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第45章 別れ

 達郎の郷里、長野県松本市は国宝松本城を中心に栄えた城下町である。また、北アルプスをはじめ上高地や美ケ原高原など、多くの名勝地を有し、夏は日本全国からの観光客やアルピニストで賑わう。

 達朗と由起子は、松本駅を出てすぐの小さな路地にあるマンガ喫茶で待ち合わせをしていた。達郎はこの店の自家焙煎コーヒーが好きで、帰郷したときは必ず訪れている。そこは達朗と由起子の学生時代からの馴染みの店でもあった。

 一番奥の、西日が差し込むテーブルが二人の指定席で、由起子はいつも達郎より早く来て文庫本を読んでいた。由起子はセーラー服がよく似合った。達郎は店に入ってもすぐに由起子のもとには行かず、店内にあるコミックを物色するふりをして、その横顔に見とれたものだ。その美しさを存分に拝んだところで、「まった?」と声をかける。成績優秀で美人の由起子は男子生徒の憧れの的で、自慢の彼女だった。

 店に着くと、由起子はすでにきていて本を読んでいた。達郎は昔そうしたように本を物色するふりをして、由起子を見つめた。窓から差し込む薄日に照らされ、栗色の髪と同じ目の色がより明るく見える。30代後半になった今も、由起子は変わらずきれいだ。久美子も美人だが、二人の美しさは対照的で、久美子は清楚な純日本風の美人であり、由起子は華やかな西欧風美人で、花にたとえたら久美子はカサブランカ、由起子はカトレアだった。

 達朗はいつものように声をかけることができないでいた。何と言えばいいのだろう。「別れてくれ」、「おまえとはやっぱり結婚できない」、いや、単刀直入に「好きな女ができた」と言うべきか。わかりやすくて手っ取り早いからと、場所をここにしたのが失敗だった。この店には思い出がありすぎる。

 「達郎!」

 達郎に気づいた由起子が手を挙げた。くったくのない笑顔が達郎の胸を刺した。

 「やあ。二年ぶり…かな。元気だったか?」

 達朗はそう言って由起子の向かいに腰をおろした。

 「見ての通りよ。仕事もうまくいってるわ」

 「そりゃよかった」

 達郎と由起子のもとにいつものコーヒーが運ばれてきた。

 「あなた、去年は日本に帰ってこなかったものね。今回も明後日には発ってしまうなんて。海外事業部って忙しいのね。今度はどこにいくの?」

 「バングラデシュ」

 「バングラデシュって、確かとても暑い国よね。涼しいカナダからいきなりそんなところに行って大丈夫?」

 「昼間はやらないよ。朝晩の、いくらか暑さがマシになった頃にぼちぼちやる」

 「だったらいいけど。無理しちゃだめよ」

 「うん…」

 「ところで、昨夜は実家に泊まったの?」

 「いや、駅前のホテルに泊まった」

 「あらあら。わかった!着いたのが遅かったのね。気を遣わないでくればよかったのに。ばかね。当然、今夜はうちに泊まるでしょ」

 由起子はそう言いながら、達郎にウインクした。達朗は言葉に詰まってしまった。

 「突然だったから冷蔵庫に何も買い置きしてないのよ。知っての通り、私は料理が全然ダメだし、ふだんは外食かスーパーのお惣菜専門だし」

 「……」

 「今夜一晩だけじゃ、お寿司でもとってのんびりしようか」

 「由起子…」

 「うん?」

 「俺…今夜はおまえのところに泊まらない」

 「あら、そうなの?もしかして、実家に帰るって言っちゃった?」

 「いや、そうじゃない。今夜だけじゃなく、これからも…もうおまえのところには泊まれないんだ」

 由起子の顔から笑顔が消えた。

 「今夜も昨日と同じホテルに泊まる」

 「結婚…するの?もしかして、もう向こうで誰かと結婚…しちゃったとか?」

 「いや。当分結婚の予定はないよ」

 由起子はほっと一息ついた。

 「じゃ、どうして?」

 「すぐに結婚とかじゃないけど、結婚したい女ができた」

 「!」

 「すまない」

 達郎はそう言いながら頭を下げた。

 「それを言うために…わざわざ?」

 「そうだ」

 「どんな人?」

 「えっ?」

 「きれいな人?性格は?年は?仕事はどんなことしてる人?カナダ人?」

 「日本人だよ。美人だけど、おまえとは違うタイプだ。性格も…おまえはどんどん行くタイプだけど、彼女は考えて納得しないと動けないタイプだ。仕事は…今は失業中で、年は俺たちと同じだ。バンクーバーで知り合った」

 由起子は黙って下を向いてしまった。

 「だから、俺はもうおまえとは…」

 「……」

 「別れてほしい」

 「別れる?」

 「ああ」

 「別れるも何も、ちゃんとつきあってないじゃない」

 「え…」

 「つきあうっていうのは、定期的に電話したり会ったりするのをつきあうっていうのよ。一年に数回会うか会わないかの、電話もろくにしない、メールも手紙もない、そういうのはちゃんとつきあってるとは言わないわ!」

 「…確かに俺が無精だったのは認めるけど。じゃあ、これまでの俺たちは何だったんだ?おまえは俺の恋人で、俺はおまえの恋人じゃなかったのか?俺はずっとそう思っていたけど、おまえは違ったのか?」

 「……」

 「おまえにすぐにわかってくれとは言わないよ。だけど…」

 「そんな言葉をきくために、今まであなたのパターンに合わせていたわけじゃないわ」

 「由起子」

 「そんな言葉をきくために、あなたをすんなりカナダに行かせたわけじゃない…」

 由起子の瞳は潤んでいた。

 「おまえは俺と結婚するつもりでいたのか?」

 「……」

 「俺をこの齢までずっとまってくれていたのか?」

 「結婚なんて望んでないわ。望んでないけど…。あなたと私でいられさえすれば、結婚しなくても、それでよかった…」

 由起子の瞳から涙がこぼれた。

 「俺は…いずれはおまえと結婚すると思ってた。そうなるだろうって思っていたよ」

 「……」

 「もう何年も、俺にはおまえだけだったから。彼女に会うまでは…。それだけは信じてくれ」

 二人の間に沈黙が流れた。由起子と初めて会ってから今までのことが、達郎の脳裏に蘇った。

 「行くよ」

 由起子が驚いて顔を上げた。

 「今夜のホテルはキャンセルして、この足でそのまま東京へ行く。しばらくここ(松本)には戻らない」

 「達郎…」

 「じゃ」

 達朗はそう言って席を立った。達郎は支払いを済ませ、店を出て行った。

 「達郎!」

 由起子があとを追いかけてきた。

 「どうした?」

 「送るわ。いつもみたいに」

 「由起子…」

 「そうさせて。ね?」

 達郎が部屋で荷物をまとめている間、由起子はホテルのロビーでまっていた。達郎は松本駅から「あずさ」で東京(新宿)まで戻ることになった。由起子はホームまで見送りに出てくれた。列車に乗り込む時、由起子は後ろから達郎に抱きついた。

 「元気でね…」

 列車のドアが閉まった。達郎は席にはつかず、その場に立ったまま、ドアの窓越しに由起子を見つめた。由起子の瞳は潤んでいたが、顔は笑顔だった。

 「あ・り・が・と・う」

 達朗はゆっくりと由起子に語りかけた。その唇の動きで由起子は達郎が何を言っているのかわかった。由起子が頷くのと同時に列車は出発した。由起子の頬に涙が伝ったその時、達郎の頬にもひとすじの涙が伝っていた。

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