第48章 夫の涙
新学期に入ってから美樹の不登校が続いていた。美樹は始業式に行っただけで、それ以後はずっと家にこもったままだ。久美子は学校から呼び出しを受けた。
「美樹さんは成績もよく、まじめで一学期は学級委員も務めてくれました。彼女と仲のよかったクラスメイトも電話したそうですが、出てくれないとか。こちらでもいろいろと当たってみたんですが、校内でのトラブルはないと思われます。お母さんは何か心当たりはおありですか?」
担任の教師にそう言われて、久美子は困ってしまった。夫の浮気が原因で、家庭がこじれているとは言い難い。
「電話だけでなく、お友だちが学校帰りに授業でとったノートを届けてくれています。でも会おうとしなくて…。本当に申し訳ありません」
「美樹さんはどこかへ外出することはありますか?例えば、素行の悪い子とつきあっているということは…」
「いえ、それはありません。引きこもりですから」
「お母さんとは普通にしているんですよね?」
「いえ、それがまったく口をきいていなくて…」
「では、進路のこともまだ?」
「はい。でも何とかして話し合おうと思っています。幸い食事だけは一緒にとってくれていますし。ご心配をおかけして申し訳ありませんが、もう少しお時間をいただけますか」
家に帰ると階下まで音楽が響いていた。美樹がプレイヤーのボリュームをいっぱいにして音楽をきいているのだ。美樹が毎日していることは、部屋でゲームをしているか、音楽をきいているか、明けても暮れても寝ているかのいずれかだ。パソコンは家族共有で居間に置いてあるため、ネットにかかりきりということはない。
美樹が不登校になってから久美子も外出はせず、買い物に出る時は週末、夫が家にいるときだけにした。だが、呼び出しを受けた今日だけは見張っているわけにもいかず、もしかしたらどこかへ出かけてしまうのではと心配だったが、きこえてくる音楽をきいて安堵した。
久美子は美樹の部屋をノックしたが、応答はなかった。音楽できこえないのかもしれない。幸いなことに美樹の部屋に鍵はついていない。美樹が引きこもってから、久美子は一度もその部屋には入らなかったが、今日は意を決して入ることにした。
思い切ってドアを開けると、美樹はベッドに仰向けに横になり、目を閉じたまま音楽にきき入っていた。久美子はプレイヤーの電源を一気におとした。美樹は目をカッと見開き、傍らに立っている久美子を睨みつけた。
「何するんだよ!このくそばばあ!」
その瞬間、美樹の頬に久美子の平手打ちが飛んだ。
「私はまだ若いのよ!あなたにばばあ呼ばわりされる覚えはないわ!男の浮気なんてね、今どき珍しいことでもなんでもないのよ!14にもなってそれしきのことですねているなんて、甘ったれているんじゃないわよ!」
久美子は美樹が物心ついてからこれまで、手を上げたことも怒鳴ったこともない。美樹は叩かれた頬に手をあて、呆然とした。
「学校に行かなくて将来困るのは、私でもパパでもないの。あなたなのよ。ぐれるのならそれでもいいわ。高校にいかないならそれもいい。でも、すべては義務教育を終えてからよ。中学まで行くのは日本国民の義務ですからね。それすら満足にできないなら、義務教育のない国へ行っちゃえばいいわ。とにかく、中学さえ卒業するなら、私は何も言わない。そして卒業したらさっさとこの家を出て行きなさい」
「出ていけなんて、そこまで言うことないじゃない!」
「だって、この家が嫌なんでしょ?パパとママが許せないんでしょ?」
「……」
「あなたはどうしてほしいの?パパとママが離婚すればいいの?」
「えっ…」
「私がパパを責めて、離婚すればいいのよね?」
「それは…」
「離婚してパパは他の子のパパになる。ママは独りで生きていく。ううん、ママだってまだ若いし、女としてひと花もふた花も咲かせたいから、再婚してもいいわよね。相手が子持ちのバツイチなら、ママも他の子のママになるわ。そうしたら、あなたはどうするの?中卒で働いて、独りでやっていく?」
「二人とも私を理由にして、離婚しないんでしょ?そういうのは耐えられないの!」
美樹はむきになって叫んだ。
「なるほどね。あなた本当はパパとママに離婚なんてしてほしくないんでしょ?相手の人に子供が生まれて、大好きだったパパがあなただけのパパでなくなってしまうのが嫌で、やきもちやいているのよね?」
「……」
「子供扱いするわけじゃないけど、大人には大人の事情があるのよ。パパに女の人ができたのはママにだって原因があるの。ママがパパを大切にしていたら、こんなことにはならなかったのよ。だからママはパパだけを責められないのよ」
「でもママは家のことだってちゃんとしていたじゃない」
「パパだって家族を養うために、会社の仕事はちゃんとしていたでしょ?」
「あっ…!」
美樹ははっとしたように手で口元をおさえた。
「そういうことなのよ。母親としての義務、父親としての義務とは別に、夫婦はいたわり合いが必要なのよ。親子と違って夫婦は他人だから、他人が家族でいるためにはそういう努力が必要なの。あなたにはまだ難しいかもしれないけど。あなたがもう少し大人になって恋愛したら、わかってもらえると思う。こればかりはどんなに頭がよくても、経験がないとわからないことなのよ。年をとればわかるということでもない」
「ママ…」
「パパを許してくれとは言わないわ。パパだってあなたに許してもらえるとは思っていない。でも、男として外で何をしようと、あなたに対する父親としての愛情は変わらないの。変わってないの。それはわかってあげてほしいのよ」
「私のパパは仕事ができて出世もしていて、ママも大切にして、自慢のパパよ。それが私のパパなのに、それなのに…」
美樹の瞳から涙がこぼれた。久美子は傍らに腰掛け、そんな美樹を抱きしめた。
「完璧な人間なんていないわ。完璧に見えたのは、それだけ頑張りすぎていたからよ。人間は頑張りすぎると疲れちゃうでしょ?パパだって人の子よ。失敗することだってあるわ。間違えることだってある。ただ、美樹が好きだから、美樹の前では頑張ってカッコつけていたのよ」
「ママは…相手の女の人と会ったの?」
「いいえ」
「相手の女の人が憎らしくはないの?」
憎らしくはない、とは言えない。だが、これ以上嘘の上塗りもできない。
「憎んでも、何も変わらないでしょ?相手の人はこのままでいいと言っているのよ。生まれてくる子はパパの子として認知されても、パパと暮らすことはないの。パパはこれまで通りあなただけのパパなのよ。私たちの生活は今までと何も変わらないの。ママはそれだけで充分よ」
「ママ…」
美樹の表情が和らいだ。
「ねえ美樹、相談があるのよ。進路のことだけど」
「ママ…私、中卒で働くなんて考えてもいなかった…」
「違うわ。今度はあなたのことを言っているんじゃなくて、ママの進路のことよ」
「えっ、進路って…だって、この生活は変わらないって、離婚しないって今言ったばかりじゃない」
「違うわ。ママのいう進路っていうのは就職活動のことよ」
「就職活動?」
「ええ。ママはね、ちゃんと働きたいの。これまでみたいに少しの時間で働くんじゃなくて、丸一日、正社員として勤務したいのよ。だから、あなたやパパにも家事の協力をお願いしたいの。ママやパパのことが原因でなく、学校に原因があってどうしても行きたくないなら、通信教育か転校とかして卒業すればいいわ。通信教育っていうのが義務教育にあればだけど…。それで卒業するなら、あなたが家にいて家のことをやってくれれば助かるし。もちろんその分のお給金は払うわ。あなたにとってはアルバイト代も入るわけだし、一石二鳥でしょ?」
「私、学校が嫌で行かなかったわけじゃないから。悪いけど…」
「あら、そうなの?それは残念」
「今日はパパ、まっすぐ帰ってくるかな…」
「さあ、平日だから夕食は外食かもね。どうして?」
「久しぶりにパパの好きなカレーを作ってあげようかなって思って…」
「パパにはママから電話を入れてみるわ。美樹がご飯を作ってまってるって」
「それはやめて!私はまだ怒ってるんだから!」
美樹はそう言って横を向いてしまった。
「わかったわ。でもパパ、きっと喜ぶわよ」
久美子はそう言って、美樹の肩に手を置いた。
その日、夫はいつも通り外で夕食を済ませ、12時過ぎに帰ってきた。
「おかえりなさい」
「まだ起きていたのか」
「あなたをまっていたのよ。夕食は?」
「済ませてきたよ。きくまでもないだろ。なぜそんなことを聞くんだ?」
「今日は美樹が夕食を作ってくれたの。あなたの好きなじゃがいもたっぷりのカレーよ」
「美樹が?」
キッチンテーブルには皿とスプーンがセットされ、そこに置かれた白いメモ用紙には“パパへ”とだけ書かれていた。夫はガスコンロの上に置かれている鍋の蓋をとって言った。
「これからすぐに食べるよ」
夫は皿にごはんとカレーを盛り、レンジにセットした。
「美樹、明日から学校へ行くって。高校卒業したら大学に行きたいから、進学校を受験するって。どこの高校にするかは、あなたと私と3人で話そうってことになったの」
「久美子、君…どうやって説得したんだ?」
「説得なんてしてないわ。美樹が心を開いてくれたのよ。あなたが言う通り、離婚しないことが功を奏したわ。子供ってなんだかんだいっても、親には一緒にいてほしいものなのよね。あなたの言うように私、母親として軽率だったと思う。ごめんなさい」
久美子はそう言って夫に頭を下げると、レンジからカレーを出してテーブルに置いた。
「そうか。美樹が口をきいてくれるのか…」
「ええ」
カレーを食べながら夫は泣いた。初めてみる涙だった。
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