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2009年5月

第42章 男女の違い

 久美子を乗せた達朗のハーレーは、テイラー邸の敷地内を走っていた。深い森を抜けると、一番目の門が見えてきた。門の前で一時停止し、門に設置されているインターホンを押す。次にインターホンの横にある小さなスピーカーに向かって名前を言う。門の上には監視カメラが設置されていて、テイラー邸の監視ルームのモニターにその姿が写し出されるようになっている。問題なければ門は一分後に自動で開かれる。それからまたしばらく走り、第二の門の前でまた同じことをする。第二の門を抜けると、薔薇の庭園が広がり、その先に邸宅である巨大ログハウスが姿を現す。

 邸宅の前では執事が二人を出迎えていた。

 「タツロー様、おかえりなさいませ。クミコ様、お久しぶりでございます」

 執事の笑顔に久美子の緊張が緩んだ。

 「こちらこそお久しぶりです。その節はお世話になりました。お元気そうね」

 「クミコ様こそ。ラウンジで旦那様と奥様がおまちです。タツロー様、ご迷惑でなければハーレーはわたくしがガレージまでお運びいたしますが、いかがいたしましょうか」

 「じゃあお願いします」

 「かしこまりました」

 達朗はハーレーから降りると執事にキーを渡した。

 「あの、ラウンジでということは、ジョンさんは起きておられるのですか?」

 久美子が執事に尋ねた。

 「はい。今日はことのほかお加減がよいらしく、朝も邸内を散歩されました」

 達朗と久美子は目を見合わせた。

 「今回もやられたかな。仮病の達人だから、親方は」

 「元々どこも悪くないってこと?」

 「いや、病気なのは確かだけど、寝込むほどじゃないってことだよ。時々あるんだ、こういうことが。そうやって俺を一人で現地に行かせて、仕事ぶりを試すんだよ。工期が終わる頃、ふいに現れて驚かされる。親方はビックサプライズが大好きなんだよね?」

 達郎の問いかけに執事は苦笑いした。

 「めっそうもないことでございます。旦那様は今日たまたまお元気になられたのです。タツロー様とクミコ様がきてくださったおかげでございます」

 「やれやれ、親方にそう言うように言われているんだね。わかったよ。そういうことにするよ。じゃあハーレーを頼みます」

 二人は邸内にあるラウンジに向かった。歩きながら達郎は久美子の手を握ってきた。二人は手をつないで長い廊下を歩いた。ラウンジでは、ジョンと美由紀が紅茶を飲みながら談笑していた。まずジョンが二人に気づいた。

 「おお、来たか。おかえり。クミコもよくきてくれたね。勇気がいっただろう?」

 ジョンはそう言って二人に歩み寄り、久美子を抱きしめた。

 「久しぶりだね、クミコ。よく顔を見せておくれ」

 ジョンはそう言って、両手で久美子の頬を包んだ。ジョンの深緑の瞳がやさしく微笑んでいる。懐かしさに久美子の瞳から涙がこぼれた。

 一昨年バンクーバーの空港に見送りにきてくれた時に比べると、ジョンはかなり痩せていた。持病が進行しているのは事実だろう。寝込むほどでないにしろ、灼熱のバングラデシュにはやはり行ってほしくないと思った。

 「ごめんなさい…」

 久美子はそう言って、ジョンに詫びた。

 「いいんだよ。日本に帰る時、きついことを言ってしまったね。ミユキに反省するよう言われたよ。男と女は違うってね」

 ジョンはそう言って腕の力を緩めた。久美子は傍らにいる美由紀を振り返った。

 「よくきてくれたわ。日本に帰ったきり、何の連絡もないから心配していたのよ。女同士、気持ちはわからないでもないけれど…。とにかく、立ったままじゃおちつかないわ。二人ともお座りなさいな」

 二人が席におちつくと、久美子の好きなカモミールティーと達郎の好きな炭焼きコーヒーが運ばれてきた。二人は早速喉を潤した。

 「バンフではいろいろとありがとうございました。帰りの飛行機までチャーターしてもらって、本当にすみません」

 達郎はそう言って美由紀に頭を下げた。

 「ジョンのせいで休暇を切り上げたのだもの。当然よ」

 「ですが、達郎さんだけならまだしも私まで…。本当にすみません」

 久美子も頭を下げた。

 「水臭いことは言いっこなしだ。社に行くのは明日の午前中でいいから、今日はここで夕食を食べてゆっくりしていきなさい。いいね?」

 達朗と久美子は目を見合わせた。

 「二人とも狐につままれたような顔をして、どうしたの?」

 美由紀が笑いながら言った。

 「俺たち、怒られるのを覚悟できましたから、拍子ぬけして…」

 「ははは。怒ったところですでに二人でいるものを、どうしようもないだろう?子供ならまだしも、立派な大人なのだからな」

 「暴走する気持ちはわからないでもないわ。私たちにも似たような経験があるから。若さゆえよね。この年になれば、それも懐かしい思い出に変わるけれど…」

 「そうだな。今でこそ笑い話だが、当時はとてもつらかったよ」

 ジョンと美由紀は静かに見つめ合った。久美子は二人が不倫から始まったことを思い出した。

 「私は結婚自体、あまり意味がないことだと思っている。地球上で婚姻届を出すのは人間だけだ。動物はそんなことはしない。ただ求愛行動をし、交尾する。それが結婚なのだ。結婚とは所詮、人間がつくった形式にすぎない。“結婚”という儀式を行い、役所に届け出をし、法的に結婚しているという立場に置かれるだけだ。だが、多くの人間がそれを神がつくった掟のごとく錯覚し、その縛りに振り回されている。未婚者は結婚を得られないと苦しみ、既婚者は結婚を義務化し、逃れたいと苦しむ。人生で出会いが増すほど、価値観も変化する。価値観が変われば、選択基準も変わってくる。それが自然であって変わらないことが変なのだ。20年前に最高だと思って選んだ伴侶が、20年後も最高であるとは限らない。もしそうなら、それは互いにそうあってほしいと願い、そうあろうと努力した結果なのだ。素晴らしいから一緒にいるのではなく、一緒にいるために素晴らしくあろうとするのだ。その愛ゆえに」

 「夫婦とは所詮は他人。思いやりと尊敬がなければ一緒にはいられない。互いへの信頼と日常の会話があってこそ、成り立つものだわ。結婚生活に、独身のとき以上の自由を感じている夫婦は、どんなに忙しくてもコミュニケーションとスキンシップを怠らない。どんな些細なことでも話し合い、どんなに遠くても連絡を取り合い、二人で決めているわね」

 美由紀が補足した。

 「独身時代以上に自由を感じられる結婚なんてあるんでしょうか?」

 久美子が尋ねた。

 「もちろんよ。私とジョンはまさにそういう生活を送っているわ。結婚したことで喜びも二人分になったし、自由も倍になったわ」

 「でもそれは、経済力あってこその話ですよね?生活レベルが不労所得クラスまでいかなければ無理なんじゃないですか?」

 達郎が尋ねた。

 「不労所得って?」

 「働かなくても食べていける収入のことだよ。労働量が完全にゼロというわけじゃないけどね。ビジネスオーナーがいい例さ。会社を経営しているが、自分が社長なわけじゃない。社長を雇って複数の会社を経営し、そこから定期的に収入が入ってくる。他には株や投資信託を売却する投資家や、不動産収入で稼ぐ資産家、複利で資産を増やす金貸業、本やCDの著作権とか…。親方はこの全部をもっている」

 達朗の言葉に久美子は目を丸くした。

 「幸せでいることと金があることは、必ずしもイコールではない。金があっても孤独な人間はいるし、貧乏でも家族寄りそって幸せに暮らしている場合もある。確かに金で買えないものはない。あれば便利だし、それで多くの命を救うこともできる。ある意味、人の心も金で買える。だが、金はあくまで目的を達成するための手段であって、金自体を目的にしてはならない。そこをしっかりと理解しないと、金を追うだけの人生になってしまう。金を追うのではなく、金に追われるようでなければいかんのだ。金に心を支配される人間が、自分の器以上の金を持つと破滅してしまうのは、金を持つ本当の意味を履き違えているからだ」

 「宝クジが当たって人生が狂っちゃう人のことですね」

 久美子の言葉にジョンと美由紀はふきだした。

 「ははは。クミコはおもしろいことを言うね。まあそれも一例ではあるがね。これは汚い金でこれはきれいな金だとか、働いて稼いだ金とギャンブルで当たった金は違うとか、そういう観念も間違っている。金自体にきれいも汚いもない。ただそれを使う者の心が汚いかきれいかで、その金が姿を変えるのだ。金はきれいに流さねばならん」

 「流す?親方は金を“使う”とは言わないんですね」

 達郎の問いにジョンは笑顔で続けた。

 「金には名前を書かないだろう?金は万人のものであって、個人のものではない。金は持つものではなく、一時的に自分のところにとどまるだけのものなのだ。金を“天下の回りもの”と言うのは、そういう意味なのだよ。そして金は、水と同じでとどまり過ぎると腐ってしまう。だから、貯め込んで所有するのではなく、一定の金額を常に流しながら所有するのだ。人間の身体の中で細胞や血液が常に新しくつくり変わるのと同じだ。さっきも言ったように、金が入ってくるときも、その金にきれいとか汚いとか意味づけをしてはいけない。だが、出すときは生き金という意味づけをして使う。死に金にはけっしてしないことだ。生き金とは、その金がさらに次の金を呼ぶような使い方をいう。別に呼ぶのは金でなくてもかまわん。愛とか喜びとかでもいい。それを使うときに、自分のハートが温かくなるようでなければだめだ

 「衝動買いはどうなんですか?」

 久美子の質問にジョンは笑い転げた。

 「なかなかいい質問だ、クミコ。確かに一時的に喜びは得られるね。でも、その場だけで終わってしまうものや、最終的にストレスになり得るものに使うのは避けた方がいいだろう。要は負債を抱え込まないことだよ。衝動買いは精神的負債、例えば持ち家は物質的負債だ」

 「精神的なことにも資産と負債があるんですか?それに持ち家が負債だなんて…」

 久美子はそう言って黙り込んでしまった。美由紀がパンパンと両手を叩いた。

 「これくらいにしましょう。なぜいつもこういう話になっちゃうのかしらね。今はビジネスを論じている場合じゃないでしょ。もう、ジョンったら」

 美由紀はそう言ってジョンを睨みつけ、その場を切り上げた。

 その日のディナーは、テイラー邸シェフご自慢のフランス料理のフルコースだった。

 「達郎さんは仕事でバングラデシュに行ってしまうし、久美子さんはこれからどうするの?」

 美由紀が心配そうに尋ねた。

 「日本に帰ります。帰って夫とちゃんと話し合います。娘にも話します。理解してもらうのは難しいと思いますが…。就職活動もすぐに始めます」

 「そう。で、二人はこれからどうするつもり?」

 「久美子さんには中学生の娘さんがいます。俺は成人するまでまつつもりです。それに、今の俺は夫として、男としてあまりにも頼りないですし、これまで以上に精進して、結果を出せる仕事をしたいと思います」

 達朗は美由紀を真っ直ぐに見て言った。

 「なかなかよくわかっているじゃないか」

 ジョンがニヤニヤしながら言った。

 「ところでクミコ、一つきいていいかな?」

 「はい?」

 「タツローと出会わなければ、ご主人をずっと愛していたと思うかい?」

 久美子はしばらく考えて、答を返した。

 「いいえ。達郎さんと出会わなくても、心は離れていたと思います」

 久美子の冷めた表情と意外な答えに達郎は驚いた。

 「ふむ。修復の余地はない…か」

 「女は男以上に非情なものよ。情で愛することはあっても、溺れることはない。男性が情を引きずっている間に、女性はその情を断ち切ってゆく。男性ほど情には流されないってことね。男と女は精神の仕組みが違うのよ」

 美由紀が助け船を出した。その言葉にジョンと達郎は目を見合わせたが、久美子は静かにきいていた。

 「タツローも愛弟子ながら、クミコのご主人もなかなかの男だと思うがねえ」

 「夫と達郎さんを比べたことはありませんわ。私は今のままの達郎さんでも充分だと思っています」

 久美子の言葉に達郎とジョンは黙り込んでしまった。

 結局、その晩はテイラー邸に泊まり、達郎は翌朝早くハーレーで出勤していった。久美子はテイラー邸のベンツで達郎のログハウスまで送ってもらい、洗濯と掃除に精を出した。

 今夜はバンクーバーでの最後の夜となる。達郎の食事の仕度をするのも、二人で寄り添って眠るのも、今度はいつになるのか見当もつかない。久美子の胸に家族の住む世田谷の風景が蘇った。

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第43章 日本帰国

 達朗と久美子はバンクーバーを発った。バンクーバーと日本の時差は通常日本マイナス17時間だが、今はサマータイム(4月の第1日曜日~10月の最終日曜日)のため、時差は日本マイナス16時間となり、到着は日本時間の翌日となる。所要時間は9時間~9時間半と、フライト時間としては短い方だ。数週間前、ハンドバッグ一つで出国した久美子だったが、今は中型のスーツケース一個に、バンフで購入した絵画を脇に抱えていた。

 二人は空港内のカフェで話をした。

 「君と日本にいるなんて、不思議な感じがする」

 「そうね。いつもカナダで会っていたからかしら」

 「日本人同士なのにな」

 二人は顔を見合わせて笑った。

 「君はこれからどうする?」

 「今夜は品川プリンスに泊まるわ。いきなり家には帰れないし。夫にはホテルから連絡をとるわ。あなたは?」

 「俺は東京から一気に松本に帰る」

 「一気って…。松本まではかなりあるでしょう?今日中に着けるの?」

 「うん。新宿駅から松本行きの高速バスが出てる。里帰りするときはいつもそれさ。3時間ちょっとで着いちゃうんだ」

 「今夜は実家に泊まるの?」

 「いや。今回は実家に顔を出す余裕はないよ。どこかのビジネスホテルに泊まる」

 「彼女には?」

 「昨日電話した。明日は日曜日で仕事も休みだし、昼飯を兼ねて会うことになってる」

 「全然気づかなかったわ。やることが早いのね」

 「バングラ行きが控えているからね。時間がない。それに俺の場合は報告だけで、君のように法的にどうのというわけではないし。ここだけの問題だからね」

 達朗はそう言いながら右手の親指で心臓を指さした。

 二人は成田エクスプレスに乗り込んだ。達郎は東京駅、久美子は品川駅で降りることになる。二人は向かい合って座り、言葉を交わすことも、窓から風景を眺めることもなく、互いの顔をずっと見つめていた。

 東京駅のホームで達郎は久美子を見送った。出発と同時に目の前から達郎の姿が消えると、久美子は急に不安になった。だが、弱気になってなどいられない。すべてはこれからなのだ。それに達朗はまだ日本にいる。それだけが今の心の支えだった。

 品川駅に着いた久美子は、そのままホテルに直行した。部屋の窓から東京タワーが見える。2、3回深呼吸をした後、夫の携帯に電話を入れた。心臓は呼び出し音に比例してバクバクと音をたて、電話をもつ手は震えていた。

 「久美子か?」

 夫の声のトーンはいつもと変わらなかった。

 「はい…」

 「今、どこだ?」

 「品川の…プリンスホテルにいます。忙しいところ申し訳ないけれど、あなたの都合のいいときに時間をもらえないかと思って…」

 「いいよ。今夜はそこに泊まるのか?」

 「え、ええ」

 「わかった。今日中に時間を空けるよ。夜になってしまうがいいかな?」

 「私はいつでも…」

 「じゃあ、7時にそこのラウンジでどうだい?」

 「お願いします」

 「じゃ、後で」

 夫はそう言って電話を切った。久美子は夫の穏やかな態度に拍子ぬけしてしまった。

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第44章 罪と罰

 その日の夜、夫は時間よりだいぶ遅れてきた。

 「またせてすまなかったね。商談が長引いてしまって」

 「そんなことは別に…」

 「だいぶ日に焼けたようだな。バンクーバーは変わりなかったか?」

 「……」

 「ふっ。聞かれて“はい、行ってきました”とは言えないか」

 久美子は下を向いたまま、口をつぐんでしまった。

 「君が言いたいことは、おおよその見当はついている。その前に美樹のことだが…」

 「美樹がホームステイから帰る日はわかっていたのに、私は戻らなかった。母親失格よ。美樹には私からちゃんと話します」

 「美樹は今、田園調布のお義母さんのところにいる」

 「母のところに?」

 「ああ」

 「美樹も実家の母も呆れているでしょうね」

 「美樹が家を飛び出した原因は君じゃない。原因は僕だ。女がいる」

 「えっ」

 「気づかなかったか?もう10何年も一緒に暮らしてきて。僕が休日に家にいないのも、家で食事をしなくなったのも、本当に仕事だと思っていたのか?」

 「……」

 「気づかなかっただろうな。カナダから戻っても、君の心は日本になかった。君の心はこいつのことでいっぱいだったからな」

 夫はそう言って一枚の封書を投げてよこした。その封書には探偵事務所の名前が書かれていた。

 「これは…」

 「調べさせてもらったよ。君とこいつがどこで会ったか、いつそういう仲になったのか、全部ね。どんなに立派な男かと楽しみにしていたのに…。何なんだ、これは」

 「何って…」

 「大学も出ていない高校出の、しかも田舎の三流高校だ。職を転々として、長く続いたためしがない。挙句、長年の恋人を放り出してカナダに移住し、運よくテイラー会長に拾われたことをいいことに、その別荘に居候して。会長のもの好きにも程がある。まあ億万長者というのは、我々凡人とは視点が違うから何とも言えないが…。一流のビルダーでも何でもない。こんな奴のどこがいいんだ?こいつは前の女とも切れていない。つまり、君はあそばれているだけだ。そんな男のために僕と美樹を捨てようなんて、君はどうかしてるよ」

 「私のことは何と言われても仕方がないわ。でも、達郎さんの過去まで否定する権利はあなたにはないわ」

 「君はこんな男を“さん”付けで呼んでいるのか?しかも、こいつの経歴を承知でつきあっていたとは驚いたな」

 「あなたが学歴や経歴で人を判断する人だとは思わなかったわ」

 「僕だって、学歴がなくても立派な人間は山ほど知っているし、敬意もはらうよ。だが、これはあまりにひどい。同じ浮気をするなら、もう少し相手を選べ」

 「浮気じゃないわ」

 「なんだって?」

 「浮気じゃなくて本気よ。それに、達郎さんはあなたが言っているような人じゃないわ」

 「こっちも同じように浮気をしていたと知って、強気に出たか」

 「浮気?あなたは本気じゃないの?」

 「本気であるわけないだろう!ひとまわりも年下の小娘に。向こうが勝手に熱をあげて、抱いてほしいというから抱いてやったんだ。勝手に失恋して、辞表を出してやめていった。子供も堕ろすように言ったし、そのための金も渡したのに…」

 「子供?」

 「ああ。来月生まれるんだ。先月、偶然会うまで全然知らなかった。本人は産むと言い張るし、臨月じゃどうにもしようがない。認知だけはするつもりだ」

 「堕ろすなんて…。あなた、何てひどいことを…」

 「僕は完全にあそびだった。向こうもそれを承諾しての関係だったんだ。当然だろ」

 「相手のひとは本気なのね。会社を辞めたのも子供を産みたいから…。偶然会ったってことは、あなたにこのまま会わなければ一人で産んで育てるつもりだったのね。だから、あなたは認知を?」

 久美子の言葉に鈴木は黙って目をそらせた。

 「さっきの発言は子供を持つ母親として、女性として許せないけど、そう言いながらもちゃんと認知するところがあなたらしいわ」

 「君は…何も感じないのか?」

 「えっ?」

 「他の女と僕がそういう関係だったと知って、しかも子供までできて、来月にも生まれるっていうのに、顔色ひとつ変えない。自分の亭主の子供を他の女が産もうとしているんだぞ!君はそれでも平気なのか!」

 「それは…」

 「平気なんだな!だが僕は、それでも君とは別れないぞ。美樹には君とそいつのことは話していない」

 「えっ」

 「彼女が流産しそうになって入院したんだ。ようやく退院できて、病院から付き添って出たところを、美樹に見られた。それで、美樹は家を飛び出した。君は僕の浮気が原因で家を出たことになっている。お義母さんやお義父さんにはそう言って頭を下げて、美樹を預かってもらった」

 「そんな…。あなたがその人とそうなったのは、私にも原因があるわ。あなたひとりを悪者にするわけにはいかないわ」

 「うぬぼれるな!第一、僕と別れてどうするつもりだ?ひとりで食べてもいけないくせに」

 「それは…。でも、ひとりでも食べていけるように、昼だけじゃなく夜も働くわ」

 「無理だな。英会話教室のバイトでさえ一年も続かなかったのに。社会はそんなに甘くない」

 「そんな言い方ひどいわ。とにかく、私の心は変わらない。あなたはあなた、私は私よ。私は私のことを美樹にも、両親にもちゃんと話すわ」

 「君はそれでも母親か。父親の浮気に傷ついて家を出た娘に、母親まで浮気をしていたと、ましてやその男を追ってカナダまで行ってきたと言うつもりか?」

 「それは…」

 「君がどんなに本気と豪語しようと、世間はそれを浮気と呼ぶ。そこに正統性はない。裁判で法的に罰することもできるんだ」

 「罰する?」

 「世間知らずだな、君は。勝訴した側は配偶者と不倫相手に慰謝料を請求できるんだ。まあ、今となってはお互い様だが…。“不倫”とはそういうものだ。それほどに、社会で結婚が占めるウエイトは大きいんだ」

 久美子は黙ってしまった。

 「今回のことでは僕も深く反省している。君だけを責めるつもりはないよ。君にとって美樹が宝であるように、僕にとっても同じだ。身勝手だが、これ以上美樹を傷つけたくない。君の中に母親としての自覚が少しでも残っているなら、これ以上ことを大きくしないでくれ」

 「でも、私はもうあなたと…。それに、生まれてくる子供とその人はどうするの?」

 「どうもしない。彼女は認知だけで充分だと言っているよ。だが、僕は認知する以上は、生活のめんどうはちゃんと見るつもりだ。それくらいの経済力はある。彼女もすぐには無理だが、子供を預けて働くと言っている。もともと仕事はできて、優秀な娘だ。まだ若いし、転職においては、君に比べると何の問題もない。君と離婚しないことも話してあるし、それは彼女も納得している。古いかもしれないが、愛人とはそういうものだ」

 「しっかりしたお嬢さんじゃない。私なんかよりよほど…」

 「感心するなよ」

 「なぜ、そんなにまでして私を?」

 「もう、いい加減にしろ。まだわからないのか?僕の気持ちはどうなる?こんなことになってしまったが、僕は今でも君を愛してる。君をそんな頼りない男に渡せるか!僕の認めた男でなければ、僕と同等か、僕以上の男でなければ納得できない!」

 「……」

 久美子は夫以上の男になって迎えに来ると言った達郎の言葉を思い出した。久美子にとっては達郎が一流のビルダーであろうと、なかろうと関係ない。達郎には達郎の良さがあり、夫には夫の良さがある。どちらが優れているとか、劣っているということではない。人を愛するのに条件は必要ない。理由などないのだ。だが夫も達郎も、互いを意識して張り合おうとしている。

 「渡すとか渡さないとか、私は…女は物じゃないわ」

 「結婚している限り、君は僕のものだよ。法律とはそういうものだ」

 男はなぜ、そういう考え方しかできないのだろう。久美子は深いため息をついた。

 「わかったわ。美樹には…今は言わない」

 久美子は夫の申し出を承諾した。14歳の娘に両親が揃って不倫をしていると告げるのは、確かに酷な話だ。久美子は母親である前に、女であろうとした浅はかさを恥じた。

 翌日の夜、夫は車でホテルまで迎えにきた。夫はまず自分の実家に行き、事情を説明した。夫の両親や兄弟はことの顛末にあきれ、子供の認知にも難色を示したが、夫は譲らなかった。そして夫は、久美子と達郎のことはいっさい言わなかった。

 次に久美子の実家に向かった。そこで夫は久美子の両親に土下座をした。子供を認知すること、養育費を支払うことを承諾してもらい、相手の女性と会うときは弁護士を通すことを約束した。久美子はここでも寛容な妻を演じねばならなかった。久美子は良心の呵責に苦しみながら、これは夫が自分に下した罰なのだと思った。

 帰りの車の中で、美樹は夫の問いかけに何も答えなかった。夫の淋しそうな表情が、久美子の心に残った。

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第45章 別れ

 達郎の郷里、長野県松本市は国宝松本城を中心に栄えた城下町である。また、北アルプスをはじめ上高地や美ケ原高原など、多くの名勝地を有し、夏は日本全国からの観光客やアルピニストで賑わう。

 達朗と由起子は、松本駅を出てすぐの小さな路地にあるマンガ喫茶で待ち合わせをしていた。達郎はこの店の自家焙煎コーヒーが好きで、帰郷したときは必ず訪れている。そこは達朗と由起子の学生時代からの馴染みの店でもあった。

 一番奥の、西日が差し込むテーブルが二人の指定席で、由起子はいつも達郎より早く来て文庫本を読んでいた。由起子はセーラー服がよく似合った。達郎は店に入ってもすぐに由起子のもとには行かず、店内にあるコミックを物色するふりをして、その横顔に見とれたものだ。その美しさを存分に拝んだところで、「まった?」と声をかける。成績優秀で美人の由起子は男子生徒の憧れの的で、自慢の彼女だった。

 店に着くと、由起子はすでにきていて本を読んでいた。達郎は昔そうしたように本を物色するふりをして、由起子を見つめた。窓から差し込む薄日に照らされ、栗色の髪と同じ目の色がより明るく見える。30代後半になった今も、由起子は変わらずきれいだ。久美子も美人だが、二人の美しさは対照的で、久美子は清楚な純日本風の美人であり、由起子は華やかな西欧風美人で、花にたとえたら久美子はカサブランカ、由起子はカトレアだった。

 達朗はいつものように声をかけることができないでいた。何と言えばいいのだろう。「別れてくれ」、「おまえとはやっぱり結婚できない」、いや、単刀直入に「好きな女ができた」と言うべきか。わかりやすくて手っ取り早いからと、場所をここにしたのが失敗だった。この店には思い出がありすぎる。

 「達郎!」

 達郎に気づいた由起子が手を挙げた。くったくのない笑顔が達郎の胸を刺した。

 「やあ。二年ぶり…かな。元気だったか?」

 達朗はそう言って由起子の向かいに腰をおろした。

 「見ての通りよ。仕事もうまくいってるわ」

 「そりゃよかった」

 達郎と由起子のもとにいつものコーヒーが運ばれてきた。

 「あなた、去年は日本に帰ってこなかったものね。今回も明後日には発ってしまうなんて。海外事業部って忙しいのね。今度はどこにいくの?」

 「バングラデシュ」

 「バングラデシュって、確かとても暑い国よね。涼しいカナダからいきなりそんなところに行って大丈夫?」

 「昼間はやらないよ。朝晩の、いくらか暑さがマシになった頃にぼちぼちやる」

 「だったらいいけど。無理しちゃだめよ」

 「うん…」

 「ところで、昨夜は実家に泊まったの?」

 「いや、駅前のホテルに泊まった」

 「あらあら。わかった!着いたのが遅かったのね。気を遣わないでくればよかったのに。ばかね。当然、今夜はうちに泊まるでしょ」

 由起子はそう言いながら、達郎にウインクした。達朗は言葉に詰まってしまった。

 「突然だったから冷蔵庫に何も買い置きしてないのよ。知っての通り、私は料理が全然ダメだし、ふだんは外食かスーパーのお惣菜専門だし」

 「……」

 「今夜一晩だけじゃ、お寿司でもとってのんびりしようか」

 「由起子…」

 「うん?」

 「俺…今夜はおまえのところに泊まらない」

 「あら、そうなの?もしかして、実家に帰るって言っちゃった?」

 「いや、そうじゃない。今夜だけじゃなく、これからも…もうおまえのところには泊まれないんだ」

 由起子の顔から笑顔が消えた。

 「今夜も昨日と同じホテルに泊まる」

 「結婚…するの?もしかして、もう向こうで誰かと結婚…しちゃったとか?」

 「いや。当分結婚の予定はないよ」

 由起子はほっと一息ついた。

 「じゃ、どうして?」

 「すぐに結婚とかじゃないけど、結婚したい女ができた」

 「!」

 「すまない」

 達郎はそう言いながら頭を下げた。

 「それを言うために…わざわざ?」

 「そうだ」

 「どんな人?」

 「えっ?」

 「きれいな人?性格は?年は?仕事はどんなことしてる人?カナダ人?」

 「日本人だよ。美人だけど、おまえとは違うタイプだ。性格も…おまえはどんどん行くタイプだけど、彼女は考えて納得しないと動けないタイプだ。仕事は…今は失業中で、年は俺たちと同じだ。バンクーバーで知り合った」

 由起子は黙って下を向いてしまった。

 「だから、俺はもうおまえとは…」

 「……」

 「別れてほしい」

 「別れる?」

 「ああ」

 「別れるも何も、ちゃんとつきあってないじゃない」

 「え…」

 「つきあうっていうのは、定期的に電話したり会ったりするのをつきあうっていうのよ。一年に数回会うか会わないかの、電話もろくにしない、メールも手紙もない、そういうのはちゃんとつきあってるとは言わないわ!」

 「…確かに俺が無精だったのは認めるけど。じゃあ、これまでの俺たちは何だったんだ?おまえは俺の恋人で、俺はおまえの恋人じゃなかったのか?俺はずっとそう思っていたけど、おまえは違ったのか?」

 「……」

 「おまえにすぐにわかってくれとは言わないよ。だけど…」

 「そんな言葉をきくために、今まであなたのパターンに合わせていたわけじゃないわ」

 「由起子」

 「そんな言葉をきくために、あなたをすんなりカナダに行かせたわけじゃない…」

 由起子の瞳は潤んでいた。

 「おまえは俺と結婚するつもりでいたのか?」

 「……」

 「俺をこの齢までずっとまってくれていたのか?」

 「結婚なんて望んでないわ。望んでないけど…。あなたと私でいられさえすれば、結婚しなくても、それでよかった…」

 由起子の瞳から涙がこぼれた。

 「俺は…いずれはおまえと結婚すると思ってた。そうなるだろうって思っていたよ」

 「……」

 「もう何年も、俺にはおまえだけだったから。彼女に会うまでは…。それだけは信じてくれ」

 二人の間に沈黙が流れた。由起子と初めて会ってから今までのことが、達郎の脳裏に蘇った。

 「行くよ」

 由起子が驚いて顔を上げた。

 「今夜のホテルはキャンセルして、この足でそのまま東京へ行く。しばらくここ(松本)には戻らない」

 「達郎…」

 「じゃ」

 達朗はそう言って席を立った。達郎は支払いを済ませ、店を出て行った。

 「達郎!」

 由起子があとを追いかけてきた。

 「どうした?」

 「送るわ。いつもみたいに」

 「由起子…」

 「そうさせて。ね?」

 達郎が部屋で荷物をまとめている間、由起子はホテルのロビーでまっていた。達郎は松本駅から「あずさ」で東京(新宿)まで戻ることになった。由起子はホームまで見送りに出てくれた。列車に乗り込む時、由起子は後ろから達郎に抱きついた。

 「元気でね…」

 列車のドアが閉まった。達郎は席にはつかず、その場に立ったまま、ドアの窓越しに由起子を見つめた。由起子の瞳は潤んでいたが、顔は笑顔だった。

 「あ・り・が・と・う」

 達朗はゆっくりと由起子に語りかけた。その唇の動きで由起子は達郎が何を言っているのかわかった。由起子が頷くのと同時に列車は出発した。由起子の頬に涙が伝ったその時、達郎の頬にもひとすじの涙が伝っていた。

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