降りてくる。久美子は思わず腕組みをし、背中を丸めた。そんな久美子を達郎が包み込むように抱き寄せ、二人は寄り添って氷河の上を進んだ。

 「危険」と書かれた表示の前で立ち止まると、後ろからやってきたハイカーのカップルに声をかけられた。カメラのシャッターを押してくれと言うことだった。快くOKしたら、向こうも同じようにシャッターを押してくれた。達郎と久美子はその場で引き返したが、カップルは「危険」表示をもろともせず、その先に歩いて行ってしまった。

 コロンビア大氷原をあとに、二人のハーレーはジャスパー国立公園からバンフ国立公園を経て、ヨーホー国立公園に入った。パークウェイから見えるボウ・レイクは、氷河の雪解け水が、モレーンでせき止められてできた湖だ。だがそこには寄らず、そのままレイク・ルイーズを目指した。途中、道路脇をビッグホーン・シープ(オオツノヒツジ)が歩いているのを見かけた。達郎が急ブレーキをかけ、いきなりハーレーを止めたのは、それから数分後のことだった。

 「どうしたの?」

 久美子が驚いて達郎に尋ねると、達郎は道路の先を指さした。見ると、二匹のシーンホーン・シープが道路を横断しようとしていた。

 「かわいい!ハーレーを降りてちょっと行ってきていい?」

 「えっ?だ、だめだよ!」

 「どうして?」

 「どうしてって…。うちで飼う犬や猫とは違うんだよ。相手は野生なんだ」

 「もう少し近くで見てみたいの。カメラのズームを使っても、ちょっと厳しいのよ」

 「だめだ。車の中からならまだしも、直接近づくのは危ない。言っておくけど、明日行くバンフでは、ビッグホーン・シープやシーンホーン・シープが町の周辺をウロウロしている。当然、近くに来ることもある。でも、だからって喜んで触ったり、むやみにカメラをかまえたりしちゃいけないんだ。写真を撮られることは、野生動物にとってストレスになるからね」

 「厳しいのね…」

 「確か鹿みたいな大型動物は30m、クマは100m以上離れることになってたはずだ」

 「わかったわ。ここでおとなしく見ていることにするわ」

 「それがいい。カナダの森林にはたくさんの動物がいる。彼らが道路や町の周辺を闊歩しているのは、人間との間にそういう暗黙のルールがあるからさ。さっき道路からボウ湖が見えたろ?あの辺りは、走っているとしょっちゅうグリズリーに遭う。それでも、驚かせないように運転すれば何の問題もない」

 「問題ないって…。だって、グリズリーってクマでしょ?」

 「グリズリーはロッキーの看板動物だ。避けては通れないよ。それにグリズリーに限らず、これからあちこちでブラックベアにも遭遇するから、そのつもりでいてよ」

 「えーっ!遭遇したときはどうするのよ」

 「近づかなきゃいいのさ。遠くで目が合うくらいじゃ寄ってこないよ」

 「間近で遭遇しちゃったらどうするの?」

 「どうにもならない。助かる見込みはないな」

 「そんな簡単な言い方して…。あなたはクマが怖くないの?」

 「クマが怖いようじゃ、カナダの山奥でログハウスなんて建てちゃいられないよ」

 「そりゃそうだけど…」

 「あとはたくさんの鹿に会えるよ。エルクやムース、ミュールジカやオジロジカとか。他にはコヨーテ、オオカミとかね」

 「クマとコヨーテとオオカミには会いたくないわ」

 「もとは動物だけの世界に人間が参入したんだ。そういうワガママは通らない。会ったら遠くから心で触れ合えばいいんだ。それから、餌をやってもいけないよ。国立公園内の動物に餌を与えることは禁止されているからね。人なつこいリスや小鳥でもだめだ」

 「徹底しているのね」

 「動物には動物の世界がある。自然に干渉しないで、静かに互いを見守るのが共存の道なのさ」

 シーンホーン・シープが道路を渡り終え、森の中に消えたのを見計らって、達郎は再びハーレーを走らせた。

 レイク・ルイーズ・ビレッジを過ぎ、15分ほどでモレーン湖畔にあるレイクロッジホテルに着いた。ここにある『ザ・ウォルター・ウィルコックス・ダイニング・ルーム』は、バンフ国立公園にある最高のグルメレストランの一つだ。二人はここで昼食を済ませた。

 駐車場から少し歩くと、湖に向かって左側に小さな岩場がある。ここに立って見るモレーン湖は、展望台のそれに勝るとも劣らぬほどに美しかった。

 湖を囲むテン・ピークス(10の頂を持つ山々)がコバルトブルーの湖面に映し出され、白い氷河と緑の森のコントラストがさらにその美しさを際立たせている。カナダの旧20ドル札にも採用されたことも頷ける。

 夕方まではまだたっぷりと時間があるので、達郎と久美子はカヌーで湖に漕ぎだすことにした。

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第38章 富豪の妻

 その日の宿であるディア・ロッジは、木造でできた山小屋風のとても古いホテルだった。庭にはたくさんの花が咲いていて、部屋にはテレビも電話もなく、自然を心から満喫したい人のホテルのようだった。リビングには大きな暖炉と鹿の剥製があり、小さいながらも趣のある空間を醸し出していた。

 達郎と久美子は夕食前の空き時間を利用して、ホテルの屋上ジャグジー(ホットスパ)に行くことにした。夕暮れ時のジャグジーには誰もおらず、赤く染まるロッキーを眺めながらの入浴は、この上なく贅沢なものだった。水着でこそあったものの、二人は貸切露天風呂気分を存分に味わった。

 ホテル内にあるレストランは、Wine Spectator Awards(アメリカの『ワイン・スペクテイター誌』がワインの充実したレストランに贈る賞)に選ばれたこともあるレストランで、宿泊客以外の人も訪れていた。その晩はそこで肉料理に舌鼓を打ち、食事を終えた二人は、木のぬくもりを感じさせるリビングでくつろいでいた。バンフでの予定を練っていると、達郎の携帯が鳴った。

 「ハロー。えっ、美由紀さん?」

 とっさに達郎と久美子の目が合った。

 「ええっ!親方が?」

 達郎の顔色が変わった。

 「は、はい…わかりました。となると、レイク・ルイーズには空港はありませんから、カルガリーまで行って、そこから飛行機で戻る格好になりますね。明日ですか?バンフに泊まることになってます。はい、はい…午後でしたら、何とか。えっ、それは…それについては後でかけなおしてもいいですか?今はちょっと…。はい…わかりました。じゃ」

 達郎は眉間にしわを寄せながら電話を切った。

 「何かあったの?」

 「親方が倒れた」

 「ええっ!」

 「バングラディシュに行けなくなったから、親方の代行もやってくれって…。旅行を切り上げて、早急に会社に行くように言われた。その前に邸宅に顔を出せとも…。きいていたと思うけど、ここもバンフも国立公園だから空港はないんだ。明日は予定通りバンフに泊まるけど、バンクーバーにはハーレーじゃなく、飛行機で戻ることになったよ。朝早くチェック・アウトして、カルガリーまでハーレーを飛ばして、そこから飛行機で帰る。飛行機なら、バンクーバーに一時間半で着く」

 「ジョンさんの病気っていったい何なの?」

 「それは俺も教えてもらってないんだ。何でも持病があるとか」

 「そう…」

 「心配かい?」

 久美子は黙って頷いた。

 「わかったよ。バンクーバーに着いたら、その足で会いに行こう。でも、いろいろ言われるかもしれないよ。それでもいいかい?」

 「私はかまわないけど、あなたの立場が…」

 「うそはいずれバレるもんさ。だったら今、正直に話して謝った方がいい」

 達郎はそう言いながら、携帯からテイラー邸に電話を入れた。

 「美由紀さん、さっきの話ですが…。エア・カナダで戻りますから、自家用機はまわしてくれなくていいです。俺、実は…久美子さんと一緒なんです」

 達郎は電話を持って沈黙していた。美由紀が驚いているのがわかった。

 「えっ?いや、それは…。はい…わかりました。ありがとうございます。じゃあ、よろしくお願いします。失礼します」

 達郎はそう言って携帯を切ると、深いため息をついた。

 「美由紀さん…何て?」

 「うん。自家用機を差し向けるから、二人でそれに乗って帰ってこいってさ」

 「ええっ?」

 「君に会えるのを楽しみにまっているって言っていたよ」

 「そう…。で、ジョンさんの具合はどうなの?入院しているの?」

 「いや、自宅にいるよ。今はおちついているって。親方には主治医が何人かいて、専門のドクターチームをもっているんだ。邸内には大抵の設備も整えてあるから、手術以外であれば問題はない」

 「まるで日本の天皇家かどこかの王室みたいね。自家用機に初めて乗せてもらったときも驚いたけど、本当にこちらの富豪って、日本とは比較にならないわね」

 「うん。親方はログビルダーとして一流なだけじゃなく、経営者として、複数の会社を持つビジネスオーナーとしても一流なんだ。だから医者に限らず、他にもいろいろなチームをもっている。資産を守るために雇っている弁護士や税理士、会計士も一人じゃなくて、チームになっているんだ」

 「それだけ管理する資産が多いということでもあるわね」

 「だろうね。証券や株式を世界のあちこちに分散して持っていて、金はほとんどスイスの銀行に預けてあるって言ってたよ。あとは…そうだな、邸内にNY株式市場みたいなトレーダールームがあって、何台かのパソコンには常にグラフが出ていて、当然、ここにも投資専用のチームがある。親方の邸宅には、そんなふうにログ関係以外の人間もよく出入りする。親方はログビルダーになる前は、ニューヨークの証券会社でトレーダーをしていたから、投資チームなんていらないと思うんだけど、それは素人の考えかな」

 「ジョンさんってもとはサラリーマンだったの?ひょっとしてアメリカ人?」

 「そうだよ。ウォール街で筋金入りのビジネスマンで通っていたらしい。優秀で有名だったらしいよ。35歳であっさり足を洗って、カナダにきてビルダー業に転身したんだ」

 「知らなかったわ。何かすごいドラマがありそうね。でも、そんなにいろいろなことをしていて、休む時間なんてあるのかしら」

 「あれだけ手広くやってりゃ、健康に支障も出るだろ。もう年なんだからほどほどにしないとな。でも、本人にそう言うと怒るんだよね。働かなくても一生食っていけるだけの蓄えもあるし、定期的に口座にバンバン入ってくるんだから、隠居すればいいのにと思うけど、親方にとって仕事は、自分にとっての楽しいことなんだよね。それを取り上げてしまったら、やりたいことをやれないストレスで今よりももっと体調を崩してしまう。健康管理をする美由紀さんとしては頭が痛いのさ」

 「確かに、そういう人の奥さんは大変かもしれないわね」

 「そういう男は常に忙しい。今でも十分忙しいのに、“まだ他に何かないか、きっとあるはずだ”って、いつもワクワクして夢を捜してる。だから家にもあまりいない。そういう男の奥さんは自立してる人じゃないと務まらない。孤独に強い人でないとね。奥さん自身もやりたい世界を持っていて、だんなが不在でも平気で人生を楽しめるような、一人を楽しんじゃうような人じゃないと。たまに会えること=新鮮っていう夫婦像を描けなければ、うまくはいかないだろう。親方の前の奥さんは“一緒にいて。毎日かえってきて”っていう人だったらしいから、親方がビルダー業に転身した頃からうまくいかなくなったって言ってた。あげくにはそのストレスでガンになって死んじゃったって。自分が殺したようなもんだって、親方は自分を責めてた。そういう懺悔の念がまだ心の奥深くに遺っているから病気が完治しないんだって、美由紀さんは嘆いてた。前の奥さんのことも、それだけ深く愛していたんだろうね」

 「そういう男性はとても魅力的よね。愛してしまった側は、苦しいかもしれないけれど…。そういう人を選んだら、高級ブランドのプレゼントで済まされるのではなく、その人の“時間”をもらえる女にならなきゃいけないわね。そういう男性にとって一番貴重なものは“時間”ですもの。お金はすでにたっぷり持っているわけだから。私も自立して、その貴重な時間をもらえる女を目指したいわ」

 「どうしてだい?」

 「あなたがそういう男性だからよ」

 「俺?俺は一介のログビルダーだよ。親方のように膨大な富を築いているわけでも、ビジネスオーナーなわけでもない。そんなふうになろうとも思っていない」

 「あなたはジョンさんに似ているわ。ジョンさんほど多くに手を広げるタイプではないと思うけど、ログや自然に関することでビジネスを展開することはアリなんじゃないかしら。あなたにそのつもりがなくても、より多くの人があなたを必要としたときに、あなたはその位置に導かれ、就かされる…。漠然とだけど、そんな気がするの」

 その日の晩、久美子は達郎に抱かれながら、幸せだったこの数日間を回想していた。

 明日のバンフで今回の旅は打ち止めとなった。ハーレーで旅に出てから、達郎は毎夜久美子を求め、久美子もそれに応じた。抱かれて絶頂に登りつめるたび、“もうこの人から離れられない”と思う。だが、数日後には自分は日本に帰り、達郎はバングラディシュで仕事がまっている。その後も達郎のアジア諸国を巡る仕事は続き、当面は一つの地に留まることはない。達郎と一緒になっても、これまでの家庭生活のような結婚生活は望めないだろう。おそらくは永遠に…。

 そのとき、久美子の身体を這う達郎の手が動きを止めた。

「何を考えてる?」

達郎は顔を上げ、久美子の頬を両手で包みこんだ。その言葉に久美子ははっと我に返り、目を開いた。達郎と目が合ったが、久美子は黙って首を振っただけで、何も答を返さなかった。久美子は達郎の頭を両手でゆっくりと引き寄せ、そのまま胸の谷間にいざなった。

 翌朝、二人はバンフに向けて出発した。達郎はレイク・ルイーズからバンフにはハイウェイを使わず、1Aという一般道を選んだ。このルートは野生動物に出会える可能性が高いことで知られており、野生動物に興味を示していた久美子に達郎が気を利かせたのだった。途中で旅を切り上げることになったことに対する、達郎のせめてものつぐないの気持ちだった。二人は運よくエルクとムースに遭遇することができた。 

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