第44章 罪と罰
その日の夜、夫は時間より30分ほど遅れてきた。
「遅れてすまないね、まったかな」
「そんなことは別に…」
「だいぶ日に焼けたようだな。バンクーバーは変わりなかったか?」
「……」
「ふっ。聞かれて“はい、行ってきました”とは言えないか」
久美子は下を向いたまま、口をつぐんでしまった。
「君が言いたいことは、おおよその見当はついている」
「あなた…」
「その前に美樹のことだが…」
「美樹には私からちゃんと話します」
「美樹は今、田園調布のお義母さんのところにいる」
「母のところに?」
「ああ」
「美樹がホームステイから帰る日はわかっていたのに、私は戻らなかった。母親失格よ。美樹も実家の母も呆れているでしょうね」
「いや、美樹が家を飛び出した原因は君じゃない」
「えっ?」
「原因は僕だ」
「?」
「女がいる」
「!」
「気づかなかったか?もう10何年も一緒に暮らしてきて…。僕が休日に家にいないのも、家で食事をしなくなったのも、本当に仕事だと思っていたのか?」
「……」
「気づかなかっただろうな。カナダから戻っても、君の心は日本になかった。君の心はこいつのことでいっぱいだったからな」
夫はそう言って一枚の封書を投げてよこした。その封書には探偵事務所の名前が書かれていた。
「これは…」
「調べさせてもらったよ。君とこいつがどこで会ったか、いつそういう仲になったのか、全部ね。どんなに立派な男かと楽しみにしていたのに…。何なんだ、これは」
「えっ」
「大学も出ていない高校出の、しかも田舎の三流高校だ。職を転々として、長く続いたためしがない。挙句、長年の恋人を放り出してカナダに移住し、運よくテイラー会長に拾われたことをいいことに、その別荘に居候して。会長のもの好きにも程がある。まあ億万長者というのは、我々凡人とは視点が違うから何とも言えないが…。一流のビルダーでも何でもない。こんな奴のどこがいいんだ?こいつは前の女とも切れていない。つまり、君はあそばれているだけだ。そんな男のために僕と美樹を捨てようなんて、君はどうかしてるよ」
「私のことは何と言われても仕方がないわ。でも、達郎さんの過去まで否定する権利はあなたにはないわ」
「君はこんな男を“さん”付けで呼んでいるのか?しかも、こいつの経歴を承知でつきあっていたとは驚いたな」
「あなたが学歴や経歴で人を判断する人だとは思わなかったわ」
「僕だって、学歴がなくても立派な人間は山ほど知っているし、敬意もはらうよ。だが、これはあまりにひどい。同じ浮気をするなら、もう少し相手を選べ」
「浮気じゃないわ」
「なんだって?」
「浮気じゃなくて本気よ。それに、達郎さんはあなたが言っているような人じゃないわ」
「こっちも同じように浮気をしていたと知って、強気に出たか」
「浮気?あなたは本気じゃないの?」
「本気であるわけないだろう!ひとまわりも年下の小娘に。向こうが勝手に熱をあげて、抱いてほしいというから抱いてやったんだ。勝手に失恋して、辞表を出してやめていった。子供も堕ろすように言ったし、そのための金も渡したのに…」
「子供?」
「ああ。来月生まれるんだ。先月、偶然会うまで全然知らなかった。本人は産むと言い張るし、臨月じゃどうにもしようがない。認知だけはするつもりだ」
「堕ろすなんて…。あなた、何てひどいことを…」
「俺は完全にあそびだった。向こうもそれを承諾しての関係だったんだ。当然だろ」
「相手のひとは本気なのね。会社を辞めたのも子供を産みたいから…。偶然会ったってことは、あなたにこのまま会わなければ一人で産んで育てるつもりだったのね。だから、あなたは認知を…?」
久美子の言葉に夫は黙って目をそらせた。
「さっきの発言は子供を持つ母親として、女性として許せないけど、そう言いながらもちゃんと認知するところがあなたらしいわ」
「君は…何も感じないのか?」
「えっ?」
「他の女と僕がそういう関係だったと知って、しかも子供までできて、来月にも生まれるっていうのに、顔色ひとつ変えない。自分の亭主の子供を他の女が産もうとしているんだぞ!君はそれでも平気なのか!」
「それは…」
「平気なんだな!だが僕は、それでも君とは別れないぞ。美樹には君とそいつのことは話していない」
「えっ」
「彼女が流産しそうになって入院したんだ。ようやく退院できて、病院から付き添って出たところを、美樹に見られた。それで、美樹は家を飛び出した。君は僕の浮気が原因で家を出たことになっている。お義母さんやお義父さんにはそう言って頭を下げて、美樹を預かってもらった」
「そんな…。あなたがその人とそうなったのは、私にも原因があるわ。あなたひとりを悪者にするわけにはいかないわ」
「うぬぼれるな!第一、僕と別れてどうするつもりだ?ひとりで食べてもいけないくせに」
「それは…。でも、ひとりでも食べていけるように、昼だけじゃなく夜も働くわ」
「無理だな。英会話教室のバイトでさえ一年も続かなかったのに。社会はそんなに甘くない」
「そんな言い方ひどいわ。とにかく、私の心は変わらない。あなたはあなた、私は私よ。私は私のことを美樹にも、両親にもちゃんと話すわ」
「君はそれでも母親か」
「えっ?」
「父親の浮気に傷ついて家を出た娘に、母親まで浮気をしていたと、ましてやその男を追ってカナダまで行ってきたと言うつもりか?」
「それは…」
「君がどんなに本気と豪語しようと、世間はそれを浮気と呼ぶ。そこに正統性はない。裁判で法的に罰することもできるんだ」
「罰するって?」
「世間知らずだな、君は。勝訴した側は配偶者と不倫相手に慰謝料を請求できるんだ。まあ、今となってはお互い様だが…。“不倫”とはそういうものだ。それほどに、社会で結婚が占めるウエイトは大きいんだ」
久美子は黙ってしまった。
「今回のことでは僕も深く反省している。君だけを責めるつもりはないよ。君にとって美樹が宝であるように、僕にとっても同じだ。身勝手だが、これ以上美樹を傷つけたくない。君の中に母親としての自覚が少しでも残っているなら、これ以上ことを大きくしないでくれ」
「でも、私はもうあなたと…。それに、生まれてくる子供とその人はどうするの?」
「どうもしない。彼女は認知だけで充分だと言っているよ。だが、僕は認知する以上は、生活のめんどうはちゃんと見るつもりだ。それくらいの経済力はある。彼女もすぐには無理だが、子供を預けて働くと言っている。もともと仕事はできて、優秀な娘だ。まだ若いし、転職においては、君に比べると何の問題もない。君と離婚しないことも話してあるし、それは彼女も納得している。古いかもしれないが、愛人とはそういうものだ」
「しっかりしたお嬢さんじゃない。私なんかよりよほど…」
「感心するなよ」
「なぜ、そんなにまでして私を?」
「もう、いい加減にしろ。まだわからないのか?僕の気持ちはどうなる?」
「えっ」
「こんなことになってしまったが、僕は今でも君を愛してる。君をそんな頼りない男に渡せるか!僕の認めた男でなければ、僕と同等か、僕以上の男でなければ納得できない!」
「……」
久美子は夫以上の男になって迎えに来ると言った達郎の言葉を思い出した。久美子にとっては達郎がログビルダーであろうと、乞食であろうと関係ない。達郎には達郎の良さがあり、夫には夫の良さがある。どちらが優れているとか、劣っているということではない。人を愛するのに条件は必要ない。理由などないのだ。だが夫も達郎も、互いを意識して張り合おうとしている。
「渡すとか渡さないとか、私は…女は物じゃないわ」
「結婚している限り、君は僕のものだよ。法律とはそういうものだ」
久美子は深いため息をついた。男はなぜ、そういう考え方しかできないのだろう。
「わかったわ。美樹には…今は言わない」
久美子は夫の申し出を承諾した。14歳の娘に両親が揃って不倫をしていると告げるのは、確かに酷な話だ。久美子は母親である前に、女であろうとした浅はかさを恥じた。
翌日の夜、夫は車でホテルまで迎えにきた。夫はまず自分の実家に行き、事情を説明した。夫の両親や兄弟はことの顛末にあきれ、子供の認知にも難色を示したが、夫は譲らなかった。そして夫は、久美子と達郎のことはいっさい言わなかった。
次に久美子の実家に向かった。そこで夫は久美子の両親に土下座をした。子供を認知すること、養育費を支払うことを承諾してもらい、相手の女性と会うときは弁護士を通すことを約束した。久美子はここでも寛容な妻を演じねばならなかった。久美子は良心の呵責に苦しみながら、これは夫が自分に下した罰なのだと思った。
帰りの車の中で、美樹は夫の問いかけに何も答えなかった。夫の淋しそうな表情が、久美子の心に残った。
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