第56章 夫からの挑戦状
達郎と鈴木は向かい合ったまま沈黙していた。その緊迫した雰囲気に、拓也は息を呑んだ。達郎は深いため息をついた後、ニッと笑って切り出した。
「プロジェクトリーダーといっても、所詮は組織の傘下にいる人間です。設計の変更を提案しても、突っぱねられることもあります。今回はたまたま受け入れてもらえましたが。実は今回の件は変更ではなく、僕の設計ミスなんです。このことで当社のみならず、各務さんにも多大なご迷惑をおかけしました。屋根材は搬入済みにも関わらず、無条件で引き揚げてくださるとか。本当にありがとうございます」
達郎はそう言って頭を下げた。
「ああ、そのことですか。実は無条件というわけじゃないんです。当社には当社の算段があってのことですから」
「算段?」
達郎は顔を上げて尋ねた。
「今回沢木さんが設計されたログハウス、世界ログハウス・オブ・ザ・イヤーに出展されるそうですね」
「えっ!」
達郎は驚きを隠せなかった。そのことはバングラデシュにいるビルダー達とジョン、スティーブ、そして今隣にいる拓也しか知らないはずだ。
「我々商社はあらゆるところにアンテナを張り巡らせています。この世界では情報が総てです。いや、“情報を制する者が市場を制す”というのは、何もこの業界に限ったことではない。全てのビジネスに言えることです。ここで使う材料、全部が無理なら、柱の一本だけでもいいんです。それだけでも充分もとはとれますから。どういうことかわかりますか?」
「いえ…」
「あなたがベスト・デザイン賞を獲ったらどうなります?それだけであなたは、当社にとって何の宣伝費もいらない広告塔になるわけです」
「広告塔?」
「作品に使われたのはどこの材料だということになるわけですよ。事実、世界ログハウス・オブ・ザ・イヤーの受賞作を手がけたメーカーは、それ以後、受注の桁が一桁上がったという報告を受けています。世界規模でビジネスを展開している我々にとって、これは大きなチャンスです。そこから生まれる利益に比べたら、搬入済みの材料を無料で引き揚げるくらい、たいしたことではないんです。ですから、あなたには何としてもベスト・デザイン賞を獲っていただかなくては。期待していますよ」
達郎は返す言葉が見つからなかった。拓也も黙っていた。その時、室内の電話が鳴った。
「ちょっと失礼します」
そう言って鈴木は席を立ったが、すぐに戻ってきた。
「すみません。スケジュールが押しているのを忘れて、つい話し込んでしまいました。実はこの後、別の商談を控えておりまして」
「あ、いえ。こちらこそ。今日はご挨拶に伺っただけですから、これで失礼します」
達郎はそう言って席を立った。
「ところで、日本にはいつまでおられるのですか?」
「明日の午後には発ちます。工期も押していますし、現場での仕事が山積みなので」
「それはせわしいですね。川野さんとはゆっくり話せなかったな。どうでしょう?今夜一緒に夕食でも。この界隈にはなかなかのものを食べさせてくれる店が揃っています。好物のお店にご案内しますよ」
「あ、いえ。僕は今日、他の仲間とホテルで合流することになっていて。今後の打ち合わせもありますし。せっかくですが…」
拓也は丁重に断った。鈴木は達郎に視線を移した。
「僕も今日は先約があります。せっかくお誘いいただいたのに申し訳ありません」
達郎は新庄と六本木の居酒屋で一杯飲むことになっていた。
「なるほど。先約…ですか」
「はい」
「それはそうですよね。ずっと外国におられて、たまの日本帰国だ。お知り合いの方と積もる話もあるでしょう」
「えっ、あの…」
「今夜はその方と楽しんできてください。では次回、バングラデシュでお会いできるのを楽しみにしています」
鈴木はそう言って右手を差し出した。顔は笑顔だったが、その目は殺気立っていた。
ヒルズをあとにした二人は、近くのカフェでコーヒーブレイクをした。
「優しい顔をして、すごい迫力でしたね。ああ、何かドッと疲れましたよ。僕はああいう人は苦手です。沢木さんがいてくれなかったら、完全に持ってかれていました。蛇に睨まれたカエルっていうんですか。呑まれるってああいうのを言うんですね」
「蛇に睨まれたカエルか…」
達郎は独り言のようにつぶやいた。
「それに、何か沢木さんに挑戦的でしたよね。ベストデザイン賞のことだって、あれじゃ応援じゃなくて、プレッシャーをかけているだけじゃないですか。沢木さん、日本ではあの人と組んで仕事するんですよね。大変だなあ」
「そうでもないさ」
達郎は笑顔でそう答えたが、内心は胃が痛かった。各務商事への土産は、ベスト・デザイン賞以外は認めないとはっきりと言われたからだ。
「他人事じゃないよ、拓也くん。商社と渡り合っていくつもりなら、各務商事は避けて通れない。いや、各務とだけは取引きをするべきだろう。各務はこの業界でナンバーワンのシェアを誇っている。その頂点で舵をとっているのが、今日会った鈴木本部長だ」
「うーん。取引きの前に駆け引きを学ぶ必要がありそうですね」
「どうなんだろう。いろんな取引きがあるだろうけど、土壇場とか、瀬戸際に立ったときに、駆け引きなんかする余裕はないよね。そんなとき、最後に相手を動かすのは、やっぱりその人間の情熱なのかもしれないな。もっともこれは、他の人からの受け売りだけどね」
「情熱ですか。だったら本部長に負けません!」
「ははは。その意気だ。その調子でこれからよろしく頼むよ」
「はい!」
その晩、鈴木は定時で仕事を終わらせ、まっすぐ家に帰った。学校から帰ってきた美樹が、リビングのパソコンでネットサーフィンを楽しんでいた。
「ただいま」
「パパ?どうしたの?こんなに早く帰ってきたりして」
「パパだって本当は毎日このくらいに帰ってきたいんだ。でも企業戦士はそれじゃやっていけないんだよ。ところで、ママは?」
「私が帰ってきたときにはいなかったわ。夕食の買出しに行っているんじゃない?」
「今夜出かけるとか言っていなかったか?メモとか」
そのとき玄関のインターホンが鳴り、美樹が受話器をとった。
「あっママ、おかえりなさい。まってて、今あけるから」
戻ってきた久美子は、スーパーのレジ袋を両手に持っていた。
「あら、あなた。今日はどうしたの?珍しいこともあるものね」
「なんだ、二人揃って。ここは僕の家なんだから、帰ってきちゃ悪いのか?」
「そういうわけじゃないけど。困ったわ。二人分しか下拵えしてないわ」
「僕はあるものでいいよ」
「冗談よ。夕食のメニューなんてどうとでもなるわ。今日はお鍋にしましょう」
久美子はエプロンをかけながら答えた。
「美樹、宿題を先に済ませたら?ネットはご飯を食べてからになさいな。ね?」
「は~い」
美樹は素直に返事をすると、二階の自分の部屋に行ってしまった。
「はい、夕刊」
久美子はそう言って、鈴木に新聞を差し出した。
「今日…沢木に会ったよ」
久美子の顔から笑顔が消えた。
「明日、発つそうだ」
「そう…」
「会いに行かなくていいのか」
久美子は答えを返さなかった。
「なかなかの男だな、あいつは」
鈴木はそう言って久美子から新聞を受け取り、席を立った。
「ところで、今日の鍋は何なんだ?」
「えっ、ああ、スキヤキにでもしようかしら」
「楽しみにしているよ。できたら呼んでくれ」
鈴木はそう言って自分の部屋に行ってしまった。久美子はバックから、達郎から預かっている携帯電話を取り出した。留守電に達郎からのメッセージが入っていた。
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