第46章 旅立ち
達朗は新宿でリムジンバスに乗り換え、成田に直行した。久美子のいる東京に泊まる気にはなれなかった。由起子を切り捨てた罪悪感が、達郎の心に重くのしかかっていた。
成田では空港に隣接するマロウドインターナショナルホテルにチェック・インした。通された部屋は7階にあるダブルルームだった。滑走路の真横に位置しているため、離着陸するジャンボジェット機を窓から眺めることができる。
ルームサービスが運ばれてきた。サンドイッチを片手に、鞄から出してきたスケジュール表に目を通す。
明日の午後に成田を発ち、バンコク経由でダッカ(バングラデシュの首都)に向かう。プロジェクトパートナーである新庄やエコロジカル・ログ・カンパニーのビルダーたちとはダッカのシェラトンホテルで落ち合うことになっている。翌日の午前中には現地のスタッフと顔合わせを兼ねたセレモニーがあり、午後は打ち合わせとなる。着工は翌々日で、工期は3か月と短い。ひと月後には新しく提携先に加わった日本企業3社の責任者がスタッフ数名を引き連れ、見学と研修にやってくる。案内役は総括責任者である達郎が担当し、その晩は達郎、新庄、日本企業3社の責任者と懇親会をすることになっている。
久美子の携帯に電話を入れたが、留守電になっていた。達郎は成田のホテルにいることだけを告げて電話を切ると、提携企業のスタッフリストに目をやり、深いため息をついた。
一方、久美子は娘とのコミュニケーションに頭を悩ませていた。寝室を別にしただけで、取り立てて夫を責めようともしない久美子に、美樹は不信感を募らせていた。久美子に対しても心を閉ざし、部屋にとじこもったままだ。新学期を明日に控え、高校の志望校も話し合って決めねばならないというのに、口をきいてくれないのでは話にならない。
バンクーバーを発つ前、達朗と久美子は以前ジョンが案内してくれた赤杉の森を訪ね、その中でひときわ大きい“生命の木”に未来の誓いを立てた。ジョンと美由紀のように互いを解放し合えるような夫婦になろうと。
だが現状は離婚、再婚どころではない。夫の言うように達朗のことは告げないで正解だった。そして達郎が言ったように、まだその時期にはきていない。家庭をもつ久美子にとって、達郎との結婚は複数の人間の犠牲の上に成り立つものだ。久美子は達郎への愛に酔いしれ、舞い上がっていた自分を戒めざるを得なかった。
夕食の片づけを終え、自分の部屋におちつくと、携帯に達郎のメッセージが入っていることに気がついた。折り返し電話を入れたが、留守電だった。久美子もメッセージを入れ、電話を切った。
達郎はホテルのサウナから戻ると、ビール片手に窓から見える夜景をぼんやりと眺めた。携帯の留守電を解除しがてら、そのメッセージを聞く。明日の朝、久美子から連絡を入れるということだった。夫の出勤時間と娘の登校時間を見計らってということだろう。遠く離れても連絡を取り合い、支え合おうと誓い合ったものの、現実は電話ひとつままならない。不倫とはこういうものかと達郎は思った。
明朝、達朗は携帯の呼び出し音で目が覚めた。
「もしもし…」
「久美子です。今、ロビーにいるのだけど」
「えっ、ここに?」
目をこすりながら時計を見ると、午前9時を回っていた。
ほどなくして久美子が部屋にやってきた。達郎はパジャマのままだった。
「今まで寝ていたの?」
「ああ、ゆうべ寝付けなくて…。寝たのが明け方近かったんだ」
「起こして悪かったわ。でも、そろそろチェック・アウトの時間でしょ?急がないとまずくない?」
「大丈夫だよ。飛行機の時間に合わせて遅らせてもらった。わざわざ見送りにきてくれたの?」
「今度はいつ会えるかわからないし…」
「工期の合間になるべく日本にくるようにするよ。ただ、君は俺と違って自分だけのスケジュールで動くわけにはいかないから、会えても一時間か二時間がせいぜいかな」
「あなたは…それでいいの?それだけの時間のためにわざわざ日本にくるの?一年に二度か三度、そんな時間だけの、そんなつきあいを何年も続ける自信があって?そうなっても気持ちは醒めないと、疲れないと言い切れる?」
久美子の不安気な、それでいてすがるような瞳が印象的だった。
「何事もやってみなければわからないもんだよ。今言ったのは、本当に最悪の場合で実際はもっと時間がとれるかもしれないだろう?俺は、やると決めた以上はいい方にフォーカスする。あの木の前で誓い合ったじゃないか。俺たちはこれからなんだよ。ずっと一緒に生きていくんだ。パートナーの君がそんなに気の弱いことじゃ困るよ」
達朗は笑顔でそう言うと、久美子をそっと抱きしめた。二人は唇を重ねながらベッドに倒れ込んだ。
レースのカーテン越しに薄日が差し込んでいた。達郎は久美子の首に腕を回し、その顔を覗き込んだ。久美子の頬は蒸気したままだ。二人の心臓はまだ脈打っていた。
「達郎さん、長野の相手の人は何て…?」
「うん。納得はしてないけど、理解はしてくれたよ」
「そう…」
「君の方は?」
「夫には話したけれど、娘にはまだ…」
「そうか。ご主人は何て?」
久美子は目をそらせ、下を向いてしまった。
「正直に言ってくれていいよ。君は俺のことを何て話したの?」
「何も…。主人の方から先に…。あの人、あなたのことを調べて…」
「調べるって、探偵を雇ったとか?」
久美子は黙って頷いた。達郎は吹きだした。
「テレビドラマじゃあるまいし、そういうことってあるんだね」
「笑いごとじゃないわ。でも…そういうやり方ってどうかと思うわ」
「悪いのはこっちだから、とやかくは言えないよ。それで?」
久美子はまた黙ってしまった。
「だいたい想像はつくけどね。俺の経歴はメチャクチャだから。呆れていただろ?」
「…それだけじゃないの」
「うん?」
「あの人、あなたを法的に訴えることもできるって、慰謝料も請求できるって…」
「金を払えば君と結婚できるのか?だったら、どんなことしてでも払うけど?でも、そんなに簡単じゃなさそうだね」
達朗のくったくのない笑顔に、久美子は拍子抜けしてしまった。
「そこまで言われたんなら、話した方がいいかな。今やってる仕事のことだけど」
「アジアプロジェクトのこと?」
「うん。このプロジェクト、日本で締めくくることになったんだ」
「じゃ、あなたはその間日本にきて仕事をするの?」
「まだ先だけどね。そこで日本での提携先だけど、一番の提携先が各務商事なんだ」
「主人の会社と?」
「うん。ログ材は各務商事を通して仕入れる。先方のたっての依頼でね。今回のプロジェクトに限らず、日本の木材の仕入れは各務商事に一任することが決まった。先方の責任者はご主人だ。今回のプロジェクトの担当責任者でもある。つまり、日本で俺はご主人と組んで仕事をすることになる」
「顔を合わせるってこと?」
「そうなるね。こっちの責任者は俺だから。何度も打ち合わせをしたり、一緒に現場に詰めたり…。ビジネスパートナーなわけだから、工期が始まったらベッタリさ。ひと月後にご主人がスタッフを連れてバングラに視察にくる。研修を兼ねてね。これは社長命令でね。一昨日、聞かされたばかりだ。急に決まったらしい」
「じゃ、あの人はあなたと一緒に仕事をすること…」
「承知だ」
「バングラデシュに行くなんて、そんなこと一言も…」
「ご主人は仕事のことはあまり話さないって、以前言ってたじゃないか」
「それはそうだけど…」
「まだ先のことだからかもしれないよ。それに、俺の名前なんて出したくないだろ。今回の話は各務商事の社長がうちの社長直々に申し入れて決まった話だ。ご主人だって驚いたはずだよ。それに、俺よりもご主人の方がやりにくいんじゃないかな。俺の方がユーザーなわけだから」
「ユーザー…」
「メーカーはユーザーに頭を下げる立場だからね。俺はそういうことは意識しないタチだから、パートナーとして対等に接するけど。日本の業界は上下関係が徹底していて、固いんだ。フレンドリーじゃない。だから、その仕事こっきりってのが多いね。その後も一緒にプロジェクトを立ち上げようとかって話にならないんだ」
「主人と仕事をすること…あなたは割り切っているのね」
「仕事は仕事、プライベートはプライベートだよ。まったく平気ってわけじゃないけどね」
空港の発着ロビーはことのほか空いていた。出発掲示板の下で二人は別れを惜しんだ。
「国際電話は費用がかさむ。連絡を取るときはこれを使ってくれ」
そう言いながら達郎が差し出したのは、ノキアの携帯電話だった。
「俺たちの伝達手段はこれだけだ。この携帯なら世界中どこにでも、どこからでも通じる」
「ごめんなさい。あなたにばかり負担をかけて…」
「君は今失業中だ。仕方ないじゃないか。だろ?」
達朗はそう言って笑った。
「それからこれも」
達郎は鞄から一冊の本を取り出した。
「俺が一番好きな本だ。おちこんだときに読むと元気になれる。君にやるよ」
“Unlimited Power”と書かれたその本は、久美子が達郎の部屋で観たDVD、アンソニー・ロビンズの原書(英語版)だった。
「じゃ、いくよ」
達郎は一瞬久美子を抱き寄せ、笑顔で去って行った。
久美子は見学デッキから達郎の飛行機を見送った。達郎は人生で起こるすべてを受け容れて生きているように思えた。自分の信じる道をまっすぐに歩いて行く達郎を見ていると、誰に頼らなくても生きていける人間になりたいと強く思う。
今はまだ“鈴木久美子”という肩書を放棄することは許されない。逃げて逃げ切れるものでもない。その中で自分ができることをせいいっぱいやるだけだ。まずは娘と正面から向き合おう。そして、何としても社会復帰を果たす。感傷に浸っている間にやることはいくらでもある。
空はどこまでも青かった。達朗を乗せた飛行機はもう見えない。この空に浮かぶ雲のように今は漂っていよう。但し自分の意志で。
久美子は笑顔で空港をあとにした。
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