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第56章 夫からの挑戦状

 達郎と鈴木は向かい合ったまま沈黙していた。その緊迫した雰囲気に、拓也は息を呑んだ。達郎は深いため息をついた後、ニッと笑って切り出した。

 「プロジェクトリーダーといっても、所詮は組織の傘下にいる人間です。設計の変更を提案しても、突っぱねられることもあります。今回はたまたま受け入れてもらえましたが。実は今回の件は変更ではなく、僕の設計ミスなんです。このことで当社のみならず、各務さんにも多大なご迷惑をおかけしました。屋根材は搬入済みにも関わらず、無条件で引き揚げてくださるとか。本当にありがとうございます」

 達郎はそう言って頭を下げた。

 「ああ、そのことですか。実は無条件というわけじゃないんです。当社には当社の算段があってのことですから」

 「算段?」

 達郎は顔を上げて尋ねた。

 「今回沢木さんが設計されたログハウス、世界ログハウス・オブ・ザ・イヤーに出展されるそうですね」

 「えっ!」

 達郎は驚きを隠せなかった。そのことはバングラデシュにいるビルダー達とジョン、スティーブ、そして今隣にいる拓也しか知らないはずだ。

 「我々商社はあらゆるところにアンテナを張り巡らせています。この世界では情報が総てです。いや、“情報を制する者が市場を制す”というのは、何もこの業界に限ったことではない。全てのビジネスに言えることです。ここで使う材料、全部が無理なら、柱の一本だけでもいいんです。それだけでも充分もとはとれますから。どういうことかわかりますか?」

 「いえ…」

 「あなたがベスト・デザイン賞を獲ったらどうなります?それだけであなたは、当社にとって何の宣伝費もいらない広告塔になるわけです」

 「広告塔?」

 「作品に使われたのはどこの材料だということになるわけですよ。事実、世界ログハウス・オブ・ザ・イヤーの受賞作を手がけたメーカーは、それ以後、受注の桁が一桁上がったという報告を受けています。世界規模でビジネスを展開している我々にとって、これは大きなチャンスです。そこから生まれる利益に比べたら、搬入済みの材料を無料で引き揚げるくらい、たいしたことではないんです。ですから、あなたには何としてもベスト・デザイン賞を獲っていただかなくては。期待していますよ」

 達郎は返す言葉が見つからなかった。拓也も黙っていた。その時、室内の電話が鳴った。

 「ちょっと失礼します」

 そう言って鈴木は席を立ったが、すぐに戻ってきた。

 「すみません。スケジュールが押しているのを忘れて、つい話し込んでしまいました。実はこの後、別の商談を控えておりまして」

 「あ、いえ。こちらこそ。今日はご挨拶に伺っただけですから、これで失礼します」

 達郎はそう言って席を立った。

 「ところで、日本にはいつまでおられるのですか?」

 「明日の午後には発ちます。工期も押していますし、現場での仕事が山積みなので」

 「それはせわしいですね。川野さんとはゆっくり話せなかったな。どうでしょう?今夜一緒に夕食でも。この界隈にはなかなかのものを食べさせてくれる店が揃っています。好物のお店にご案内しますよ」

 「あ、いえ。僕は今日、他の仲間とホテルで合流することになっていて。今後の打ち合わせもありますし。せっかくですが…」

 拓也は丁重に断った。鈴木は達郎に視線を移した。

 「僕も今日は先約があります。せっかくお誘いいただいたのに申し訳ありません」

 達郎は新庄と六本木の居酒屋で一杯飲むことになっていた。

 「なるほど。先約…ですか」

 「はい」

 「それはそうですよね。ずっと外国におられて、たまの日本帰国だ。お知り合いの方と積もる話もあるでしょう」

 「えっ、あの…」

 「今夜はその方と楽しんできてください。では次回、バングラデシュでお会いできるのを楽しみにしています」

 鈴木はそう言って右手を差し出した。顔は笑顔だったが、その目は殺気立っていた。

 ヒルズをあとにした二人は、近くのカフェでコーヒーブレイクをした。

 「優しい顔をして、すごい迫力でしたね。ああ、何かドッと疲れましたよ。僕はああいう人は苦手です。沢木さんがいてくれなかったら、完全に持ってかれていました。蛇に睨まれたカエルっていうんですか。呑まれるってああいうのを言うんですね」

 「蛇に睨まれたカエルか…」

 達郎は独り言のようにつぶやいた。

 「それに、何か沢木さんに挑戦的でしたよね。ベストデザイン賞のことだって、あれじゃ応援じゃなくて、プレッシャーをかけているだけじゃないですか。沢木さん、日本ではあの人と組んで仕事するんですよね。大変だなあ」

 「そうでもないさ」

 達郎は笑顔でそう答えたが、内心は胃が痛かった。各務商事への土産は、ベスト・デザイン賞以外は認めないとはっきりと言われたからだ。

 「他人事じゃないよ、拓也くん。商社と渡り合っていくつもりなら、各務商事は避けて通れない。いや、各務とだけは取引きをするべきだろう。各務はこの業界でナンバーワンのシェアを誇っている。その頂点で舵をとっているのが、今日会った鈴木本部長だ」

 「うーん。取引きの前に駆け引きを学ぶ必要がありそうですね」

 「どうなんだろう。いろんな取引きがあるだろうけど、土壇場とか、瀬戸際に立ったときに、駆け引きなんかする余裕はないよね。そんなとき、最後に相手を動かすのは、やっぱりその人間の情熱なのかもしれないな。もっともこれは、他の人からの受け売りだけどね」

 「情熱ですか。だったら本部長に負けません!」

 「ははは。その意気だ。その調子でこれからよろしく頼むよ」

 「はい!」

 その晩、鈴木は定時で仕事を終わらせ、まっすぐ家に帰った。学校から帰ってきた美樹が、リビングのパソコンでネットサーフィンを楽しんでいた。

 「ただいま」

 「パパ?どうしたの?こんなに早く帰ってきたりして」

 「パパだって本当は毎日このくらいに帰ってきたいんだ。でも企業戦士はそれじゃやっていけないんだよ。ところで、ママは?」

 「私が帰ってきたときにはいなかったわ。夕食の買出しに行っているんじゃない?」

 「今夜出かけるとか言っていなかったか?メモとか」

 そのとき玄関のインターホンが鳴り、美樹が受話器をとった。

 「あっママ、おかえりなさい。まってて、今あけるから」

 戻ってきた久美子は、スーパーのレジ袋を両手に持っていた。

 「あら、あなた。今日はどうしたの?珍しいこともあるものね」

 「なんだ、二人揃って。ここは僕の家なんだから、帰ってきちゃ悪いのか?」

 「そういうわけじゃないけど。困ったわ。二人分しか下拵えしてないわ」

 「僕はあるものでいいよ」

 「冗談よ。夕食のメニューなんてどうとでもなるわ。今日はお鍋にしましょう」

 久美子はエプロンをかけながら答えた。

 「美樹、宿題を先に済ませたら?ネットはご飯を食べてからになさいな。ね?」

 「は~い」

 美樹は素直に返事をすると、二階の自分の部屋に行ってしまった。

 「はい、夕刊」

 久美子はそう言って、鈴木に新聞を差し出した。

 「今日…沢木に会ったよ」

 久美子の顔から笑顔が消えた。

 「明日、発つそうだ」

 「そう…」

 「会いに行かなくていいのか」

 久美子は答えを返さなかった。

 「なかなかの男だな、あいつは」

 鈴木はそう言って久美子から新聞を受け取り、席を立った。

 「ところで、今日の鍋は何なんだ?」

 「えっ、ああ、スキヤキにでもしようかしら」

 「楽しみにしているよ。できたら呼んでくれ」

 鈴木はそう言って自分の部屋に行ってしまった。久美子はバックから、達郎から預かっている携帯電話を取り出した。留守電に達郎からのメッセージが入っていた。

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第55章 男たちの闘い

 「エコロジカル・ログ・カンパニーの沢木様でございますね。ようこそおいでくださいました。鈴木はただ今電話中でして、恐れ入りますがこちらでおまち願えますでしょうか」

 各務商事の本社は六本木ヒルズの最上階にあった。「本部長室」と書かれたその部屋からは東京が一望でき、レインボーブリッジとその背後にある東京湾に、数隻の船が浮かんでいるのが見える。

 「最高の眺めですね。夜景はもっと綺麗だろうな。こんなところで毎日仕事をしている人というのは、エリート中のエリートなんでしょうね。僕のような職人風情には及びもつかない気がします」

 達郎は拓也のその言葉に何も返せなかった。そう、学歴も年収も社会的地位も、今の自分には及びもつかない。達郎は目の前に広がる東京を前に、鈴木と自分の立つ位置の違いを思った。

 「おまたせしました」

 ドアのノックと共に、鈴木が現れた。ライトグレーのスーツに身を包み、ボトルグリーンのネクタイを締めている。特別ハンサムというわけではないが、長身でスタイルがよく、全身から男の色気が漂っている。その知的な雰囲気に、達郎も拓也も息を呑んだ。

 「はじめまして。各務商事の鈴木です。このたびはご多忙のところ、わざわざお越しいただき光栄です」

 鈴木はそう言ってまず達郎に名刺を差し出した。

 「あっ、いえ、こちらこそ、突然で申し訳ありません。お時間をいただいて感謝します」

 達郎はそう言って、あわてて名刺を出した。鈴木は達郎の名刺を受け取り、裏返した。

 「英語だけなんですね」

 その言葉に、達郎も鈴木の名刺を裏返した。鈴木の名刺は表が日本語、裏が英語になっていた。一番下に「お会いできたことに感謝します」という一文が添えられている。

 「うちの会社は世界各国に支店があります。ドイツで名刺を配るときは裏にドイツ語、フランスで配るときはフランス語でその一文を添えます。行く先々でその国の言葉を覚えることはできないので、名刺で敬意をはらうとでもいいますか…。些細なことですが、その国の言葉で挨拶を交わすより、この方がずっとインパクトがあります。もちろん、ここで外国のお客様をお迎えするときも同様に、名刺を使い分けています」

 「なるほど…」

 達郎は名刺に視線を落としたまま、そう返すのがやっとだった。

 「ところで、お連れの方をご紹介いただけますか?今度のアジアプロジェクトに急遽参加されることになったそうですね。スティーブ社長から電話で伺いました」

 鈴木はそう言って拓也に視線を移した。

 「はじめまして。川野拓也です。白川郷に住んでいます。肩書きは藁葺き職人ですが、林業も営んでいます」

 拓也は達郎に紹介されるまでもなく、自分から挨拶をした。

 「白川郷の川野さんというと…ひょっとして川野三郎さんの縁戚の方ですか?」

 「祖父をご存知なんですか?」

 「知っているも何も、その昔、激しく門前払いをくらいました。いや、そういう言い方はよくないな。私が営業マンとしてまだ駆け出しだった頃です。私は何とか一旗上げようと新規開拓に躍起になっていて、まだどこも参入していなかった藁葺き家屋の材料に目をつけたんです。ですが川野さんはどんな好条件にも首を振らず、ユーザーとの直接取引を貫かれた。お金と条件だけでは動かないビジネスがあることを、私は川野さんから学びました。ここにきて、そのお孫さんと一緒にビジネスに関わることになろうとは…。いやはや縁とは不思議なものですね」

 そう言って鈴木は拓也に微笑みかけた。

 「今は良質の外材が安く買える時代です。そのせいで、昔のように林業だけで生計を維持するのは苦しくなってきました。とはいえ、外材ほど価格を落とすと、僕ら山師は首を吊らねばなりません。少しは高くても確実で良質なものを、その地域の風土に合った木材を、というユーザーもいます。そういったブランド志向の顧客を取り込むために、これからは商社の力もお借りしなければならないと思っています。祖父の代はともかく、僕の代では前向きに検討していきたいと思います。その折にはぜひお力添えをお願いします」

 拓也はそう言って鈴木に頭を下げた。

 「いや、こちらからお願いするところをそんなふうに言っていただけるとは。何とも嬉しい限りです」

 名刺交換を終えた三人のもとに、お茶が運ばれてきた。

 「ところで沢木さん、屋根組みは以前と同じ杉とヒノキでおやりになるのですか?」

 「どういうことでしょう?」

 「バングラデシュは湿度が異常に高いですよね。私としては松を使ってはどうかと思ったんです」

 鈴木の提案に達郎と拓也は目を見合わせた。

 「松は湿気に強い。ヒノキや杉に匹敵する太さの松が、日本の山奥にはごろごろしています。それを切り出し、当社の特殊技術で早急にヤニ抜きと乾燥を済ませれば、来月の視察に合わせた搬入も可能です」

 「松は僕も考えないわけではなかったんですが、割れがきやすいので、見合わせました」

 「そうでしたか。沢木さんはビルダー職が専門だと伺っていましたが、どうやら普通の建築の知識もおありのようだ」

 鈴木の見下した態度に、拓也は達郎を振り返った。だが、達郎は顔色ひとつ変えずに答えを返した。

 「カナダで一級建築士の資格を取りました。木材については一通り学んでいます」

 「なるほど。これは失礼しました。では壁財については、いかがなさるおつもりですか?」

 「ヒバを使います」

 「ほう。ヒバですか。ヒバにもいろいろありますが、もうお決まりなのですか?」

 「個人的には能登ヒバを使いたいのですが、コストが高くので、現時点では会社から許可が下りるかどうかといったところです」

 「能登ヒバ…ですか。なるほど。どうでしょう?今回の材料調達についても全てをお任せいただけるなら、能登ヒバを格安で提供しますよ。原価の半分でいかがですか?」

 達郎と拓也は再び目を見合わせた。

 拓也の顔は引きつっていた。無理もない。拓也としては藁葺きの技術を提供する代わりに、自分の山の材料を使ってもらえる心積もりだった。むろん達郎もそのつもりで、両者の間で話はついていた。だが達郎としては、受注を横取りされた各務側がおとなしく引くとは思っておらず、そのためにスティーブに直々の交渉を頼んだのだ。

 「その件については後日、うちの専門職がこちらに伺いますので、そのときにお話願えればと思います。先ほど鈴木さんがおっしゃられたように、僕の専門はログハウスの施工です。仕入関係には疎いので」

 達郎はそう言ってはぐらかした。

 「だが、あなたはプロジェクトリーダーだ。今回もあなたの設計を変えるという一声で、全てが動いた。ならば材料云々に関しても、あなたの一声でどうとでもなるのではないですか?」

 鈴木は優しい瞳で微笑みながら、穏やかな口調で揺さぶりをかけてくる。達郎はそこに商社のしたたかさを見た気がした。

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第54章 情事

 「俺だけど、あさって昼飯でもどう?」

 達郎の突然の電話と申し入れに久美子は驚いた。

 「今、白川郷にいるんだ。明日の夜には東京に戻るから」

 「いつ日本にきたの?バングラデシュの仕事は?」

 「続行中だよ。滞りなく進んでる…っていうより、滞りがなくなったっていうか…。詳しいことはあとで話すよ。突然で悪いと思ったけど、せっかく日本に来たんだし、会えないかと思って」

 「昼間なら出られるけれど。どこに行けばいいのかしら。東京ではどこに泊まるの?」

 「品川のグランドプリンスに泊まってるから。レストランでランチでも食おうか」

 「じゃ、ティーラウンジで待ち合わせということでいいかしら」

 「いいよ」

 当日、久美子は予定より早めにホテルにやってきた。ラウンジにはまだ人もまだらで、希望通り特等席に座ることができた。特等席といってもホテル側が指定しているわけではなく、久美子が勝手にそう呼んでいるだけだ。

 久美子はこのラウンジが気に入っていて、都会の喧騒から逃れたいときなど、一人でやってくることもある。窓から差し込む柔らかな陽の光。目の前に広がる美しい庭園。かすかに聞こえてくるBGM。熱い紅茶を飲みながら、これまでの人生に思いを馳せる至福のとき…。贅沢とは豪邸に住むことでも、巨万の富を得ることでもなく、こういう穏やかさに身を置く瞬間であると、久美子は思っている。

 待ち合わせの時間まであと5分もない。久美子はバッグから鏡を取り出し、メイクをチェックした。カップについたルージュをナプキンで拭っていると、達郎が歩いてくるのが見えた。

 「久しぶり」

 白いワイシャツにグレーのジーンズ、黒のジャケット。胸元から、日に焼けた素肌がのぞく。プレートのペンダントヘッドが陽の光に反射して、達郎の瞳を照らしている。端正な顔立ちに、いつもながら見とれてしまう。久美子は人目もはばからず、達郎の胸に顔を埋めた。

 「会いたかったわ…」

 達郎は久美子を一瞬抱きしめたあと、その手をそっとその腰に添えた。

 「じゃ、行こうか」

 「行くってどこに?」

 肩を抱く達郎を見上げるようにして、久美子が尋ねた。その目はいたずらっぽく笑っていた。

 「もちろん、飯食いに」

 達郎もいたずらっぽい目で返した。久美子は口をつぐんでしまった。眉間に皺を寄せたまま横を向いている。すねた表情が可愛い。

 「まずは腹ごしらえして、お楽しみはそれからさ」

 「運動したあとのご飯の方が美味しいと思うけど」

 「まだ12時前だよ。そんなに時間ないの?」

 「夕方までたっぷりあるわ」

 「だったら、別に急がなくたっていいじゃない。君は何か食べたいものとかある?」

 「私は何だっていいわ。好き嫌いはないし」

 「じゃあ、日本らしく寿司でも食おうかな。何たって向こうはカレーづくしだもんな」

 「そうなの?」

 「うん。バングラデシュってもとはインドだからね。毎日カレーなんだ」

 二人はホテル内にある寿司処『松風』でランチを楽しむことにした。店内はひのき造りのカウンターにテーブル席が二つだけ。こじんまりして、おちついた雰囲気だ。客はまだ誰もおらず、二人はカウンター席に腰をおろした。

 「二ヶ月ぶり…かな。君はどうしてた?ちゃんと就職活動をしていたかい?」

 「もちろんよ。行くたびに断られて、でもめげないの。見つけるまであきらめないわ」

 「その意気だ。続けていくうちに見えてくるものがある。やっているうちにコツも掴めてくる。最初は何が何だかわからなくていいんだ。とにかくやりさえすればいいっていう段階。それが過ぎて君の気持ちが本当に望むものにフォーカスできたとき、望み通りの会社が向こうから現れる」

 「ええ、私もそう思うわ」

 食事を終えて、二人は部屋に向かった。部屋のデスクには、バングラスタイルの設計図が広げてあった。達郎は二人分のコーヒーをいれながら、図面に見入っている久美子に話しかけた。

 「なかなかいかしているだろ?屋根を藁で葺くんだ。そのための職人捜しに白川郷に行って、運よく見つかって…。その親方っていうのがまだ20代なんだけど、すごい熱い奴でさ。川野君っていうんだけど、一緒にバングラに発つことになった。明日、東京にくるんだ。一緒に各務商事に挨拶に行く」

 達郎はそう言って久美子にコーヒーを差し出した。久美子は目を丸くした。

 「主人と顔を合わせるのはバングラデシュでではなかったの?」

 「この設計図はつい最近書き直したものなんだ。当初は普通のログハウスを建てるつもりが、急に変更になってね。今回のプロジェクトでは、日本からの材料調達は全て各務商事を通すことになっている。藁葺きの藁は現地で調達するとしても、軸組みや小屋組みの材料は日本のちゃんとしたのを使わなきゃだめだ。各務商事が藁葺き関連の材料ルートを持っていればそれを使うしかないし、持っていなければ川野ルートで各務を間に入れてやるしかない。川野君は職人肌でビジネスに疎いし、各務側はビジネス姿勢でくるから、俺としては川野君に有利になるような契約にもっていきたい。でも…各務に持っていく土産がないんだ」

 「お土産?それって魚釣りでいう餌のことかしら?」 

 「うん。親方に言われたよ。相手がほしいものを探って、それを条件に譲歩させろって。でも、俺はわからないんだよ。駆け引きっていうのかな。そういう交渉のノウハウとか、商社の世界もよく知らないし」

 「それなら、その道のプロを呼んで交渉させればいいじゃない。エコロジカル・ログ・カンパニーにもマーケティング部門はあるんでしょ?そこにいくらだって一流のプレゼンテーターがいるじゃない。自分が得意なことだけやって、後は任せたらいいのよ。そのための組織だもの。あなた一人の力でどうなるものでもないと思うわ」

 「確かにマーケティング部門は存在するけど…。でも、各務商事と会うのは明日だ。その日しかアポがとれなかった。カナダからヘルプを呼ぶにしたって明日には間に合わないよ。先方に会う前に打ち合わせだってしなきゃならないし」

 「明日は川野さんと組む事情だけ説明して、あなたと彼の自己紹介だけで帰ればいいのよ。バングラデシュに戻ってすぐに着手できるわけじゃないんでしょ?交渉はそれまでに済ませればいいことよ。明日にこだわる必要なんて全然ないじゃない」

 久美子はコーヒーカップを脇に置くと、傍らに置いてある藁葺きの資料に目をやった。それは拓也が達郎にテキスト用に持たせてくれたものだった。

 「社長に…交渉を頼んでみるよ。各務を通す契約を結んだのは社長本人だから。今夜にでも電話する」

 「今夜だなんて言わないで、今するべきよ。私がいてやりづらいなら席をはずすわ」

 久美子はそう言って立ち上がった。達郎はとっさに久美子の腕を掴んだ。帰ってしまうと思ったのだ。久美子は達郎の胸に顔を埋め、小声で言った。

 「シャワーを浴びている間に話を済ませて」

 達郎は久美子の助言通り、スティーブに電話をかけた。事情を話すと、スティーブは快く引き受けてくれた。それだけではない。達郎と拓也が各務商事に赴く前に、各務側に直接電話を入れてくれるという。今回の達郎の苦労も労ってくれた。「あとは任せておけ」、スティーブはそう言って電話を切った。

 久美子がバスローブ姿で戻ってきた。達郎は久美子の腰に手を回して引き寄せた。

 「どうだった?」

 久美子は心配そうに達郎を見上げた。

 「君の言う通り、全てうまくいったよ。明日もきっと大丈夫だ」

 達郎は久美子に口づけた。長く味わうようなキスの間に、久美子は片腕を達郎の首にからませ、もう一方の腕で達郎のボタンをはずしていった。達郎のわき腹から背中にかけて青く、赤く、黒ずんだ跡が続いていた。

 「これ、どうしたの?」

 驚いて顔を上げた久美子に、達郎は静かに微笑んだだけだった。達郎の唇と指が久美子の身体を滑り始めた。

 「お土産は利益である必要はないわ。あなたの情熱で夫を落とせばいい…」

 久美子の言葉は続かなかった。二人の足元に久美子のバスローブが落ちた。

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第53章 新しいパートナー

 「もう昼だっていうのに、沢木さんはまだ寝てるのかね?死んだみたいに物音ひとつしないけど、ちゃんと息しとるかね。ちょっと心配になってきたよ」

 「外国から来たんじゃ、そりゃ疲れるだろうよ。“ばんぐら”って遠い国なのかね?」

 「直行便がないからね。恐らくどっかの国で乗り換えて来たんだと思うよ。しかも、着いてそのままハーレーでかっ飛ばしてきたっていうんだから、すごいよなあ」

 遠くで誰かの話し声が聞こえる。達郎はうっすらと目を開けた。真っ黒な天井。太いけやきやヒノキの柱。いずれも黒光りしている。ここは?

 達郎ははっとして飛び起きた。障子を開けて縁側に出ると、拓也が庭の水撒きをしていた。

 「ああ、お目覚めになりました?ちょうど昼飯の時間です。奥の洗面所で顔洗って、囲炉裏のところにきてください。爺ちゃんを紹介しますよ」

 浴衣姿のまま、囲炉裏の部屋へ出て行くと、拓也の祖母がご飯をよそっていた。そこへ拓也と祖父である川野三郎がやってきた。

 「やあ、目が覚めましたかね。わざわざわしに会いにきてくださったとか?」

 「初めてお目にかかります。沢木達郎です。突然来て、ご厄介をおかけして、こんな格好ですみません」

 達郎はかしこまって、深く頭を下げた。

 「まあまあ、足を崩して楽にしてください。沢木さんが寝ている間に、拓也から事情はききました。藁葺き職人を捜しているとか。この部落に藁葺きの心得がある人間はいないこともないが、今すぐ外国っていうのはね。みんな藁葺きが本職ではないし、仕事をもっているしね。できることならわしが行ってやりたいが、この齢と身体じゃどうにもならんね」

 「はい…」

 「まあまあ、仕事の話は後にして、とにかくたくさん食べて、精つけな。ねえ、沢木さん」

 「あ、はい。ありがとうございます」

 拓也の祖母がそう言いながら、けんちん汁をよそってくれた。

 「味付けはどうかね?ちょっと濃かったかね?」

 「いいえ。ちょうどいいです。本当にうまいです。ゆうべもすごくうまかったけど、今日も最高です。遠慮なくご馳走になります」

 「うれしいねえ。この二人はそういうことは言ってくれんから」

 「わかりきってることを、わざわざ言うこともないだが」

 「そうだよ、婆ちゃん。口では言わんでも、ちゃんとわかってるって」

 三人のさりげない会話が胸に染みる。こんなふうに温かい家庭の雰囲気を、しばらく忘れていた。

 「さっきはがっかりさせてしまったがね、沢木さん。まんざら職人の宛てがないわけじゃないだよ。わしから見ればまだ一流とまではいかんが、それでもよければ、若くていいのがいる。どうするね?」

 「本当ですか?ぜひ、お願いします!で、その人は今どこに?」

 目を輝かせて身を乗り出した達郎に、三郎と拓也は目を見合わせてニッと笑った。

 「僕ですよ、沢木さん」

 「えっ?」

 「拓也は日本でも数少ない本業の茅葺き職人じゃて。わしには息子がおらんで、跡取りがいなくてあきらめていたんじゃが、こいつが跡を継いでくれての。わしの技術はこいつに全部渡してある。経験は浅いが、仕事は折り紙つきじゃ。きっとあんたの役に立つじゃろて」

 「でも、本業なら、請け負っている仕事とかあるんじゃ…」

 「今決まっている仕事は、京都のとあるお寺の葺き替えです。そのあと、仲間と国内の藁葺き屋根の葺き替えをして周ることになっています。依頼される仕事の大半は世界遺産や地方都市の文化遺産とかの葺き替えです。職人が少ないせいか、受注にはこと欠かなくて…。それにあぐらをかくわけではないんですが、契約をずらしてもらって、11月までは仕事を入れてないんです。ですから、すぐにでもご一緒できますよ」

 「でも、仕事を入れてないのは、何か予定があるからですよね?」

 「来週からアジアを放浪する予定でいたんですよ。バングラデシュから入って、インド、ネパールの順で。バングラデシュは観光地化されていない国だから、ぜひ行ってみたくて。だから、ビザも航空券もばっちりです。まったくの奇遇ですが、お話をきいたとき、鳥肌が立ちました。僕は先週まで仕事で東北にいて、旅行の準備にここに帰ってきていて、でも来週には出ちゃうわけでしょ?こんなベストなタイミングで出会っちゃうってことは、沢木さんとの出会いはもう運命だと思いました。バングラデシュはインドと違って情報が少ないので、正直、一人で乗り込んでいくのは不安だったんです。だから仕事とはいえ、今回の話は願ったり叶ったりで。それに、ログハウスの上に藁葺き屋根を載せるなんておもしろそうだ」

 「純粋な日本家屋じゃないわけですが、できますかね?」

 「もちろん!僕は日本以外の、ヨーロッパの藁葺き屋根についても勉強しましたし、実際にイギリスの藁葺き職人の工房で二週間働かせてもらった経験もあります。そこで学んだのは工法の違いこそあれ、外国だろうが、日本だろうが基本は同じだということでした。だから藁葺きは、どんな建築とも融合できると思っています。前例がないなら、これを機につくればいいだけのことですよ!」

 達郎は拓也の目の輝きとその熱さに圧倒された。

 「それから、ログハウスを世界中に広めたいっていう、沢木さんの会社の理念にも感動しました。藁葺きは日本に限ったことじゃなく、世界のあらゆる国に存在しているわけですが、それが今、新築家屋として流行っている国もあるんです。ですが日本の場合、職人不足と維持の関係で、一般家屋という点では減少どころか絶滅寸前なんです。僕はそれを食い止めたい。そして、藁葺き家屋の良さを見直してもらいたい。コストがかからない、維持しやすい藁葺き家屋をユーザーに提供し、日本に根付かせるのが僕の夢です。そういう意味では、今沢木さんがおやりになっているプロジェクトには共感します。ぜひ、一緒にやらせてください!仲間にはすでに電話で話をしました。ただ、日本全国に散らばっているんで、結婚している奴もいるし、すぐに集結というのは無理ですが、何人かは即決でOKをくれました。僕と一緒にというわけにはいかないですが、ビザがとれしだい遅れて現地入りしますよ。それから材料の調達ですが、海外に持ち出したことがないので、何とも言えないです。今、担当に調べてもらっていますが。ただ藁に関しては、気候に則したものが一番だと思うので、現地の藁を使う方向で行きたいと思います。どうでしょう?」

 達郎は言葉を失っていた。拓也の決断と実行力の速さに舌を巻いたと言ってもいい。自分が眠っている間に、日本に来た目的のほとんどが達成されてしまった。昨日会ったばかりの、今目の前に座っているこの青年の力で…。

 「恩にきります!」

 達郎はそう言って深々と頭を下げた。本当に助かった。昨日、川野氏が88歳だと言われたときには、もうだめだと思った。それがたった一日で片がつくとは…。

 「一週間、と言っていましたね?せっかくきたんだから、ここでゆっくりしていかれたらいいですよ。うちは全然かまわないし、藁葺きや合掌造りについても詳しく説明したいし」

 「ああ、それがいい。話だけなら、今のわしも役に立てるからの。ここで旅の疲れもとっていきなされ。帰る頃にはその頬の腫れも引くじゃろうて」

 「ありがとうございます!」

 結局、達郎は白川郷で2泊し、東京に戻った。東京では連絡を受けた久美子が、その帰りを待ちわびていた。

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第52章 白川郷へ

 達郎はダッカからバンコクへ飛び、バンコクからシンガポール航空で成田へ飛んだ。成田に到着したのは午前6時半、税関を出たのが7時半だ。白川郷までの最短ルートは、羽田から富山まで飛行機で一時間、そこから車で白川郷まで一時間半だ。だが、羽田空港に問い合わせをしてみると、富山までの便は満席で、空席のある便は最終便だけだった。最終便までは12時間以上ある。

 「キツいけど、仕方ないな…」

 達郎は東京のレンタルバイク屋でハーレーを借り、高井戸ICから中央自動車道に入った。東京から白川郷へのバイクの最短ルートは、中央道を名古屋方面に向かってひた走り、岡谷ジャンクションで長野自動車道に入る。途中の松本インターチェンジで降り、そこから一般道(国道158号線)を安房峠に向けて進む。安房峠道路を過ぎて再び158号線に戻り、東海北陸自動車道の飛騨清見ICへ向かう。飛騨清見ICから白川郷ICまでは50分で着く。東京からの走行距離はおよそ350km、所要時間は約5時間半である。

 達郎が到着したのは夕方の、夕日が沈みかけている頃だった。まず観光案内所に行き、白川郷の藁葺き職人として有名な川野三郎氏について尋ねた。

 「ああ、川野さんちね。ここから歩いて5分くらいだけど?」

 「ぜひお会いしたいんです!お宅にいらっしゃいますかね?」

 「ああ、いると思いますよ。今朝も散歩してたしね」

 「散歩…ですか?あの、仕事は?日本の藁葺き職人として有名ですよね?」

 「そりゃ、職人としての腕はピカ一だったろうけどね」

 「だった…?」

 「だってアンタ、川野さんはもう88だもん。足腰が悪くて、杖ついて歩いてるよ」

 「そんなおじいさんだったんですか!」

 思わず大声で叫んでしまった。

 「アンタ、どこから来たの?」

 「えっ、ああ、バングラデシュから…」

 「ばんぐら?え?横文字?ひょっとして外国からきたの?わざわざ?」

 「はあ、まあ…」

 達郎はヘルメットを片手に、その場にへなへなと座り込んでしまった。

 「おじさん!いる?」

 その時、入り口から一人の青年が顔を覗かせた。

 「おお、拓坊か。ちょうどよかった。今おまえんとこの爺さんに会いたいって人がきててな。この人なんだが。何でも“ばんぐら”とかっていう国から来たんだと」

 青年と達郎の目が合った。

 「バングラって、ひょっとして、あのバングラデシュのことですか?」

 青年が達郎に話しかけた。

 「あ、はい。俺は沢木達郎といいます。今、バングラデシュでログハウスの学校を建てていて…。どうしても藁葺きのノウハウがいるんです。でも工期が押してて、職人さんを連れてくるしかなくて、それでネットで調べて、ここにきたんです」

 「いつここに?」

 「今さっきです。まだ着いたばかりで…」

 「じゃ、今夜はどうされるんですか?もうどこかに予約はされてます?」

 「いえ。寝るとこはこれから捜そうかと…」

 その時、達郎の腹が鳴った。機内の朝食以来、何も食べていなかったのだ。青年と観光案内所のおじさんは顔を見合わせた。

 「よろしかったら、このままうちにいらっしゃいませんか?詳しいお話をきかせてください。沢木さんさえよろしければ、今夜はうちに泊まればいい」

 「え、いや、それは…。そういうわけには…」

 「それがいい。今夜はゆっくり湯に浸かって、身体を休めなされ。仕事も大事だが、身体が資本じゃて」

 「じゃ、決まりですね。おじさん、ここに野菜置いとくからね!」

 「おう、いつも悪いな。婆さんによろしく言っててくれ!」

 外に出ると、日暮れ時の空に三日月が浮かんでいた。

 「僕は川野拓也といいます。うちはここから歩いてすぐですよ。行きましょう!」

 「あ、じゃあ、バイクとってきます。ちょっとまっててもらっていいですか?」

 「バイク?飛行機とタクシーできたんじゃないんですか?」

 「いや、富山便はいっぱいでとれなくて…」

 「バングラデシュからはいつ着いたんですか?」

 「けさです」

 「ええっ!けさ日本に着いたんですか?それでバイク飛ばして一気にここまで?そんな無茶苦茶な…。身体、大丈夫ですか?」

 「はあ、なんとか…」

 実はくたくただった。達郎がハーレーに乗って現れると、拓也は再び目を丸くした。

 「うわあ、これハーレーじゃないっすか!かっこいい!」

 「借り物ですから…。メット俺のしかないんで、ノーヘルでよければ乗っていきますか?見たとこ、警察もいないみたいだし…。これなら1分で着きますよ」

 「僕、ハーレーって乗ったことないんですよ!ぜひ、乗せてくださいっ!」

 川野家は明治元年築の、屋根裏部分を二層、三層に区切った切妻造りの家だった。藁葺き屋根の勾配は60度。『茅葺き・ウスバリ構造』という、ここにしかない代表家屋の一つだ。その外見もさることながら、中に入るとその柱や桁、梁に圧倒された。歴史の重みとでも言おうか、達郎はしばし言葉を失って佇んだ。

 「婆ちゃん、爺ちゃんは?お客さんなんだけど」

 「お爺さんならもう寝たよ」

 「ああ、やっぱり。間に合わなかったか。じゃ、話は明日ですね。すみません」 

 「寝たって…。あの、まだ6時そこそこですよね?」

 「年寄りは寝るのが早いんですよ。朝もすっごい早いけど」

 「……」

 その晩、達郎は拓也の祖母の郷土料理に舌鼓を打ちながら、白川郷に来たいきさつを話した。拓也は熱心に達郎の話に聞き入っていた。

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第51章 新たなる試練

 達郎は頭を抱えていた。藁葺き屋根といって何となく浮かんだのが岐阜県白川郷の合掌造りだった。そんなわけで、藁葺き職人を日本から呼び寄せると言ったのは単なる思い付きに過ぎない。実際に白川郷に出かけていって、運よく見つかったとしても、日本国内ではなく、バングラデシュで働くと聞いたら引いてしまうかもしれない。しかもログハウスの上にその屋根を載せるなんて、その世界の人間にしてみれば邪道とも言える。本人のパスポートやビザの手配、材料の調達まで考えると、工期をひと月ではなく、二ヶ月に延長してもらって助かった。だが、実際に突き詰めていくと、二ヶ月ではとても足りそうにない。

 だがやると言った以上、後へは引けなかった。達郎はまず、インターネットで藁葺き屋根のことを調べた。藁葺き屋根は日本やアジアに限らず、ドイツやイギリス、タヒチのボラボラ島をはじめとするビーチリゾートの海上ビラなど、世界各国に存在していた。だが、言葉の壁やコミュニケーションのことを考えると、やはり日本人の方がやりやすい。達郎はとにもかくにも白川郷に行こうと決めた。

 翌日、ホテルの会議室にビルダーたちを集め、新しい設計図を広げながら、その変更と工期の延長を告げた。そして職人を連れて帰るまでの間、自分の代わりに現場を取り仕切るサブリーダーを募った。ビルダーたちの間にざわめきが起こった。加えて、その作品を世界ログハウス・オブ・ザ・イヤーに出展すると言ったとたん、ざわめきはブーイングの嵐に変わった。

 「ふざけるな!おまえ、俺たちをいったい何だと思ってるんだ!」

 「そうだ!いくら会長のお気に入りだからって、もう我慢ならん!ログハウス・オブ・ザ・イヤー?おまえの点数稼ぎのために利用されるなんてまっぴらだね!」

 「工期を二ヶ月も延長するなんて、おまえと違って俺たちの中には家庭がある奴だっているんだよ!いくら責任者だからって、勝手にぽんぽん決めるな!」

 もともと今回のプロジェクトチームのメンバーは、達郎と気の合うビルダーたちで固めていた。だが、ここにきて人数を増やすことになり、達郎とはそりが合わないビルダーや、達郎を快く思っていないビルダーたちも加わることになった。こちらはいずれも達郎よりエコロジカル・ログ・カンパニーでの勤務が長く、腕も一流揃いだ。

 そのリーダー格であるリックは、現在社長を務めるスティーブに続き、エコロジカル・ログ・カンパニーの看板ビルダーとして世界ログハウス・オブ・ザ・イヤーで何度かベスト・デザイン賞を受賞していた。プライドも高く、今回、達郎の傘下に入ることは不本意だったが、「先輩としてタツローを補佐してやってくれ」とスティーブに頭を下げられ、バングラに赴いた。つまり、達郎派とリック派で現場はふたつに割れており、達郎がリックを立てることで、ここまで何とかやってきたのだ。

 「うちの会社の今年の出展作はリックさんに内定していたんだ!それをなぜおまえが横取りするんだ!」

 「そうだ!そのリックさんにおまえの出展作を手伝えなんて、おまえ、先輩をばかにしているのか!」

 リック派のビルダーのパンチが達郎の頬に飛んだ。その勢いで達郎は部屋の隅に叩きつけられた。追い討ちをかける様に、リック派の他のビルダーたちも、達郎に蹴りを入れ出した。達郎派のビルダーたちが止めに入り、両派で乱闘が始まった。

 「やめろ!」

 腕組みをしたまま黙っていたリックが大声で叫んだ。だが、騒ぎは収まらない。リックは腰を上げ、達郎の前に立ちふさがった。

 「やめろと言っているんだ!これ以上タツローに何かしたら俺が許さん!」

 「でもリックさん!」

 「いいからやめるんだ!おまえら、みんな席に戻れ!」

 その一声でみんな渋々、自分の席に戻った。達郎も席に戻ろうとしたが、ぼこぼこにされて、立ち上がれなかった。リックは達郎を担いで席に戻した。

 「リックさん、俺、リックさんの作品に内定していたなんて知りませんでした…。俺…うっ、ゴホゴホッ!」

 達郎の口から血がボトボト落ちた。

 「うそつけ!知っていて、会長に取り入ったんだろう!」

 「そうだ!そうだ!」

 「うるさいっ!つべこべ言うな!誰の作品を出展するかは会長が判断することだ。俺たちがどうこう言うことじゃない!会社に雇われている以上、その命令は絶対なんだ!気に入らなければ、おまえたちエコロジカル・ログ・カンパニーをやめろ!」

 リックの言葉にその場は静まり返った。

 「タツロー、はっきり言って俺は無理があると思う。設計自体は悪くない。だが、あと二ヶ月じゃ無理だ。会長に電話して、今回の件は取り下げろ」

 二人の会話を皆、固唾を呑んで見守っている。達郎は首を横に振った。

 「それはできません」

 室内はまたざわめいた。

 「なんだと?」

 「あきらめるのは…やることをやってからです」

 「おまえ、俺がここまで折れているのに、聞き入れないつもりか?」

 「俺はビルダーとして出世したくて、設計を変えたんじゃない。ログハウス・オブ・ザ・イヤーなんてどうだっていいんだ。俺は…バングラの人たちに親しんでもらえるようなログハウスを作りたいだけだ。だから…。リックさん、お願いです。力を貸してください。お願いします!」

 達郎はそう言ってリックに土下座をした。カナダに土下座の習慣はない。だから、日本人が土下座をすることが何を意味するのかは、皆は知らない。それでも、達郎が全身でリックに詫び、懇願していることはそれぞれの心に伝わってきた。

 「わかったよ。おまえがいない間、俺が現場を取り仕切ろう。俺の仲間はそれで依存はないが、おまえの仲間はどうだ?」

 達郎が顔を上げて仲間を見回すと、皆笑顔で拍手してくれた。

 「だが、俺にもプライドがある。俺からおまえに条件がある。それを呑んでくれたら、おまえの留守中だけじゃなく、最後まで全面的にバックアップしようじゃないか。俺の仲間にも文句は言わせない。どうだ?」

 「どういう条件ですか?」

 「一週間で職人を連れて帰れ。材料の段取りもつけてこい」

 「そんな無茶な…」

 「おまえがやろうとしていることはもっと無茶なことだ。それくらいクリアできなきゃ、二ヶ月じゃ追いつかん」

 確かにリックの言っていることは正しい。それができれば余裕で工事にかかれる。

 「もし、それができなかったら、おまえはこのプロジェクト・リーダーをおりろ。おまえから会長に辞退を申し入れるんだ。約束しろ」

 達郎派のみならず、リック派からも同情の目が向けられた。

 「わかりました。何が何でも職人を連れて帰ってきます。材料も調達して戻ります」

 翌々日、達郎は頬の腫れも引かないまま日本へ発った。

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第50章 バングラスタイル

 バングラデシュの学校建設は予定よりだいぶ遅れていた。バングラデシュでは停電が毎日だ。それもすぐに復活するわけではない。夕方から深夜に作業ができれば、身体もいくらかラクなのだが、電気がなければどうにもしようがない。そのため、明け方から午前中に集中して作業をすることにしたのだが、また違った問題が起きた。

 朝、現場に行くと、夜にやってきた無数のカエルがログにはりついていたのだ。そのおびただしい数に、達郎もカナダから現地入りしたビルダーたちもぎょっとした。掃いながら作業をするのだが、一匹掃うとまた別の一匹がやってくる。カエルは気温が上がると自然に姿を消すが、一番効率のよい時間帯にカエルが原因で仕事ができないなんて、洒落にならない。

 そこで現地でカエルを掃うアルバイトを募った。正確にはカエルを掃うのではなく、捕獲して袋につめ、どこかに持っていってもらう。カエルも一匹、二匹なら可愛いが、何百匹が透けた袋に入っているさまは何とも気持ちが悪い。だが、そうしてもカエルはやってきた。朝、現場に行くと、いつものように無数のカエルがまっていた。

 ミネラルウォーターも毎日浴びるほど飲んだ。飲めば飲むほど汗が吹きでて、きりがないことはわかっているが、脱水症状を避けるには飲むしかない。毎日、何百本単位でミネラルウォーターが必要になった。そこで、ミネラルウォーターを運んでさげるアルバイトも現地で雇った。

 チェーンソーを握る手が汗で滑り、ログの上に額から流れる汗がぽとぽと落ちる。顔は作業一日目で真っ赤に焼けてしまい、翌日には皮がむけた。長袖のシャツを着て作業をしているのに、腕も赤く焼け、ホテルで浴びる水シャワーも足元におちるときには熱水に近かった。

 バングラデシュでの作業は想像以上にきつかった。この国の平均湿度は70%で、身体を急速に疲れさせる。達郎よりはるかに大柄の、白人で身長2メートルを越すアメフト選手のようなビルダーが、熱射病や熱中症でばたばたと倒れていった。

 バングラデシュの次にはインド、パキスタンでの学校建設が控えている。責任者の達郎は倒れるわけにいかない。午後は冷房の効いたホテルの部屋に戻って休むようにした。仕事に戻る夕方まで、電話をはじめ、いっさいの仕事を遮断し、ひたすらに眠った。

 達郎は社長に頼み込んで、ビルダーの数を倍に増やしてもらい、ローテーションを組んだ。本来、エコロジカル・ログ・カンパニーでは、工期が終わるまでビルダーに定期的な休みは与えないのだが、事情を話して3日に1日、交替で休みをとらせてもらうようにした。むろん、統括責任者の達郎もしっかり休む。

 達郎はホテルの部屋からカナダにいるジョンに国際電話をかけた。

 「親方、バングラの工期を延長してもらえないでしょうか?インドやパキスタンの学校建設についても、見直しをお願いしたいんです」

 「いきなり電話をしてきたと思ったら、ずい分唐突じゃないか。工期を延ばせ、次の建設もストップさせろとは、穏やかじゃないな」

 「すみません」

 「話をきこう」

 「ありがとうございます。まずは工期のことですが、進行が遅れているのは全部俺のミスです。こちらの気候とか、生活事情をしっかり調べておかなかった。そのせいで多くのビルダーを派遣させ、人件費の面で会社に負担をかけてしまいました。社長は快く引き受けてくれましたが、本当にすみませんでした。実は延長の理由は進行の問題じゃなく、設計を変えたいからなんです」

 「設計を変えるだと?ほとんどのログ材はすでにカットしてしまったときいているが?」

 「カットしたログ材は一階用で、すでにログ組みに入っています。俺が変えたいのは二階の部分、つまり屋根です。これはジャパンフーズの新庄社長に指摘されたことですが、ここバングラでいかにもログハウスっていうのを建てたら、学校というより豪邸のイメージに近くなってしまう。もちろん親方の“この国の人にログハウスを知ってもらいたい、広めたい”っていう思いは俺も同じです。だからこそ、このログハウスでつくる学校は手の届かない豪邸ではなく、もっと身近なもの、例えば住居に近い形のログハウスの方がいいと思ったんです」

 「ふむ」

 「それから、これは俺の設計者としてのエゴですが、俺としては、自分が設計をするからには洒落た感じを出したい。そこで、バングラスタイルでできないかと思ったんです」

 「バングラスタイルか。プティア(バングラデシュの田舎町)のヒンズー教寺院をまわったのだな」

 「はい。バングラのヒンズー教寺院は屋根が湾曲しています。これはベンガル地方(インドの西ベンガル州とバングラデシュを指す)独特のスタイルだそうです。ベンガル地方の民家は、昔から土壁と藁葺き屋根で造られていました。雨季は雨量が多いので、屋根をなるべく厚くし、大きな勾配をつけて雨水の切れをよくしたんです。それが屋根の四隅が垂れ下がるスタイルになり、“バングラスタイル”と呼ばれるようになりました。ベンガルの中世のヒンズー教寺院はこれを取り入れて、レンガでこの形を造ったんです

 「そうだ。バングラがひとつのスタイルを“エク・バングラ”、ふたつの組み合わせを“ジョル・バングラ”と呼ぶ。それをやるつもりか?」

 「やらせてもらえるなら。但し、レンガではなく藁葺きにしたいと思っています」

 「ほう。アイデアとしてはなかなかだが、実際にどういう工法でいくのかな?」

 「実は設計図はもう出来上がっています。親方に見てもらえるなら、今すぐにファックスします」

 「見てもらえるもなにも、おまえはもうそれで行くと決めているのだろう?だったら見るまでもない。おまえの好きにするがいい。設計はおまえに一任しているのだからな」

 「ありがとうございます。そう言ってくれると思っていました。ただ、一つ問題があります」

 「なんだね?」

 「俺には藁葺きのノウハウがありません」

 「ふむ。作り方がまったくわからないということだな。で、どうする?」

 「はい。工期はずんずん押しているし、今の俺にはそれを学ぶ時間も余裕もありません。現地の藁葺き職人…というかどうかはわかりませんが、そういう人たちに頼むという手もありますが、バングラの普通の住居感覚でログハウスに挑むのは無理がある気がして…。ビルのつくりひとつとってもお粗末な国ですから。できれば日本からちゃんとした藁葺き職人を呼び寄せることができればと思っています。そのために、工期をあとひと月ほど延ばしてもらえないかと」

 「つてはあるのか?」

 「ありません。来週はじめに各務商事が視察にきます。そのときに相談をもちかけようかと思っています」

 「というと…?」

 「はい。鈴木さんは日本の建築業界に明るい人ですし、人望も厚いときいています。そのつてを通じて紹介をもらえないか頼んでみるつもりです」

 「いくら建築業界に顔が利いても、藁葺き職人の知り合いがいるとは限らないぞ。いたとしても、おまえのために動いてくれるかな。まだ信頼関係もない、ただ未来のビジネスパートナーだというだけで協力してくれるほど、商社は甘くない。何かしらのメリットがあれば話は別だが。それに彼にしてみれば、おまえは自分の女房を寝取った男だ」

 「彼は一流のビジネスマンだときいています。公私混同はしないはずです」

 「確かに彼はビジネスに私情を持ち込むような男ではない。だが、全部がおまえと同じタイプばかりではないと知ることだ。会ったばかりで頼みごとをもちかけるおまえを、調子がいいと思う者も出てくるだろう」

 「よく思われなくても、目的が達成できればそれでよしとします」

 「それでは信頼関係は築けない。信頼関係がつてを呼ぶのだ。相手の信頼も自分の目標も、両方得るようでなければならん。それには交換条件なしで相談を持ちかけるな。先方がもっている業者とのパイプがほしければ、向こうから協力したいと思わせるように仕向けることだ。まずは相手のほしいものを探れ。それをクリアできれば、簡単に藁葺き職人を呼び寄せることができるだろう」

 「そんな…」

 「工期は二ヶ月延長しよう。その代わり、おまえのバングラスタイルを必ず完成させるのだ。そして、その作品を『世界ログハウス・オブ・ザ・イヤー』に出展することにしよう。おまえをエコロジカル・ログ・カンパニーの看板ビルダーとしてな」

 「えっ!あの『世界ログハウス・オブ・ザ・イヤー』ですか?」

 「そうだ。世界各国で建てられたログハウスの中から優秀なログハウスだけが受賞できる栄誉ある賞だ。ベストデザイン賞を獲れ。世界チャンピオンになるんだ。それで一気に世界の一流ログビルダーの仲間入りだ。インドとパキスタンの責任者や参入企業には私が話をつけておこう。だが、おまえのわがままをきくのはこの件だけで、両国の学校建設をとりやめるつもりはない。おまえがなぜ見直しをしたいのか、おおよその見当はついているがね。それはこのバングラスタイルが軌道にのってから話すことにしよう」

 ジョンはそう言って、一方的に電話を切ってしまった。

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第49章 夫婦の絆

 久美子は就職活動に精を出していた。だが、以前と変わらず現状は厳しく、書類選考だけで落とされる日が続いていた。

 「ママ、今日は面接までいけたんでしょ?どうだった?」

 「前の人は30分以上も出てこなかったのに、ママは5分で終わっちゃった」

 「それじゃだめってことだな」

 「パパ、そんな言い方したらママがかわいそうよ」

 「いいのよ。本当のことだもの。これまではハローワークや求人雑誌だけをあたっていたけど、こうなったら求人を募っていない会社にも飛び込むしかないわね」

 「なんだって?」

 「ママ?」

 二人は互いに目を見合わせた。毎週日曜日の夜は、3人で必ず夕食をとることになっている。食事を終えてからの一、二時間が団欒の時間だ。

 「デスクワークで一日働けるならどこでもいいって思っていたけれど、会社に選ばれるんじゃなく、自分で選んだ会社でしか働かないって決めると、どういう業界でどういう仕事をしたいのか、もっと掘り下げて考えないとだめね」

 「会社を選べるだけのキャリアも、年齢でもないのに、そんな考えで就職が決まると思うのか」

 「思うわ」

 「甘いよ、君は」

 「そうかしら。でもやってみなけりゃわからないじゃない」

 「ママ、何だか変わったわね。以前のママならとっくにへこんでいたのに、今は断られれば断られるほど燃えてくるみたい」

 「ふふ。業種はともかく、どういう感じの職場で働きたいっていうのははっきりしているの。年功序列の会社は嫌。かといって何でも結果主義で、仕事さえできれば年配の人を敬わなくてもいいっていう社風も嫌よ。みんなが対等で、できれば役職とかなくて、リラックスして成果を上げていくような、そんな会社で働きたいわ」

 「そんな会社、あるわけないだろう。自分で会社を興さない限りは」

 「それもありだと思って、調べたわ。起業のこと」

 「えっ?」

 鈴木は目を丸くした。

 「でも、それこそ自分の中にちゃんとした指標がないとだめよね。だから、起業はまだムリ。まずはサラリーマンからよ」

 鈴木は言葉を詰まらせた。そんな二人のやりとりを美樹は笑顔で見つめている。

 「さてと。明日も部活で早いから、お風呂入ってそのまま上に行っちゃうけど。じゃ、パパ、ママ、おやすみなさい」

 「おやすみなさい」

 「おやすみ、美樹」

 久美子が夕食の後片付けをしている間、鈴木はリビングのソファーに横たわって、テレビを見ていた。いや、実際には見ていたのではなく、ただつけていただけだった。

 「あなた、先にお風呂に入って。私はまだすることがあるから」

 「ああ」

 「じゃ、私も自分の部屋にいるから、お風呂から出たら声をかけてね」

 久美子はそう言いながらエプロンをはずした。

 「久美子」

 鈴木は部屋を出て行こうとする久美子を呼び止めた。

 「なに?」

 久美子は笑顔で振り返った。

 「美樹の言うように、君は本当に変わった。生き生きして、毎日楽しそうだ。沢木は今外国にいて会えないのに、淋しくないのか?」

 一瞬言葉に詰まったが、久美子はすぐに笑顔で切り替えした。

 「そういう仕事をしている人なんだから、仕方がないわ。それに、今の私は鈴木久美子なんだし、ここでの責任もあるし。美樹の学校の行事とか、町内会のこととか、就職活動の他にも、やらなければならないことはいくらでもあるもの。淋しがっている暇なんてないわ」

 「来月早々にバングラデシュに行く。知っているんだろ?」

 「……」

 「寝室をもとに戻すことは、まだ無理か?」

 「それが妻の義務だというのなら…。私はあなたに食べさせてもらっているんだもの、何も言えないわ」

 「娼婦じゃあるまいし、今どきそんな考え方は古いよ」

 「そうかしら。でも、私たちが結婚した頃って、そういう時代だったわ」

 「義務で相手をしてもらってもうれしくないさ」

 「あなたは?みんなの手前ああ言っていたけど、相手の人とはそのままなんでしょう?」

 「少しは関心を持ってくれていたんだ」

 「それくらいのそよぎはわかるものよ。何年も夫婦をやってるんだもの。そういうことだけわかるなんて、おかしいけれど…」

 「そうだな」

 「あなた」

 「うん?」

 「私、あなたを嫌いになったとか、そういうんじゃないの。勝手な言い方だけど、あなたのこと、今だって私なりに尊敬しているし、大切にも思っているの。わかってくれとは言わないけど…」

 「僕も、彼女のことは大切に思っている。生まれてきた子供も美樹と同じようにかわいい。だが、それだけだ。彼女に君の代わりはできない」

 「私の代わりとかじゃなく、その人自身をみてあげるべきよ」

 「僕を沢木だと思って抱かれることができるか、君は」

 そう言いながら、鈴木は久美子を抱きよせた。あまりに突然で、強く抱きしめられたので、久美子は言葉が出なかった。

 「自分にできないことを人に押しつけるな」

 鈴木はそう言って久美子の唇に軽くキスをした。

 「風呂に入るよ。すぐに出るから」

 鈴木は笑顔で部屋を出て行った。夫の優しい瞳が、久美子の胸を鋭く刺した。

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第48章 夫の涙

 新学期に入ってから美樹の不登校が続いていた。美樹は始業式に行っただけで、それ以後はずっと家にこもったままだ。久美子は学校から呼び出しを受けた。

 「美樹さんは成績もよく、まじめで一学期は学級委員も務めてくれました。彼女と仲のよかったクラスメイトも電話したそうですが、出てくれないとか。こちらでもいろいろと当たってみたんですが、校内でのトラブルはないと思われます。お母さんは何か心当たりはおありですか?」

 担任の教師にそう言われて、久美子は困ってしまった。夫の浮気が原因で、家庭がこじれているとは言い難い。

 「電話だけでなく、お友だちが学校帰りに授業でとったノートを届けてくれています。でも会おうとしなくて…。本当に申し訳ありません」

 「美樹さんはどこかへ外出することはありますか?例えば、素行の悪い子とつきあっているということは…」

 「いえ、それはありません。引きこもりですから」

 「お母さんとは普通にしているんですよね?」

 「いえ、それがまったく口をきいていなくて…」

 「では、進路のこともまだ?」

 「はい。でも何とかして話し合おうと思っています。幸い食事だけは一緒にとってくれていますし。ご心配をおかけして申し訳ありませんが、もう少しお時間をいただけますか」

 家に帰ると階下まで音楽が響いていた。美樹がプレイヤーのボリュームをいっぱいにして音楽をきいているのだ。美樹が毎日していることは、部屋でゲームをしているか、音楽をきいているか、明けても暮れても寝ているかのいずれかだ。パソコンは家族共有で居間に置いてあるため、ネットにかかりきりということはない。

 美樹が不登校になってから久美子も外出はせず、買い物に出る時は週末、夫が家にいるときだけにした。だが、呼び出しを受けた今日だけは見張っているわけにもいかず、もしかしたらどこかへ出かけてしまうのではと心配だったが、きこえてくる音楽をきいて安堵した。

 久美子は美樹の部屋をノックしたが、応答はなかった。音楽できこえないのかもしれない。幸いなことに美樹の部屋に鍵はついていない。美樹が引きこもってから、久美子は一度もその部屋には入らなかったが、今日は意を決して入ることにした。

 思い切ってドアを開けると、美樹はベッドに仰向けに横になり、目を閉じたまま音楽にきき入っていた。久美子はプレイヤーの電源を一気におとした。美樹は目をカッと見開き、傍らに立っている久美子を睨みつけた。

 「何するんだよ!このくそばばあ!」

 その瞬間、美樹の頬に久美子の平手打ちが飛んだ。

 「私はまだ若いのよ!あなたにばばあ呼ばわりされる覚えはないわ!男の浮気なんてね、今どき珍しいことでもなんでもないのよ!14にもなってそれしきのことですねているなんて、甘ったれているんじゃないわよ!」

 久美子は美樹が物心ついてからこれまで、手を上げたことも怒鳴ったこともない。美樹は叩かれた頬に手をあて、呆然とした。

 「学校に行かなくて将来困るのは、私でもパパでもないの。あなたなのよ。ぐれるのならそれでもいいわ。高校にいかないならそれもいい。でも、すべては義務教育を終えてからよ。中学まで行くのは日本国民の義務ですからね。それすら満足にできないなら、義務教育のない国へ行っちゃえばいいわ。とにかく、中学さえ卒業するなら、私は何も言わない。そして卒業したらさっさとこの家を出て行きなさい」

 「出ていけなんて、そこまで言うことないじゃない!」

 「だって、この家が嫌なんでしょ?パパとママが許せないんでしょ?」

 「……」

 「あなたはどうしてほしいの?パパとママが離婚すればいいの?」

 「えっ…」

 「私がパパを責めて、離婚すればいいのよね?」

 「それは…」

 「離婚してパパは他の子のパパになる。ママは独りで生きていく。ううん、ママだってまだ若いし、女としてひと花もふた花も咲かせたいから、再婚してもいいわよね。相手が子持ちのバツイチなら、ママも他の子のママになるわ。そうしたら、あなたはどうするの?中卒で働いて、独りでやっていく?」

 「二人とも私を理由にして、離婚しないんでしょ?そういうのは耐えられないの!」

 美樹はむきになって叫んだ。

 「なるほどね。あなた本当はパパとママに離婚なんてしてほしくないんでしょ?相手の人に子供が生まれて、大好きだったパパがあなただけのパパでなくなってしまうのが嫌で、やきもちやいているのよね?」

 「……」

 「子供扱いするわけじゃないけど、大人には大人の事情があるのよ。パパに女の人ができたのはママにだって原因があるの。ママがパパを大切にしていたら、こんなことにはならなかったのよ。だからママはパパだけを責められないのよ」

 「でもママは家のことだってちゃんとしていたじゃない」

 「パパだって家族を養うために、会社の仕事はちゃんとしていたでしょ?」

 「あっ…!」

 美樹ははっとしたように手で口元をおさえた。

 「そういうことなのよ。母親としての義務、父親としての義務とは別に、夫婦はいたわり合いが必要なのよ。親子と違って夫婦は他人だから、他人が家族でいるためにはそういう努力が必要なの。あなたにはまだ難しいかもしれないけど。あなたがもう少し大人になって恋愛したら、わかってもらえると思う。こればかりはどんなに頭がよくても、経験がないとわからないことなのよ。年をとればわかるということでもない」

 「ママ…」

 「パパを許してくれとは言わないわ。パパだってあなたに許してもらえるとは思っていない。でも、男として外で何をしようと、あなたに対する父親としての愛情は変わらないの。変わってないの。それはわかってあげてほしいのよ」

 「私のパパは仕事ができて出世もしていて、ママも大切にして、自慢のパパよ。それが私のパパなのに、それなのに…」

 美樹の瞳から涙がこぼれた。久美子は傍らに腰掛け、そんな美樹を抱きしめた。

 「完璧な人間なんていないわ。完璧に見えたのは、それだけ頑張りすぎていたからよ。人間は頑張りすぎると疲れちゃうでしょ?パパだって人の子よ。失敗することだってあるわ。間違えることだってある。ただ、美樹が好きだから、美樹の前では頑張ってカッコつけていたのよ」

 「ママは…相手の女の人と会ったの?」

 「いいえ」

 「相手の女の人が憎らしくはないの?」

 憎らしくはない、とは言えない。だが、これ以上嘘の上塗りもできない。

 「憎んでも、何も変わらないでしょ?相手の人はこのままでいいと言っているのよ。生まれてくる子はパパの子として認知されても、パパと暮らすことはないの。パパはこれまで通りあなただけのパパなのよ。私たちの生活は今までと何も変わらないの。ママはそれだけで充分よ」

 「ママ…」

 美樹の表情が和らいだ。

 「ねえ美樹、相談があるのよ。進路のことだけど」

 「ママ…私、中卒で働くなんて考えてもいなかった…」

 「違うわ。今度はあなたのことを言っているんじゃなくて、ママの進路のことよ」

 「えっ、進路って…だって、この生活は変わらないって、離婚しないって今言ったばかりじゃない」

 「違うわ。ママのいう進路っていうのは就職活動のことよ」

 「就職活動?」

 「ええ。ママはね、ちゃんと働きたいの。これまでみたいに少しの時間で働くんじゃなくて、丸一日、正社員として勤務したいのよ。だから、あなたやパパにも家事の協力をお願いしたいの。ママやパパのことが原因でなく、学校に原因があってどうしても行きたくないなら、通信教育か転校とかして卒業すればいいわ。通信教育っていうのが義務教育にあればだけど…。それで卒業するなら、あなたが家にいて家のことをやってくれれば助かるし。もちろんその分のお給金は払うわ。あなたにとってはアルバイト代も入るわけだし、一石二鳥でしょ?」

 「私、学校が嫌で行かなかったわけじゃないから。悪いけど…」

 「あら、そうなの?それは残念」

 「今日はパパ、まっすぐ帰ってくるかな…」

 「さあ、平日だから夕食は外食かもね。どうして?」

 「久しぶりにパパの好きなカレーを作ってあげようかなって思って…」

 「パパにはママから電話を入れてみるわ。美樹がご飯を作ってまってるって」

 「それはやめて!私はまだ怒ってるんだから!」

 美樹はそう言って横を向いてしまった。

 「わかったわ。でもパパ、きっと喜ぶわよ」

 久美子はそう言って、美樹の肩に手を置いた。

 その日、夫はいつも通り外で夕食を済ませ、12時過ぎに帰ってきた。

 「おかえりなさい」

 「まだ起きていたのか」

 「あなたをまっていたのよ。夕食は?」

 「済ませてきたよ。きくまでもないだろ。なぜそんなことを聞くんだ?」

 「今日は美樹が夕食を作ってくれたの。あなたの好きなじゃがいもたっぷりのカレーよ」

 「美樹が?」

 キッチンテーブルには皿とスプーンがセットされ、そこに置かれた白いメモ用紙には“パパへ”とだけ書かれていた。夫はガスコンロの上に置かれている鍋の蓋をとって言った。

 「これからすぐに食べるよ」

 夫は皿にごはんとカレーを盛り、レンジにセットした。

 「美樹、明日から学校へ行くって。高校卒業したら大学に行きたいから、進学校を受験するって。どこの高校にするかは、あなたと私と3人で話そうってことになったの」

 「久美子、君…どうやって説得したんだ?」

 「説得なんてしてないわ。美樹が心を開いてくれたのよ。あなたが言う通り、離婚しないことが功を奏したわ。子供ってなんだかんだいっても、親には一緒にいてほしいものなのよね。あなたの言うように私、母親として軽率だったと思う。ごめんなさい」

 久美子はそう言って夫に頭を下げると、レンジからカレーを出してテーブルに置いた。

 「そうか。美樹が口をきいてくれるのか…」

 「ええ」

 カレーを食べながら夫は泣いた。初めてみる涙だった。

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第47章 肥沃の大地

 バングラデシュはインド亜大陸の東に位置する南アジアの小国である。日本の北海道ほどの国土に1億5000万人(推定)が暮らし、国民の65%が農業を営んでいる。平均所得は日本の20分の1で、世界最貧国の一つだ。ガンジス、ブラマプトラの2大河川がつくる巨大デルタ地帯に位置し、ブラマプトラ川は洪水のたびに分布が変化する。洪水は国に豊かな土壌をもたらすが、国土の3分の1を水浸しにしてしまう。乾季は干ばつにも見舞われるため、食糧自給が追いつかず、バングラデシュでは年間100万トン以上の食料を海外から輸入している。

 気候は亜熱帯モンスーンで、季節は夏(4月中旬~6月中旬)、雨季(6月中旬~8月中旬)、秋(8月中旬~10月中旬)、露季(10月中旬~12月中旬)、冬(12月中旬~2月中旬)、春(2月中旬~4月中旬)に分かれ、雨季の洪水、サイクロン、竜巻、海嘯(かいしょう・河口に入る潮波が垂直壁となって河を逆流する現象)による被害は、森林破壊・土壌劣化・侵食にまで及んでいる。400万人以上が海抜3メートル以下のデルタ地帯に暮らすため、海面が1メートル上昇した場合は、国土の17.5%が水没し、150万人が家屋を失うといわれている。

 「とんでもないところだな」

 達朗はバングラデシュの情報書類に目を通しながらぽつんとつぶやいた。

 着陸態勢に入った飛行機が高度を下げてゆく。窓から見えるのは川や沼、湖ばかりだ。ダッカに近づくにつれ、ようやくマンション、道路、家が姿を現した。本当に首都かと疑うくらいビルが少ない。あってもボロボロで、今にも崩れそうだ。貧しい国というのは首都でさえこうなのかと、達郎は思った。

 空港の入国審査前はとても混雑していた。機内で入国カードを配らないため、ここで書類を見て書き込むのだ。書類を書いてから審査が終わるまでかなり待たされた。荷物を手に取るまで二時間以上かかった。荷物がちゃんと届いただけでよしとする、それがアジアだ。

 税関を抜けて空港の外に出ると、鉄格子の外側に人だかりができていた。たくさんの目がこちらを見ている。現地のガイドが駅まで迎えにきているはずだ。しかし、この人だかりはいったい何なのか。観光地のないこの国に、団体ツアー客が来るわけはなく、外国で暮らして里帰りなんていう人間もそうはいないだろう。それとも大金持ちに仕える召使いが、バカンスから帰国した主人を総出で出迎えているのか。

 「お~い!沢木!こっちだ、こっち!」

 聞きなれた声にふりむくと、新庄が手を振っていた。新庄は現地のガイドと一緒に達郎を迎えにきたのだ。頭にバンダナを巻き、Tシャツにひざ下ぎりぎりのパンツ、ビーチサンダルを履いている。飛行機から見た街の風景にも唖然としたが、そんな新庄に対しても言葉が出なかった。どこからみても放浪者で、とても大手企業の経営者には見えない。

 「久しぶりだなあ。元気だったか。うん?おまえ、ちょっと日に焼けた?」

 新庄はそう言って達郎の肩に腕を回した。

 「新庄、おまえ、その格好…」

 「郷に行ったら郷に従えさ。アジアを歩く時はこれにつきる。おまえはもってこなかったのか?」

 新庄はそう言って片足を少し上げ、ビーチサンダルをぶらぶらさせて見せた。

 「工期が終わるまで沢木さんのお世話をさせていただきますアーロンです。よろしくお願いします」

 新庄の後ろに立っていた青年が笑顔で話しかけてきた。きれいな日本語だ。後でわかったことだが、彼はかつて日本の工場で働いていたということだった。

 「沢木です。これから世話になります」

 達朗はそう言って右手を差し出した。アーロンは照れ臭そうに右手を差し出し、握手に応じた。

 3人でまたせてある車に向かう。その間も鉄格子の向こうにある多くの目は、変わらずこちらを凝視している。

 「気になりますか?」

 アーロンが達郎に声をかけた。

 「ちょっとね。彼らはいったい誰を迎えにきてるの?」

 「彼らは全員物乞いです」

 「えっ」

 「あそこにいるのはほぼ90%がプロだろうさ。五体満足だし、身なりがまともだ」

 新庄が口をはさんだ。

 「乞食にプロなんてあるのか?」

 達郎はあきれ顔で新庄を振り返った。

 「アジアじゃ乞食だって立派な商売なんだよ。この程度で驚いてちゃプロジェクトリーダーは務まらないぜ。おまえはまだアジアを知らない。売上を上げるために、子供の手足を切断する親だっているんだ」

 「売上って、乞食業のか?」

 「インドのムンバイへ行ってみろ。手足をもぎとられたガキが路上にごろごろ転がって、金をせびっているさ。バングラの次はインドだからな。ここで免疫つけとけよ」

 「つまり…俺たちが建てる学校に、すべての子供はこられないってことか?」

 「乞食は学校にはこれないさ。同じ乞食でも親元にいる子供はまだいい。平気で子供を売る親だっている。生まれた子供が障害者なら物乞いとして使えるが、そうじゃない子は売り物さ。売られた子供は奴隷としてこき使われたり、男娼や娼婦にされたり。さらわれて殺される場合もあるぞ」

 「殺すって…誰が殺すんだよ」

 「闇市の臓器ブローカーさ。殺して臓器を売っぱらう」

 「さらわれるのは…孤児か?」

 「ばかいえ。近所のちゃんとしたガキでも誘拐して売っぱらうんだよ。バングラだろうがどこだろうが、本当に治安が悪いところっていうのはな、行方不明なんてザラなんだよ」

 ガイドのアーロンはそんな新庄の話に顔色ひとつ変えず、黙ってきいていた。

 路上に出て目に飛び込んできたのは、人力車(人力自転車)の大群だった。オートリキシャと呼ばれる三輪バイクタクシーも走っている。車は日本の中古車だらけだ。そこに運転マナーは存在しない。速度は常に猛スピードで、カーブだろうが平気で追越しをかけていく。日本ではクラクションは歩行者への警告に使うが、ここでは「邪魔だ、どけ」の意味で使う。新庄によれば、それはバングラデシュに限らずパキスタンやインドでも同様だという。

 車は海沿いの道を走ってゆく。船に荷物を積み込むコンテナはなく、ここでもすべてが人力だ。しばらくして車は街の郊外に入った。川向こうのビルはスカスカで枠組みしかなく、道路は舗装されていない。豊かな緑だけが妙に眩しい。

 車は2時間ほどして大きな空き地に着いた。車を降りると、カンボジアのときと同じように、たくさん人が集まってきた。

 「ここがおまえの作業場だ」

 そこにはすでに材木が並べられ、盗難を防ぐために雇われた護衛?が数人、警護にあたっていた。現場の写真は前もって渡されていたが、実際にその場に立つと身が引き締まる思いがする。

 「おまえ、ここにどんなのを建てるつもりなんだ?会長から今度のプロジェクトの設計は全部おまえがやっているってきいたけど。ここに本当にログハウスを建てるつもりなのか?」

 「当たり前だろ。そういうプロジェクトなんだから。ただの学校じゃ意味がないんだよ。ログハウスのPRも兼ねているんだから。うちの親方は慈善事業はやらない主義だしな」

 「しかしなあ、こういうところにログハウスっていうのは、どんなもんかと思うけどね。まあ、こっちとしてはスポンサーにとやかく言える立場じゃないが…。会長の考えはともかく、そこのところをおまえ自身はどう考えてる?」

 「どうって…」

 「そうか。おまえはこっちの世界を知らないんだったな。まあ、いずれわかるさ」

 新庄はそう言って達郎の肩をポンと叩いた。

 その地域一帯の地主だという年寄りがやってきた。達朗と新庄はその家に招かれた。豪華な造りだった。

 邸宅をあとにするとき、車の周りに子供たちが集まってきた。ダッカの路上で見たみじめな子供とは違う。排気ガスと埃にまみれ、乞食をしている子供の目は虚ろで、笑顔になど縁がないようだった。今、目の前にいる子供たちのくったくのない笑顔はどうだ。達郎の胸は痛んだ。

 「なあ新庄、俺たちのやることは本当に小さいんだな」

 「金持ちが先で貧乏人は後回しだが、それでもやらないよりはましさ」

 「俺たちの手が、底辺に届くにはどれくらいかかるんだろうな」

 「よそ者がその国の人間をどうにかしようなんて傲慢さ。その国の人間を救えるのは、その国の人間でしかない」

 「それでも、できるところからやるしかない…か」

 「そうだ」

 車はダッカのシェラトンホテルに向かっていた。初めてみるバングラデシュの夕陽はまだ高く、少しだけ大きかった。

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