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2009年4月

第39章 妖艶な月

 四方をカスケード山(2998m)、ランドル山(3030m)、サルファー山(2285m)、ノーケイ山(2134m)に囲まれた山岳リゾート地バンフは、一時間もあれば一回りできる小さな街だ。大きな看板や自販機はなく、いたるところに花が植えられ、街路樹の緑と街を囲む山々が街を絵はがきのように見せている。コンビニやガソリンスタンドは道路から奥まった場所に併設され、ほとんどの店にBGMがなく、街全体がとても静かだ。

 地下1階地上2階の『カシケードプラザ』は、バンフで一番大きなショッピングセンターだが、ワンフロアーに5、6店舗しかなく、こじんまりしている。2階にあるギャラリーではロッキーの風景画が売られ、久美子はここでそのうちの一枚を購入した。

 街を散策して驚いたことは、そこで働く日本人があまりにも多かったことだ。昼食は街のレストランでアルバータ牛のステーキを食べたのだが、ここでも日本人スタッフが数人いた。あらゆる店の前に「スタッフ募集」という日本語の貼り紙がしてあり、日本の食材も揃っていて、風景を除けば、日本にいる感覚とさほど変わらないように思えた。

 達郎は約束通り、バンフから数キロ先にある入浴施設『アッパーホットスプリングス』に久美子を連れて行った。『アッパーホットスプリングス』はサルファー山の中腹にある硫黄の温泉で、客僧は若者から老人までと幅広い。湯の温度はとてもぬるく、風呂というより野外温泉プールといった方が正しい。温泉の硫黄臭がわからないくらい塩素の匂いがきつく、日本の温泉のイメージとあまりにかけ離れていたため、二人は早々に引き揚げてホテルに向かった。

 バンフ・アベニューを南に進み、公園管理事務所を左に1キロほど上った山の中腹に、バンフ・スプリングス・ホテル(フェアモント・バンフ・スプリングス)はあった。中世の古城を思わせるこのホテルは世界有数のリゾートホテルの一つだ。本館を囲む外壁はカナディアン・ロッキーで取れる“ランドル・ロック”でできており、ホテルのすぐ下にあるボウ滝には、裏手から歩いていけるようになっている。

 旧館のロビーはオンシーズンのためか、人でごった返していた。天井が高く、非常に豪華な造りで、骨董品やアンティーク調の家具でまとめられている。これとは対照的に、暖炉のある新館のロビーはとても静かで、クラシックのBGMが流れていた。窓からはランドル山が見渡せ、二人はその夕景を眺めながら、のんびりとくつろいだ。

 やがて日が暮れると、達郎と久美子は人がすいたのを見計らって、旧館に戻った。

 「タツロー・サワキ様でございますね。プレデンシャル・スイートのお部屋がご用意できております。これからそちらにご案内をさせていただきます」

 「プレデンシャル・スイート?ジュニア・スイートに予約したはずだけど?」

 「ミユキ・テイラー様からお電話で変更を承りました。お支払いも済んでいます。お二人宛てにFAXが届いておりますので、後ほどお部屋にお持ちします」

 達郎と久美子は目を見合わせた。

 二人はベルボーイの案内で部屋に向かった。だが、これがなかなか遠かった。エレベーターで最上階まで上がったが、そこで終わりではなく、さらに奥へ奥へと進む。すると、その先に狭い螺旋階段が現れ、そこを上がってようやく部屋に辿り着いた。

 部屋のドアを開けると、リビングルームと大理石張りのバスルームがあり、隅にまた螺旋階段があった。階段を上がりきるとそこはベッドルームで、大きなダブルベッドが置かれていた。この2階建てのスイートは、ホテルの天辺である緑の三角屋根の真下に位置し、窓際にプライベート・ジャグジーが併設されている。スプレー川、ボウ川を見下ろす360度のパノラマ・ビューに加え、スキップフロアのリビングには暖炉があり、グランドピアノまで置かれていた。

 ほどなくして、ボーイがバスケットに入ったワインやチーズ、チョコレートを持ってきた。

 「何か気後れしちゃうわ。こんな高級スイートに泊まるのなんて生まれて初めて。外観はお城そのものだし、部屋に置いてある家具や調度品も豪華で、まるでお姫様になったみたい」

 「俺も王子になった気分だよ。親方によく“一流に触れろ”と言われるけど、一流の場所って、こういう所を言うんだな」

 美由紀から送られてきたFAXには、ディナーの案内が書かれていた。ホテル内の最高級レストラン『バンフシャイヤー・クラブ』に予約を入れておいたという。ボーイにきくと、レストランにはカジュアルな服装では入れないということだった。そのため、二人はホテル内のブティックで服を新調しなければならなかった。結局、プレデンシャル・スイートのルーム料と同じくらいの金額を払う羽目になった。

 『バンフシャイヤー・クラブ』は、AAA/CAA(アメリカ&カナダ自動車連盟による北米レストランの格付け)にランクインされている。この格付けは、選び抜かれた最高の設備と料理、サービスを提供するレストランに5つ星評価が与えられるというもので、現在、この5つ星レストランはカナダに7つとなっている。『バンフシャイヤー・クラブ』は、スチュアート朝時代のアンティークテーブル、天井にフレスコ画というイギリス・スコットランド様式の内装に加え、リネンや食器類も最高級のものを用いている。 

 その日のディナーは、バイソン(野牛)のステーキを中心とした北米料理のフルコースだった。昼食もステーキだったのでどうかと思ったが、上質の肉は胃に負担をかけることなく、食前酒のワインも上質な銘柄で揃えられていた。食材にはサーモンやロブスター、ケベック産のフォアグラも使われ、最後の一品にいたるまで限りなく贅沢で、おいしかった。 

 達郎は運ばれてきたコーヒーを片手に、大きなため息をついた。

 「おとなしいのね。何を考えているの?」

 「いや。こんなところでこんなにめかしこんで、俺、いったい何やっているんだろうって思ってさ。こんなことしてる場合じゃないのに…」

 「ジョンさんなしでバングラデシュに行くのが不安?」

 「少しね。全部一人でやるとなると、いろいろ思い当たるフシが多くて。それでもやるしかないんだけど。現地の子供たちの喜ぶ顔が一番の特効薬かな。でも、まったく一人というわけじゃないんだ。途中から提携会社の日本人社長がくる」

 「日本人?」

 「ああ。ジャパンフーズという会社を経営する若手社長だ。俺たちと年も変わらない。ひょうきんな奴でね。アジアプロジェクトのビジネスパートナーだ。君に会いたいと言っていた」

 「私に?どうして?」

 「うん。カンボジアの売春宿に連れていかれて…」

 達郎はそこまで言って、しまった!と思った。久美子の顔色が変わった。

 「あ、いや。連れて行かれそうになったんで断ったんだよ。彼女がいるからって…」

 「行ったのね」

 「いや、その…」

 「最低!」

 久美子はそう言って席を立って行ってしまった。達郎は即座にウエイターを呼び、サインを済ませて久美子のあとを追ったが、ホテルのあまりの広さに迷子になってしまった。このホテルは1888年(19世紀後半)創業という古さから、何度も改装増築を繰り返してきたために、中が迷路のように入り組んでいる。中二階があったり、行き止まりだったりするのだ。

 達郎はさんざん迷った挙句、ホテルの従業員に頼んで部屋まで連れていってもらうことにした。螺旋階段を上り終え、部屋の前まできたとき、久美子とばったり会った。久美子も従業員と一緒だった。同じように迷子になっていたのだ。

 部屋に入ると、久美子は階段を上がってベッドルームに行ってしまった。ベッドの上でシーツを被り、丸まっている久美子を達郎は後ろから抱きしめた。

 「俺はやってない」

 唐突な達郎の言葉に、久美子は驚いた。

 「確かに行ったけど、何もしないで帰った。俺は素人でいい」

 久美子があきれ顔で達郎を振り返った。

 「いや…そういう意味じゃなくて、感情が伴わないセックスはしないっていう意味だよ。だから、そんなに魅力的な彼女なら会ってみたいっていう話になったんだ」

 「ビジネスパートナーか何か知らないけど、私、そんな人とは会わないわ!それに、その瞬間にだけ愛があれば結局はするってことでしょ!」

 久美子は再び背を向けてしまった。

 「否定はしないよ。でも、その店の娘(こ)には何も感じなかったんだ。だから帰った。信じてよ」

 達郎はそう言って久美子を振り向かせた。久美子の瞳は潤んでいた。

 「どうしてそんなことで泣くんだ?別にたいしたことじゃないだろ?」

 達郎がそう言ったとたん、久美子の瞳から涙がボロボロこぼれおちた。久美子は口をつぐんだまま、達郎を睨みつけている。結婚している久美子には何も言う資格はなかった。

 達郎は、一夜限りの情事に嫉妬をむき出しにする久美子がかわいく、愛おしく思えた。

 「今、俺がほしいのは君だ。ほかの女を抱きたいとは思わない」

 達郎は久美子の長い髪を掻きあげ、うなじに口づけながらドレスのファスナーをおろした。あらわになった胸は白く柔らかく、口にふくむと淡い香水の香りがした。久美子とのセックスには限界がなく、ここまでかと思ってもまだ先があった。その身体はバンフ・スプリングスの迷路のように、どこまでいってもけっして果てることのない甘美な迷宮だった。

 時計は夜の11時をまわっていた。二人は星空の下、プライベート・ジャグジーで汗を流した。達郎はジャグジーから上がると、タオルで髪をごしごし拭きながら、中にいる久美子に話しかけた。

 「これからランドル・ラウンジに行って一杯ひっかけてくるよ」

 「“先生”に会いに行くの?」

 「そうだよ。久しぶりにうまいカクテルも飲みたいし。君もくるかい?」

 久美子は黙ってうなずいた。達郎は久美子に手を差し出し、久美子がその手を握り返すのと同時に、一気にジャグジーから引き上げた。濡れた肌が月灯りに照らされ、その肢体の美しさに達郎は見とれた。達郎の視線は久美子の頭の先から足の爪先までを何度も往復した。

 久美子は無表情のまま何も隠そうとはしなかった。達郎は片手で久美子の頭を支え、唇に強引にキスをした。長いキスだった。久美子の成熟した女の色香に達郎もまた、「もう離れられない」と思うのだった。

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第40章 ジャパニーズ・テイラー

 バンフ・スプリングスのランドル・ラウンジは、ボウ谷を見渡せる軽食レストラン&バーだ。昼過ぎから深夜まで営業しており、ホテル常連の女性客は少し早めにチェック・インを済ませ、ここでアフタヌーン・ティーを楽しむ。ここではケーキの前にフルーツサラダが出され、次に運ばれてくる三段重ねの皿には、サンドイッチ、スコーン、タルト、ケーキ、プリンといった具合に、数種のスイーツが並んでいる。夜は世界のあらゆるカクテルが並び、若者を中心とした宿泊客や外部の宿泊客で賑わっている。

 達郎と久美子はカウンター席に腰をおろした。

 「タツロー?タツローじゃないか!何年ぶりだ?」

 そう言いながら達郎に握手を求めてきたのは、明らかに若い、おそらくは20代の青年だった。久美子は驚いた。“先生”だというので、てっきり自分たちより年配かと思っていたのだ。

 「やあジャン。5年、いや6年ぶりかな。覚えていてくれてうれしいよ」

 「忘れるわけがないだろう?ところで、となりの美人はワイフかい?」

 その問いに久美子はどきっとした。達郎は自分のことを何と紹介するのだろうか。

 「そうだよ。新婚なんだ」

 達郎はあっさりと笑顔で答えた。ジャンが久美子をちらりと見た。

 「はじめまして。久美子です」

 久美子は笑顔をつくり、軽く頭を下げた。久美子の顔は引きつっていた。

 「彼はジャン・ピエール。フランス人だ。フライデーズ・ワールドコンテストの世界チャンピオンでもある」

 達郎はそう言って、ジャンを紹介した。

 「世界チャンピオン?」

 久美子の驚きをよそに、ジャンはにっこり笑って右手を差し出した。

 「ジャンです。よろしく」

 久美子がジャンの握手に応じると、ジャンは達郎に話しかけた。

 「ということは、ここにはハネムーンできたの?」

 「ああ。一番いい部屋に泊まらせてもらってる」

 「ハネムーン・スイートだね。僕もいつか彼女と泊まりたいって思ってるんだ」

 「ハネムーン・スイート?」

 「あそこにはプライベート・ジャグジーがあるだろ?あれは新婚用さ。プレデンシャル・スイートは別名ハネムーン・スイートっていうんだ」

 「なるほどね。ところで、この店のお勧めは何だい?」

 「アルバータ州の看板カクテルっていったら?答えてよ」

 「おいおい、ここでもテストする気かい?実は俺、もうバーテンダーはしていないんだ」

 「知ってるよ。ログビルダーだろ?」

 「えっ!!」

 「君のことは雑誌に出ているからね。ところで、奥さんもタツローと同じものでいいのかな?」 

 その言葉に、達郎はあわてて久美子を振り返った。

 「それはどういうカクテルかしら?なんていうカクテル?」

 久美子は達郎の言葉をまたずに笑顔でジャンに尋ねた。

 「カルガリーにある有名ホテルのバーテンダーが考案したカクテルで、名前はシーザー。ベースはウォッカで、野菜ジュースみたいなカクテルだよ。クロトマトジュース(シーフードエキス入りのトマトジュース)、ホットソース、塩、コショウ、それにセロリが入ってる。カナダを代表するカクテルさ。飲むのは初めて?」

 「ええ。名前だけはきいた気がするけど。それでお願いするわ」

 「オーケー、シーザー2つね」

 ジャンがシェーカーを振っている間、達郎は先ほどのジャンの言葉がひっかかっていた。

 ジャンと達郎は、達郎がフェアモント・ホテルで働いていた時だけのつきあいで、ジャンがバンフに移ったのと同時に音信は途絶えていた。達郎はログビルダーになるためにカナダにきたことも、実はそのためにフェアモント・ホテルのバーテンダーになったことも、ジャンには話していなかった。

 ジャンが出来上がったシーザーを二人の前に置いた。達郎と久美子は乾杯して、カクテルを口に含んだ。

 「なあジャン、さっきの話だけど。雑誌に載ってるってどういうことなんだ?それはどこの何ていう雑誌なんだ?」 

 「えっ、知らないの?CBM(カナディアン・ビジネス・マガジン)だよ。僕はてっきり君のことかと…」

 「CBMっていったら、カナダでも有名なビジネス誌よね。ひょっとして、経済小説コーナーのことかしら」

 久美子のその言葉にジャンがパチンと親指を鳴らした。

 「そう、それ!その連載小説に『ジャパニーズ・テイラー』っていうのがあってね」

 「ジャパニーズ・テイラー!?」

 達郎と久美子は同時に叫んだ。

 「うん。主人公は日本人で、ログビルダーになるためにジョン・テイラーに弟子入りしたんだ。でも最初はちゃんと雇ってもらえなくて、フェアモント・ホテルでバーテンダーをしながら生活をつないでいてね。で、フェアモントで働くにあたってフライデーズで修業するんだよ。黒のハーレーに乗っていることや、そこに書かれている本人の特徴からして、僕はとっさに君のことだって思った。名前もずばり“タツロー”だしね」

 達郎と久美子は目を見合わせた。

 「この小説、今すごい人気でね。カナディアン・ジャーナルでも著者のトム・マクレガー氏と、主人公の師匠ジョン・テイラー氏の対談を組んだんだよ。タイトルはえっと、『日本人ログビルダー、タツローを語る』だったかな。こっちは先月号だけど」

 「なんだって!親方とトムが?」

 達郎は大声で叫んだ。

 「達郎さん、トムの名字って…マクレガー?」

 「そうだよ。正確にいうとトム・J・マクレガーっていうんだ。あいつ、俺に無断で…」

 「その小説っていつから連載しているの?」

 久美子がジャンに尋ねた。

 「半年くらい前から。主人公の実生活と併行して書かれているから、なかなか先に進まなくてね。でも、掲載された分は今年中に書籍化されるって話だよ」

 「あいつ、俺の家で俺のこと書いてたのか…。全然知らなかった。それに親方まで…」

 達郎は日本語でつぶやいた。

 「カナディアン・ジャーナル側は主人公本人にインタビューしたいと、エコロジカル・ログ・カンパニーの広報に申し入れをしたんだが、本人がシャイで出るのを拒んでるってことで、会長のテイラー氏との対談になってしまったんだ。だから、“タツロー”個人に関してはベールに包まれたままさ。実にミステリアス!それも人気の理由なんだ」

 達郎は両膝に置いた拳を握りしめ、眉間にしわを寄せたまま口をつぐんでしまった。どうやら本気で怒っているようだ。そんな達郎の動揺をよそに、久美子はあまりにもおかしくて、笑いをこらえるのに必死だった。

 「両方ともホテルにあるかしら?」

 「もちろん。CBMは今日が発売日だよ。僕もその小説のファンで、毎月楽しみにしているんだ。今日も仕事が終わったらすぐに読むつもりさ。ホントに君じゃないの?」

 ジャンはそう言って達郎の顔を覗き込んだ。

 「違う。俺じゃない」

 達郎は小声でそう言っただけだった。ジャンが久美子をちらりと見た。久美子が笑顔で頷くと、ジャンも久美子にウインクで返した。

 「フロントに部屋まで持ってきてくれるよう頼んでおくよ。じゃ、悪いけど」

 店内が賑わってきたため、ジャンはそう言って二人の前から離れた。達郎は残っていたシーザーを一気に飲み干してしまった。

 二人が部屋に戻ってからほどなくして、ボーイがカナディアン・ジャーナルの先月号とCBMの今月号を持ってやってきた。

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第41章 さらばロッキー

 翌朝、達郎と久美子は早々にバンフ・スプリングスを出発した。やがて二人のハーレーはカナディアン・ロッキーを抜け、のどかな牧草地帯に入った。天気は快晴で、彼方に草を這う牛の群れが見える。達郎が路肩にハーレーを止めると、沢山の地リスが逃げていった。川辺にいる水鳥も驚いて、いっせいに飛び立った。二人はハーレーにもたれながら、遠くに見えるロッキーの山並みを見つめた。

 「いよいよ終わってしまうのね」

 久美子が口を開いた。バンフからカルガリーまでの走行距離はおよそ130km。トランス・カナダ・ハイウェイ、国道2号線とひた走れば、空港には一時間半で着いてしまう。

 「いつかは終わる旅だとわかっていても、毎日、時が止まればいいって思ってた。いきなりおしかけて、それなのに…。こんなに幸せな時間をもらえるとは思ってもいなかったわ。ありがとう」

 久美子はそう言って達郎を見上げた。達郎は久美子の肩をそっと抱き寄せた。

 「これで終わりみたいなこと言わないでくれ。俺たちはこれからなんだ。俺は君が俺だけの君になることはないと言いながらも、心の底ではやっぱり君を一人占めしたいと思ってる。この数日間、一緒に旅をしてきて、俺は君じゃなきゃだめだってわかったんだ。そして、それを現実にしようと決めた」

 「達郎さん…」

 「娘さんが成人したら、俺と一緒になってくれ」

 「成人なんて…。いったい何年あると思っているの?私なんかより若くてきれいで、賢い独身女性はいくらだっているのに…」

 「俺は必ず一流のログビルダーになる。ご主人以上の器量と経済力を持った男になるよ。そして君を迎えにいく。だから、それまでまっていてほしいんだ」

 「そんな…。ふさわしい人間にならなくてはいけないのは私の方よ。それに、あなたをそんなにまたせるわけにはいかない。あなたにばかり負担はかけられないわ。私たちはもう家族なんだから」

 「家族?」

 「結婚していると、よく責任があるとか言うけど、それは結婚だけに限らないわ。私はあなたを、あなたは私を、お互いがその愛を受け取った時点で、すでに責任が生じているのよ。私は夫や娘だけじゃなく、あなたに対する責任が…。トムが言っていたわ。心が通じた時点でそれはもう一緒に人生を歩いているのと同じだって。私も今、心からそう思うの。私たちはもう始まってしまった。もう止まらないわ。止めようとしたけど…。私、カナダにきてよかった。あなたに会いにきてよかった」

 久美子の瞳は潤んでいた。

 「これからが正念場だな」

 達郎はそう言って、久美子を抱きしめた。

 「そうね。でも、やらなければならないわ。私は私がしたことの責任をとらなくちゃ。ジョンさんと美由紀さんに会うことはその第一歩よ」

 「うん。まずは親方夫婦に怒られることからだな。それが済んだら、俺もちゃんとけじめをつけるよ」

 「けじめ?」

 「郷里にいる彼女のことさ。松本へ行って、ちゃんと話す。バングラへは日本を経由していくことにするよ。飛行機のチケットをおさえられればだけど」

 「それって、一緒の飛行機で日本へ戻るってこと?」

 「ああ。今日バンクーバーに着いて、できればあさっての夜には日本へ発ちたい。そうじゃないと、バングラの工期に間に合わないからね。もっとも君もそれでよければの話だけど」

 「私の方は別に…。でもそれが私のためなら、そんなに無理しなくても…。それに、その人だって突然言われて、すんなり納得なんてできないと思うわ」

 「行ってその場で了解を得られるなんて思っちゃいないよ。結婚こそしていないけど、俺と彼女にもそれなりに積み上げてきたものはある。彼女の今の気持ちがどうかはわからないけど、俺の今の気持ちは伝えようと思う。君以外の女性(ひと)と歩いてはいけないことを」

 そう言って達郎は久美子の手を強く握った。

 「さてと、そろそろ行こうか。空港で腹ごしらえをして、親方の自家用機でバンクーバーまでひとっ飛びだ」

 「ええ!」

 ハーレーの爆音が穏やかな牧草地にこだました。すぐそばを闊歩していた馬の親子が驚いたように振り返った。

 カルガリー国際空港ではすでにジョンの自家用機が待機していた。バンクーバーへの飛行時間は一時間半だ。カルガリーはバンクーバーより一時間遅れなので、時差を入れれば二時間半となる。

 何日もかけて走ってきた陸路を空路で一気に戻ることは、旅の終わりとしては味気なかった。二人は飛行機に乗っている間、ずっと手を重ねていた。眼下にバンクーバーの街が現れたとき、二人はその手を強く握りしめた。

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