第39章 妖艶な月
四方をカスケード山(2998m)、ランドル山(3030m)、サルファー山(2285m)、ノーケイ山(2134m)に囲まれた山岳リゾート地バンフは、一時間もあれば一回りできる小さな街だ。大きな看板や自販機はなく、いたるところに花が植えられ、街路樹の緑と街を囲む山々が街を絵はがきのように見せている。コンビニやガソリンスタンドは道路から奥まった場所に併設され、ほとんどの店にBGMがなく、街全体がとても静かだ。
地下1階地上2階の『カシケードプラザ』は、バンフで一番大きなショッピングセンターだが、ワンフロアーに5、6店舗しかなく、こじんまりしている。2階にあるギャラリーではロッキーの風景画が売られ、久美子はここでそのうちの一枚を購入した。
街を散策して驚いたことは、そこで働く日本人があまりにも多かったことだ。昼食は街のレストランでアルバータ牛のステーキを食べたのだが、ここでも日本人スタッフが数人いた。あらゆる店の前に「スタッフ募集」という日本語の貼り紙がしてあり、日本の食材も揃っていて、風景を除けば、日本にいる感覚とさほど変わらないように思えた。
達郎は約束通り、バンフから数キロ先にある入浴施設『アッパーホットスプリングス』に久美子を連れて行った。『アッパーホットスプリングス』はサルファー山の中腹にある硫黄の温泉で、客僧は若者から老人までと幅広い。湯の温度はとてもぬるく、風呂というより野外温泉プールといった方が正しい。温泉の硫黄臭がわからないくらい塩素の匂いがきつく、日本の温泉のイメージとあまりにかけ離れていたため、二人は早々に引き揚げてホテルに向かった。
バンフ・アベニューを南に進み、公園管理事務所を左に1キロほど上った山の中腹に、バンフ・スプリングス・ホテル(フェアモント・バンフ・スプリングス)はあった。中世の古城を思わせるこのホテルは世界有数のリゾートホテルの一つだ。本館を囲む外壁はカナディアン・ロッキーで取れる“ランドル・ロック”でできており、ホテルのすぐ下にあるボウ滝には、裏手から歩いていけるようになっている。
旧館のロビーはオンシーズンのためか、人でごった返していた。天井が高く、非常に豪華な造りで、骨董品やアンティーク調の家具でまとめられている。これとは対照的に、暖炉のある新館のロビーはとても静かで、クラシックのBGMが流れていた。窓からはランドル山が見渡せ、二人はその夕景を眺めながら、のんびりとくつろいだ。
やがて日が暮れると、達郎と久美子は人がすいたのを見計らって、旧館に戻った。
「タツロー・サワキ様でございますね。プレデンシャル・スイートのお部屋がご用意できております。これからそちらにご案内をさせていただきます」
「プレデンシャル・スイート?ジュニア・スイートに予約したはずだけど?」
「ミユキ・テイラー様からお電話で変更を承りました。お支払いも済んでいます。お二人宛てにFAXが届いておりますので、後ほどお部屋にお持ちします」
達郎と久美子は目を見合わせた。
二人はベルボーイの案内で部屋に向かった。だが、これがなかなか遠かった。エレベーターで最上階まで上がったが、そこで終わりではなく、さらに奥へ奥へと進む。すると、その先に狭い螺旋階段が現れ、そこを上がってようやく部屋に辿り着いた。
部屋のドアを開けると、リビングルームと大理石張りのバスルームがあり、隅にまた螺旋階段があった。階段を上がりきるとそこはベッドルームで、大きなダブルベッドが置かれていた。この2階建てのスイートは、ホテルの天辺である緑の三角屋根の真下に位置し、窓際にプライベート・ジャグジーが併設されている。スプレー川、ボウ川を見下ろす360度のパノラマ・ビューに加え、スキップフロアのリビングには暖炉があり、グランドピアノまで置かれていた。
ほどなくして、ボーイがバスケットに入ったワインやチーズ、チョコレートを持ってきた。
「何か気後れしちゃうわ。こんな高級スイートに泊まるのなんて生まれて初めて。外観はお城そのものだし、部屋に置いてある家具や調度品も豪華で、まるでお姫様になったみたい」
「俺も王子になった気分だよ。親方によく“一流に触れろ”と言われるけど、一流の場所って、こういう所を言うんだな」
美由紀から送られてきたFAXには、ディナーの案内が書かれていた。ホテル内の最高級レストラン『バンフシャイヤー・クラブ』に予約を入れておいたという。ボーイにきくと、レストランにはカジュアルな服装では入れないということだった。そのため、二人はホテル内のブティックで服を新調しなければならなかった。結局、プレデンシャル・スイートのルーム料と同じくらいの金額を払う羽目になった。
『バンフシャイヤー・クラブ』は、AAA/CAA(アメリカ&カナダ自動車連盟による北米レストランの格付け)にランクインされている。この格付けは、選び抜かれた最高の設備と料理、サービスを提供するレストランに5つ星評価が与えられるというもので、現在、この5つ星レストランはカナダに7つとなっている。『バンフシャイヤー・クラブ』は、スチュアート朝時代のアンティークテーブル、天井にフレスコ画というイギリス・スコットランド様式の内装に加え、リネンや食器類も最高級のものを用いている。
その日のディナーは、バイソン(野牛)のステーキを中心とした北米料理のフルコースだった。昼食もステーキだったのでどうかと思ったが、上質の肉は胃に負担をかけることなく、食前酒のワインも上質な銘柄で揃えられていた。食材にはサーモンやロブスター、ケベック産のフォアグラも使われ、最後の一品にいたるまで限りなく贅沢で、おいしかった。
達郎は運ばれてきたコーヒーを片手に、大きなため息をついた。
「おとなしいのね。何を考えているの?」
「いや。こんなところでこんなにめかしこんで、俺、いったい何やっているんだろうって思ってさ。こんなことしてる場合じゃないのに…」
「ジョンさんなしでバングラデシュに行くのが不安?」
「少しね。全部一人でやるとなると、いろいろ思い当たるフシが多くて。それでもやるしかないんだけど。現地の子供たちの喜ぶ顔が一番の特効薬かな。でも、まったく一人というわけじゃないんだ。途中から提携会社の日本人社長がくる」
「日本人?」
「ああ。ジャパンフーズという会社を経営する若手社長だ。俺たちと年も変わらない。ひょうきんな奴でね。アジアプロジェクトのビジネスパートナーだ。君に会いたいと言っていた」
「私に?どうして?」
「うん。カンボジアの売春宿に連れていかれて…」
達郎はそこまで言って、しまった!と思った。久美子の顔色が変わった。
「あ、いや。連れて行かれそうになったんで断ったんだよ。彼女がいるからって…」
「行ったのね」
「いや、その…」
「最低!」
久美子はそう言って席を立って行ってしまった。達郎は即座にウエイターを呼び、サインを済ませて久美子のあとを追ったが、ホテルのあまりの広さに迷子になってしまった。このホテルは1888年(19世紀後半)創業という古さから、何度も改装増築を繰り返してきたために、中が迷路のように入り組んでいる。中二階があったり、行き止まりだったりするのだ。
達郎はさんざん迷った挙句、ホテルの従業員に頼んで部屋まで連れていってもらうことにした。螺旋階段を上り終え、部屋の前まできたとき、久美子とばったり会った。久美子も従業員と一緒だった。同じように迷子になっていたのだ。
部屋に入ると、久美子は階段を上がってベッドルームに行ってしまった。ベッドの上でシーツを被り、丸まっている久美子を達郎は後ろから抱きしめた。
「俺はやってない」
唐突な達郎の言葉に、久美子は驚いた。
「確かに行ったけど、何もしないで帰った。俺は素人でいい」
久美子があきれ顔で達郎を振り返った。
「いや…そういう意味じゃなくて、感情が伴わないセックスはしないっていう意味だよ。だから、そんなに魅力的な彼女なら会ってみたいっていう話になったんだ」
「ビジネスパートナーか何か知らないけど、私、そんな人とは会わないわ!それに、その瞬間にだけ愛があれば結局はするってことでしょ!」
久美子は再び背を向けてしまった。
「否定はしないよ。でも、その店の娘(こ)には何も感じなかったんだ。だから帰った。信じてよ」
達郎はそう言って久美子を振り向かせた。久美子の瞳は潤んでいた。
「どうしてそんなことで泣くんだ?別にたいしたことじゃないだろ?」
達郎がそう言ったとたん、久美子の瞳から涙がボロボロこぼれおちた。久美子は口をつぐんだまま、達郎を睨みつけている。結婚している久美子には何も言う資格はなかった。
達郎は、一夜限りの情事に嫉妬をむき出しにする久美子がかわいく、愛おしく思えた。
「今、俺がほしいのは君だ。ほかの女を抱きたいとは思わない」
達郎は久美子の長い髪を掻きあげ、うなじに口づけながらドレスのファスナーをおろした。あらわになった胸は白く柔らかく、口にふくむと淡い香水の香りがした。久美子とのセックスには限界がなく、ここまでかと思ってもまだ先があった。その身体はバンフ・スプリングスの迷路のように、どこまでいってもけっして果てることのない甘美な迷宮だった。
時計は夜の11時をまわっていた。二人は星空の下、プライベート・ジャグジーで汗を流した。達郎はジャグジーから上がると、タオルで髪をごしごし拭きながら、中にいる久美子に話しかけた。
「これからランドル・ラウンジに行って一杯ひっかけてくるよ」
「“先生”に会いに行くの?」
「そうだよ。久しぶりにうまいカクテルも飲みたいし。君もくるかい?」
久美子は黙ってうなずいた。達郎は久美子に手を差し出し、久美子がその手を握り返すのと同時に、一気にジャグジーから引き上げた。濡れた肌が月灯りに照らされ、その肢体の美しさに達郎は見とれた。達郎の視線は久美子の頭の先から足の爪先までを何度も往復した。
久美子は無表情のまま何も隠そうとはしなかった。達郎は片手で久美子の頭を支え、唇に強引にキスをした。長いキスだった。久美子の成熟した女の色香に達郎もまた、「もう離れられない」と思うのだった。
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