第47章 肥沃の大地
バングラデシュはインド亜大陸の東に位置する南アジアの小国である。日本の北海道ほどの国土に1億5000万人(推定)が暮らし、国民の65%が農業を営んでいる。平均所得は日本の20分の1で、世界最貧国の一つだ。ガンジス、ブラマプトラの2大河川がつくる巨大デルタ地帯に位置し、ブラマプトラ川は洪水のたびに分布が変化する。洪水は国に豊かな土壌をもたらすが、国土の3分の1を水浸しにしてしまう。乾季は干ばつにも見舞われるため、食糧自給が追いつかず、バングラデシュでは年間100万トン以上の食料を海外から輸入している。
気候は亜熱帯モンスーンで、季節は夏(4月中旬~6月中旬)、雨季(6月中旬~8月中旬)、秋(8月中旬~10月中旬)、露季(10月中旬~12月中旬)、冬(12月中旬~2月中旬)、春(2月中旬~4月中旬)に分かれ、雨季の洪水、サイクロン、竜巻、海嘯(かいしょう・河口に入る潮波が垂直壁となって河を逆流する現象)による被害は、森林破壊・土壌劣化・侵食にまで及んでいる。400万人以上が海抜3メートル以下のデルタ地帯に暮らすため、海面が1メートル上昇した場合は、国土の17.5%が水没し、150万人が家屋を失うといわれている。
「とんでもないところだな」
達朗はバングラデシュの情報書類に目を通しながらぽつんとつぶやいた。
着陸態勢に入った飛行機が高度を下げてゆく。窓から見えるのは川や沼、湖ばかりだ。ダッカに近づくにつれ、ようやくマンション、道路、家が姿を現した。本当に首都かと疑うくらいビルが少ない。あってもボロボロで、今にも崩れそうだ。貧しい国というのは首都でさえこうなのかと、達郎は思った。
空港の入国審査前はとても混雑していた。機内で入国カードを配らないため、ここで書類を見て書き込むのだ。書類を書いてから審査が終わるまでかなり待たされた。荷物を手に取るまで二時間以上かかった。荷物がちゃんと届いただけでよしとする、それがアジアだ。
税関を抜けて空港の外に出ると、鉄格子の外側に人だかりができていた。たくさんの目がこちらを見ている。現地のガイドが駅まで迎えにきているはずだ。しかし、この人だかりはいったい何なのか。観光地のないこの国に、団体ツアー客が来るわけはなく、外国で暮らして里帰りなんていう人間もそうはいないだろう。それとも大金持ちに仕える召使いが、バカンスから帰国した主人を総出で出迎えているのか。
「お~い!沢木!こっちだ、こっち!」
聞きなれた声にふりむくと、新庄が手を振っていた。新庄は現地のガイドと一緒に達郎を迎えにきたのだ。頭にバンダナを巻き、Tシャツにひざ下ぎりぎりのパンツ、ビーチサンダルを履いている。飛行機から見た街の風景にも唖然としたが、そんな新庄に対しても言葉が出なかった。どこからみても放浪者で、とても大手企業の経営者には見えない。
「久しぶりだなあ。元気だったか。うん?おまえ、ちょっと日に焼けた?」
新庄はそう言って達郎の肩に腕を回した。
「新庄、おまえ、その格好…」
「郷に行ったら郷に従えさ。アジアを歩く時はこれにつきる。おまえはもってこなかったのか?」
新庄はそう言って片足を少し上げ、ビーチサンダルをぶらぶらさせて見せた。
「工期が終わるまで沢木さんのお世話をさせていただきますアーロンです。よろしくお願いします」
新庄の後ろに立っていた青年が笑顔で話しかけてきた。きれいな日本語だ。後でわかったことだが、彼はかつて日本の工場で働いていたということだった。
「沢木です。これから世話になります」
達朗はそう言って右手を差し出した。アーロンは照れ臭そうに右手を差し出し、握手に応じた。
3人でまたせてある車に向かう。その間も鉄格子の向こうにある多くの目は、変わらずこちらを凝視している。
「気になりますか?」
アーロンが達郎に声をかけた。
「ちょっとね。彼らはいったい誰を迎えにきてるの?」
「彼らは全員物乞いです」
「えっ」
「あそこにいるのはほぼ90%がプロだろうさ。五体満足だし、身なりがまともだ」
新庄が口をはさんだ。
「乞食にプロなんてあるのか?」
達郎はあきれ顔で新庄を振り返った。
「アジアじゃ乞食だって立派な商売なんだよ。この程度で驚いてちゃプロジェクトリーダーは務まらないぜ。おまえはまだアジアを知らない。売上を上げるために、子供の手足を切断する親だっているんだ」
「売上って、乞食業のか?」
「インドのムンバイへ行ってみろ。手足をもぎとられたガキが路上にごろごろ転がって、金をせびっているさ。バングラの次はインドだからな。ここで免疫つけとけよ」
「つまり…俺たちが建てる学校に、すべての子供はこられないってことか?」
「乞食は学校にはこれないさ。同じ乞食でも親元にいる子供はまだいい。平気で子供を売る親だっている。生まれた子供が障害者なら物乞いとして使えるが、そうじゃない子は売り物さ。売られた子供は奴隷としてこき使われたり、男娼や娼婦にされたり。さらわれて殺される場合もあるぞ」
「殺すって…誰が殺すんだよ」
「闇市の臓器ブローカーさ。殺して臓器を売っぱらう」
「さらわれるのは…孤児か?」
「ばかいえ。近所のちゃんとしたガキでも誘拐して売っぱらうんだよ。バングラだろうがどこだろうが、本当に治安が悪いところっていうのはな、行方不明なんてザラなんだよ」
ガイドのアーロンはそんな新庄の話に顔色ひとつ変えず、黙ってきいていた。
路上に出て目に飛び込んできたのは、人力車(人力自転車)の大群だった。オートリキシャと呼ばれる三輪バイクタクシーも走っている。車は日本の中古車だらけだ。そこに運転マナーは存在しない。速度は常に猛スピードで、カーブだろうが平気で追越しをかけていく。日本ではクラクションは歩行者への警告に使うが、ここでは「邪魔だ、どけ」の意味で使う。新庄によれば、それはバングラデシュに限らずパキスタンやインドでも同様だという。
車は海沿いの道を走ってゆく。船に荷物を積み込むコンテナはなく、ここでもすべてが人力だ。しばらくして車は街の郊外に入った。川向こうのビルはスカスカで枠組みしかなく、道路は舗装されていない。豊かな緑だけが妙に眩しい。
車は2時間ほどして大きな空き地に着いた。車を降りると、カンボジアのときと同じように、たくさん人が集まってきた。
「ここがおまえの作業場だ」
そこにはすでに材木が並べられ、盗難を防ぐために雇われた護衛?が数人、警護にあたっていた。現場の写真は前もって渡されていたが、実際にその場に立つと身が引き締まる思いがする。
「おまえ、ここにどんなのを建てるつもりなんだ?会長から今度のプロジェクトの設計は全部おまえがやっているってきいたけど。ここに本当にログハウスを建てるつもりなのか?」
「当たり前だろ。そういうプロジェクトなんだから。ただの学校じゃ意味がないんだよ。ログハウスのPRも兼ねているんだから。うちの親方は慈善事業はやらない主義だしな」
「しかしなあ、こういうところにログハウスっていうのは、どんなもんかと思うけどね。まあ、こっちとしてはスポンサーにとやかく言える立場じゃないが…。会長の考えはともかく、そこのところをおまえ自身はどう考えてる?」
「どうって…」
「そうか。おまえはこっちの世界を知らないんだったな。まあ、いずれわかるさ」
新庄はそう言って達郎の肩をポンと叩いた。
その地域一帯の地主だという年寄りがやってきた。達朗と新庄はその家に招かれた。豪華な造りだった。
邸宅をあとにするとき、車の周りに子供たちが集まってきた。ダッカの路上で見たみじめな子供とは違う。排気ガスと埃にまみれ、乞食をしている子供の目は虚ろで、笑顔になど縁がないようだった。今、目の前にいる子供たちのくったくのない笑顔はどうだ。達郎の胸は痛んだ。
「なあ新庄、俺たちのやることは本当に小さいんだな」
「金持ちが先で貧乏人は後回しだが、それでもやらないよりはましさ」
「俺たちの手が、底辺に届くにはどれくらいかかるんだろうな」
「よそ者がその国の人間をどうにかしようなんて傲慢さ。その国の人間を救えるのは、その国の人間でしかない」
「それでも、できるところからやるしかない…か」
「そうだ」
車はダッカのシェラトンホテルに向かっていた。初めてみるバングラデシュの夕陽はまだ高く、少しだけ大きかった。
| 固定リンク
「恋愛」カテゴリの記事
- 第56章 夫からの挑戦状(2009.11.18)
- 第55章 男たちの闘い(2009.11.18)
- 第27章 愛と憎しみ(2009.01.07)
- 第24章 愛が壊れるとき(2008.12.23)
- 第53章 新しいパートナー(2009.09.27)


コメント